希望の党への合流を決めた民進党の一部議員が、政治信条をもとに選別されたことから、にわかに「リベラル」「保守」という対立軸が注目を集めている。しかし、この二つの立ち位置の違いを正確に理解し、説明できる人はどれくらいいるのだろうか。レッテルを貼り分けられるほど、議員たちの立ち位置はハッキリしたものなのか。『リベラルという病』(新潮新書)の著者、山口真由さんに聞いた。
さて、先ごろ『リベラルという病』を上梓したこともあり、「現代ビジネス」編集部から、小池氏はなぜこれほどリベラル排除にこだわるのか書いてほしいとの依頼を受けた。
結論から言えば、そのような問いは「二重に」意味がないと、私は思うのだ。ただ、意味がないことを意味がないと整理しておくことに意義があろうという、まどろっこしい理屈を立てて、本稿を書き始めることにしよう。
二重に意味がないとした理由の第一は、そもそも日本に「リベラル」なんてないと思うから。第二に、小池氏にリベラルを排除するほどの強い政治信条があるとは思えないから。要するに、「空虚な概念 vs. 空っぽな信条」なのだから、そこには排除も寛容もないでしょう、と。
言葉だけ輸入された、中身のない「リベラル」
民進党幹事長代行の辻元清美氏は、希望の党に公認申請するかどうか問われ、「私はリベラルの力と重要性を信じています。ですから、私は行きません」と答えた。多くの方が、辻本氏の言う「リベラル」っていったい何、と疑問を抱いたことだろう。
憲法改正に反対すること?原発再稼働に反対すること?もしそれがリベラルということなら、その根底にある哲学は、戦争に反対する平和主義だろうか?
太平洋戦争の敗戦国という重い十字架を背負った日本では、戦争と平和へのスタンスが、「保守」と「革新」を分ける大きな軸になってきた。安保闘争しかり。だが、その後「リベラル」という言葉を輸入したことで、日本のイデオロギーは混乱する。
きわめて広い意味を持つ「リベラル」という言葉だが、アメリカの現代政治においては、ニューディールから現在の民主党へと続く一つの系譜を指す。ここで大まかにその流れを解説しておきたい。
世界恐慌の渦中でも、政府は市場に介入しないとの方針を取ったフーヴァー大統領は、生活が立ちゆかなくなったアメリカ国民の怨嗟を一身に集め、退陣を余儀なくされた。続いて大統領に就任したルーズベルトは、政府の公的支出によって需要を下支えし、雇用やビジネスの機会を生み出そうとしてニューディール政策を推し進めた。
フーヴァー大統領(左)とルーズベルト大統領 |
景気の波さえ政府によってコントロールしようとする「大きな政府」論は、経済は市場によってしか調整されないという自由放任の「小さな政府」論と対置され、前者はリベラル、後者は保守として分断される大きな軸となっていく。
そして、そこにアメリカの「神話」が重ねられる。黒人に対して非人道的な扱いをした歴史を深く恥じた知性派は、「人種の平等」を高く掲げた。少数者への共感は、やがて女性やLGBTへと広げられ、それがリベラルを支える大義を生んだ。「多様性への寛容」のため、政府は格差を是正して少数者にも均等に機会を与える必要があるという考え方から、「大きな政府」論が正当化されたのである。
このリベラルの発想は、いかにも「平和主義」につながりそうだが、実は真逆だったりする。人道主義という大義の御旗を振りかざすがゆえに、それを解さない野蛮な連中は武力によってその性根を改めてやろうというのが、リベラルの系譜を受け継ぐ民主党の伝統的な考え方なのだ。
実際、1990年代に民主党のクリントン大統領は、北朝鮮の核施設への空爆を実行寸前に至らせる強硬姿勢を見せている。それに比べ、保守の系譜にある共和党は、孤高のカウボーイよろしく、ヨーロッパの戦争にも干渉しない孤立主義を貫いてきたのだった。
ここまで述べてきたリベラルと保守の真髄には、人間をめぐる考え方の違いがある。
リベラルは「人間の理性」を絶対的に信じる。経済不況や格差は政府の積極的な介入によって解決し、野蛮な帝国は軍事介入によって折伏する。そうやって理性的な人間がコントロールできる領域を広げれば、多様な人間が共存できる理想的な社会ができ上がる。こうした一種の理想主義は、自然を耕し、従えるという発想につながる。
対する保守は、人間に対する深い懐疑がその源にある。荒野の開拓者を原風景とする彼らにとって、大いなる自然の前に人間はあまりにちっぽけだった。だから、彼らは自然を支配するなどというおこがましい発想を捨て、政府の介入は最小限にし、市場は自由競争に委ねようと考える。
そんなわけで、アメリカのリベラルは、憲法改正反対や原発再稼働反対を主張する日本のリベラルとは、真逆の立場をとる。
リベラル派の判事は、時代に合わなくなった憲法を解釈によって変更しようとするのが常だ。「解釈改憲は許されない!」と批判するのは、アメリカではなんと保守派の判事である。また、人間が自然をコントロールすべきとの発想から、アメリカのリベラルは原子力発電を人類の輝かしい到達点と考えている。
一方、日本では、戦後の「保守」「革新」という対立軸を離れ、「リベラル」の中身を定義しないまま言葉だけ輸入したために、混乱が起きた。今日に至るも、リベラルに分類される議員たちが「安倍憎し」以上の何を国民に伝えたいのか、ちっとも見えてこない。
公平のために付言しておくと、今日の事態を招いたのは、保守の側にも責任がある。内閣官房長官時代の安倍晋三氏が記した『美しい国へ』(文芸春秋、2006年)というきわめて評判の悪い本の中で、彼はドラマ「大草原の小さな家」を「古き良き時代のアメリカの理想の家族のイメージ」として、伝統的な家族の価値への回帰を目指したレーガン大統領の政策に同調している。
だが、安倍首相がアメリカの共和党と同じ「保守」思想を持っていると考えるのは、誤解だ。確かに、伝統を重んじるのが保守の立場だが、守るべき伝統が日本とアメリカではまったく異なることを忘れてはならない。アメリカの保守は、解釈改憲を容認しないし、原発も推進しない。
結局、日本では、リベラルも保守も、自らを定義する言葉の意味すらわかっていないというのが現実なのだ。
さて、多少ややこしい話が長くなってしまったが、話を戻そう。
小池氏が自らと政策を異にする勢力を「排除」したこと自体は、別に批判されることでもない。政策を実現するために政党を作るならば、異なる政策を掲げる者と一緒に結党するほうがおかしい。安倍政権に「NO」と言うためだけに寄せ集まった、政策の一致を見ない野合の衆をもって「多様性のある集団」と主張したいなら、話は別だけれど。
そして、そこにアメリカの「神話」が重ねられる。黒人に対して非人道的な扱いをした歴史を深く恥じた知性派は、「人種の平等」を高く掲げた。少数者への共感は、やがて女性やLGBTへと広げられ、それがリベラルを支える大義を生んだ。「多様性への寛容」のため、政府は格差を是正して少数者にも均等に機会を与える必要があるという考え方から、「大きな政府」論が正当化されたのである。
このリベラルの発想は、いかにも「平和主義」につながりそうだが、実は真逆だったりする。人道主義という大義の御旗を振りかざすがゆえに、それを解さない野蛮な連中は武力によってその性根を改めてやろうというのが、リベラルの系譜を受け継ぐ民主党の伝統的な考え方なのだ。
実際、1990年代に民主党のクリントン大統領は、北朝鮮の核施設への空爆を実行寸前に至らせる強硬姿勢を見せている。それに比べ、保守の系譜にある共和党は、孤高のカウボーイよろしく、ヨーロッパの戦争にも干渉しない孤立主義を貫いてきたのだった。
アメリカのリベラルは、日本と真逆の立場
ここまで述べてきたリベラルと保守の真髄には、人間をめぐる考え方の違いがある。
リベラルは「人間の理性」を絶対的に信じる。経済不況や格差は政府の積極的な介入によって解決し、野蛮な帝国は軍事介入によって折伏する。そうやって理性的な人間がコントロールできる領域を広げれば、多様な人間が共存できる理想的な社会ができ上がる。こうした一種の理想主義は、自然を耕し、従えるという発想につながる。
対する保守は、人間に対する深い懐疑がその源にある。荒野の開拓者を原風景とする彼らにとって、大いなる自然の前に人間はあまりにちっぽけだった。だから、彼らは自然を支配するなどというおこがましい発想を捨て、政府の介入は最小限にし、市場は自由競争に委ねようと考える。
そんなわけで、アメリカのリベラルは、憲法改正反対や原発再稼働反対を主張する日本のリベラルとは、真逆の立場をとる。
リベラル派の判事は、時代に合わなくなった憲法を解釈によって変更しようとするのが常だ。「解釈改憲は許されない!」と批判するのは、アメリカではなんと保守派の判事である。また、人間が自然をコントロールすべきとの発想から、アメリカのリベラルは原子力発電を人類の輝かしい到達点と考えている。
一方、日本では、戦後の「保守」「革新」という対立軸を離れ、「リベラル」の中身を定義しないまま言葉だけ輸入したために、混乱が起きた。今日に至るも、リベラルに分類される議員たちが「安倍憎し」以上の何を国民に伝えたいのか、ちっとも見えてこない。
公平のために付言しておくと、今日の事態を招いたのは、保守の側にも責任がある。内閣官房長官時代の安倍晋三氏が記した『美しい国へ』(文芸春秋、2006年)というきわめて評判の悪い本の中で、彼はドラマ「大草原の小さな家」を「古き良き時代のアメリカの理想の家族のイメージ」として、伝統的な家族の価値への回帰を目指したレーガン大統領の政策に同調している。
だが、安倍首相がアメリカの共和党と同じ「保守」思想を持っていると考えるのは、誤解だ。確かに、伝統を重んじるのが保守の立場だが、守るべき伝統が日本とアメリカではまったく異なることを忘れてはならない。アメリカの保守は、解釈改憲を容認しないし、原発も推進しない。
結局、日本では、リベラルも保守も、自らを定義する言葉の意味すらわかっていないというのが現実なのだ。
小池氏が目指すのは「私が輝く日本!」
小池氏が自らと政策を異にする勢力を「排除」したこと自体は、別に批判されることでもない。政策を実現するために政党を作るならば、異なる政策を掲げる者と一緒に結党するほうがおかしい。安倍政権に「NO」と言うためだけに寄せ集まった、政策の一致を見ない野合の衆をもって「多様性のある集団」と主張したいなら、話は別だけれど。
小池都知事を囲む、希望の党の細野豪志氏(左)と若狭勝氏 |
「小池氏は、政策を異にする『リベラル』を排除したかったわけじゃなく、人気のない民進党をそのまま抱え込むと、希望の党が失速すると思ったからじゃないの?」「首相経験者とか自分よりも格上の目の上のタンコブが入り込むのを嫌っただけじゃないの?」という具合に。
都政を牛耳る人相の悪いオジサンを「都政のドン」呼ばわりし、そこに切り込む勇敢な女性として「改革勢力」のイメージを売り物にした小池氏は、アメリカのリベラルのキーワードである「ダイバーシティ(多様性)」を謳うものの、第一次安倍政権で防衛大臣を務めたことからもわかるように、安全保障については安倍首相と相違ない見解を持つ、日本で言うところの「保守」だ。
大衆にウケると思えば「改革者」になり、ときには「保守政治家」に舞い戻る。彼女の中心にあるのは政治信条ではなく、極端な自己中心性ではないだろうか。
都民ファーストの会の国政進出を進めようとした「百合子一筋」若狭勝衆院議員の面目を、「リセット」のひと言でものの見事につぶし(←まあ、若狭氏はそもそも無能だとの批判もあるが)、希望の党に合流すれば民進党候補者がまるごと公認を得られるという前原氏の期待をさらりと裏切る(←まあ、前原氏のお人好しな期待が甘かったといえばそれまでだが)。安倍首相への対決姿勢を明確にしたかと思えば、いつの間にやら自民党との連立も考えられるという。
前原誠司元外相の見立てでは、希望の党と「合流」するはずだったが…… |
「朝からメディアの皆さん、私の発言ばかりを報道して」などと満足げに微笑む小池氏を見ていると、残念ながら、この人の芯にあるのは「私を見て!」という強い欲求だけだと思わざるを得ない。
都民ファーストの会の議員にメディア発言を控えさせるのも、若狭氏や細野豪志氏にメディアへの出演を自粛せよというのも、「私より目立つな」という暗黙の指示ではないか。結局、都民ファーストの会の代表に据えたのも、自分に決して歯向かわない、自分より決して目立たない、自らの元秘書なわけでしょう?
そういう意味で、元滋賀県知事の嘉田由紀子氏と小池氏はよく似た人種だ。嘉田氏が希望の党の公認を受けられなかったときには「やっぱり」と思った。「同族嫌悪」、目立ちたがり屋は目立ちたがり屋が嫌いなのだ。都民ファーストの会から音喜多駿都議が離脱したのも、どう言葉を飾ろうと、「私を見て!」と「僕の声を聴いて!」の対立に相違ない。
橋下徹氏には思想があった
「ポピュリズム」と批判されようとも、橋下徹氏は少し違ったのではないか。だからこそ、大阪維新の会が日本維新の会として国政進出するときには、小池氏に寄せられているような批判が起こらなかったのだと思われる。
橋下氏も確かに目立ちたがり屋ではあろうが、彼には思想があった。
大阪府知事時代の2008年、私学への助成金28億円を打ち切る財政再建策を打ち出した際、高校生12人から猛抗議を受けた。が、橋下氏は、私立ではなく公立校を選ぶ道もあると告げ、公立校には学力が足りないと泣きつかれても、「自己責任」と取りつく島もなかった。大人気ない対応だとも言えようが、子供相手にすら曲げられない確固とした信念があったというのは、いささか持ち上げ過ぎだろうか。
アメリカの保守と重なる「小さな政府」論を明確に打ち出した橋下氏に対し、改革勢力、リベラルにも保守にも変わる小池氏からは、理念が見えてこない。結局のところ、そこには政治信条などないのだろう。
とはいえ、私は、小池氏をある意味あっぱれと思っている。誰だって目立ちたい政治家の中で、埋没しない手腕と度胸はさすがだ。本稿の最初に「日本にリベラルなんてない」と書いたが、小池氏の「私を見て!」という生々しくも力強い野心は、「日本のリベラル」という空虚な概念、妄想をこの際打ち砕いてくれるのではないかと、私は変な期待を抱いている。
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【私の論評】小池氏は、政策論争の前に簡明な言葉遣いをすべき(゚д゚)!
小池百合子氏の話は、とにかくカタカナが多いという印象が強いです。「アウフヘーベン」「AI」「ワイズ・スペンディング」「チャーターメンバー」「リセット」と最近でもかなり多いです。
知事選から知事になってからもかなり使っています。
「ダイバーシティー」「サスティナブル」「ソーシャルファーム」「イノベーション」「メルクマール」「フィンテック」「IoT」「スプリングボード」「ブランディング」「レガシー」。
小池氏は、エジプト・カイロ大卒で語学堪能で知られるますが、哲学用語など難解な言葉も用いるため有権者に意図が伝わっているとは言い切れず、識者からは「誠実さに欠ける」との指摘も出ています。
どこかの記事で読みしたが、一般的に横文字を使いたがる人間は”頭が良くない”って
批判されていました。
批判されていました。
なにしろ聞き手の気持ちや、聞く側の知識等を考慮せずに自慰行為のように自己満足目的に使っているとしか思えないです。
それに、私は英語を読み、書き、話せますが、普段日本でする会話はすべて横文字を要れずに会話等を進めるようにしてます。
私は「それ、ファジー(あいまい)だね」 という言葉を聞くことがあります。しかし、たいていの場合、英語でいうなら「unclear」とか「vague」 というべきところをこのように言っていることを耳にすることが多いです。これでは、自己満足で「それ、ファジーだね」 と言っているようにしか聞こえません。
小池氏に限らずモチベーション、コンセンサス、イニシアチブなど、日本語でも十分用が足りる言葉のカタカナ語や、ブロードバンド、PTSDなどの一般社会ではあまりなじみのない専門用語をやたらと使う人がいます。
こういうタイプは、たいてい身に着けるもののセンスもよく、言葉遣いもていねいで、とても洗練された印象を与えます。
ただし、日本語にない概念を表わす場合は仕方ありませんが、むやみにこれらの言葉を使いたがる人は、自信に満ちた外見の裏返しとして、意外なコンプレックスを抱えていることが少なくありません。
また不安や劣等感を強く持ちつつも、それをあからさまに見せるのを避けたがる傾向にあります。
欧米コンプレックス、専門コンプレックスの強い日本人には、確かにカタカナ語、専門用語は格好よく聞こえ、使っているだけで、外国通、業界通の人に見えてしまうのでしょう。
それだけに、何らかのコンプレックスがある場合、カタカナ言葉や専門用語は重宝なことこの上ありません。
使っている人にとっては無意識かもしれませんが、これらの言葉をコンプレックスを覆い隠すためのバリヤーにすることで、自分自身を大きなものに見せることができるのです。
同じような例としてあげられるのは、「〇〇博士がいっている」、「作家の〇〇が“△△”の中で書いている」などという有名人の言葉の引用です。
やはり、その有名人の持つ権威を借りて、自分を大きく見せようという意識が隠れています。
外国生活が長い人が多用する場合、自分の知識を誇示しようとしているケースもありますが、一方、質問をされたくないときや、聞き手を煙に巻きたいときに使う人もいます。
あまり信用はできないでしょう。
本人は格好よく使っているつもりのカタカナ語や専門用語を、よくわからないといって嫌がる人も多いものです。
やはり、誰にでもわかる、簡単な表現を使った方がコミュニケーションも円滑にいくでしょう。
さて、ブログ冒頭の記事では、「ポピュリズム」という言葉が使われています。これは、現在では「大衆迎合主義」という意味でつかわれています。しかし、本来の意味はそうではなかったようです。これについては、以下の動画をご覧下さい。
この動画の文字起こしを以下に掲載します。
【ニューディール連合とは (3:00頃~)】
現在のこの言葉の「中産階級の代弁者」という意味は、米国内では死語となっています。
言葉にはおうおうにしてこのような問題があります。だから、本当に重要な話をするときには、誰もが使っている基本的な単語を用いて話すべきです。
米国では、元々多人種の国家ですから、このような言葉の変遷や行き違いがあるので、政治家は誤解などをさけるために、非常に単純明快な言葉をつかう事が多いです。
その典型例が大統領の就任演説です。歴代の大統領が平易な言葉で就任演説を行っています。皆さんの記憶に新しい、今年1月のトランプ大統領の就任演説もそうでした。
ビジネスの世界でもそうです。特に国際ビジネスの世界はそうです。
国際ビジネスの世界で求められる「英語の運用力」とは、状況に的確な単語やフレーズを使って、相手に伝わるように話すことができる発信力ではないかと思います。
世界では、英語を母語としない人が英語を母語とする人)よりも多いのが現状です。このような状況で求められる英語は、plain English(わかりやすい英語)です。
シンプルで、曖昧さは残さずに、はっきりと伝わる英語を話すことが大切になります。
さまざまな言語を母語とする人達の間でのコミュニケーションでは、複雑で高度な英語表現は必要なく、かえって邪魔なんです。
日本でも、やはり日本国内の不特定多数の多くの人に語りかけるには、簡明な語りかけが重要です。
このようなことを考えると、小池百合子氏は政策論争の前に、簡明な言葉遣いをすべきです。
【関連記事】
トランプ旋風でわかった“インテリの苦悩” ハーバードの学生がトランプ支持を表明できない事情―【私の論評】従来の私たちは、実は半分のアメリカにはノータッチだったことを認識すべき(゚д゚)!
【ニューディール連合とは (3:00頃~)】
フランクリン・ルーズベルトが社会主義政策を大規模に推し進め、労働組合・バラマキ利権者・リベラル派官僚から成る選挙機関を作り政界を乗っ取った。これをニューディール連合という。このニューディール連合から政治の主導権を取り戻すのがアメリカの保守の課題です。
ニューディール連合を日本的に言うと「戦後レジーム」となる。ニューディーラーの中でも極めて落ちこぼれで、アメリカ本国で通用しないので極東アジアに左遷されたGHQなる組織によって作られたのが戦後の日本国憲法であり日本的左翼です。【ポピュリズムとは(5:55頃~)】
日本で一般的に認知されているポピュリズムは「大衆迎合主義」と訳され批判の対象とされる。しかしこの解釈はアメリカの左翼によって作られたものであり、保守派の定義ではもともとは中産階級の代弁者という意味。
「ポピュリズム」の対義語は「エスタブリッシュメント」です。
エスタブリッシュメントは支配階級・上流階級の意味であるが、分かりやすく日本で例えるなら朝日新聞のような自称インテリ、朝日岩波文化人を指します。
これに対してまともな国民の意見を代弁する少数の政治家を、左翼が「ポピュリスト」とレッテル貼りをしたのです。ポピュリズム の語源を探っていくと、確かに元々の意味はこのようなものだったようですが、米国左翼がこのように言葉の意味を変えてしまったのです。
現在のこの言葉の「中産階級の代弁者」という意味は、米国内では死語となっています。
言葉にはおうおうにしてこのような問題があります。だから、本当に重要な話をするときには、誰もが使っている基本的な単語を用いて話すべきです。
米国では、元々多人種の国家ですから、このような言葉の変遷や行き違いがあるので、政治家は誤解などをさけるために、非常に単純明快な言葉をつかう事が多いです。
その典型例が大統領の就任演説です。歴代の大統領が平易な言葉で就任演説を行っています。皆さんの記憶に新しい、今年1月のトランプ大統領の就任演説もそうでした。
ビジネスの世界でもそうです。特に国際ビジネスの世界はそうです。
国際ビジネスの世界で求められる「英語の運用力」とは、状況に的確な単語やフレーズを使って、相手に伝わるように話すことができる発信力ではないかと思います。
世界では、英語を母語としない人が英語を母語とする人)よりも多いのが現状です。このような状況で求められる英語は、plain English(わかりやすい英語)です。
シンプルで、曖昧さは残さずに、はっきりと伝わる英語を話すことが大切になります。
さまざまな言語を母語とする人達の間でのコミュニケーションでは、複雑で高度な英語表現は必要なく、かえって邪魔なんです。
日本でも、やはり日本国内の不特定多数の多くの人に語りかけるには、簡明な語りかけが重要です。
このようなことを考えると、小池百合子氏は政策論争の前に、簡明な言葉遣いをすべきです。
【関連記事】
トランプ旋風でわかった“インテリの苦悩” ハーバードの学生がトランプ支持を表明できない事情―【私の論評】従来の私たちは、実は半分のアメリカにはノータッチだったことを認識すべき(゚д゚)!
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