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2017年10月10日火曜日

小池都知事の「排除」も「寛容」も、まったく心に響かない単純な理由―【私の論評】小池氏は、政策論争の前に簡明な言葉遣いをすべき(゚д゚)!

小池都知事の「排除」も「寛容」も、まったく心に響かない単純な理由






希望の党への合流を決めた民進党の一部議員が、政治信条をもとに選別されたことから、にわかに「リベラル」「保守」という対立軸が注目を集めている。しかし、この二つの立ち位置の違いを正確に理解し、説明できる人はどれくらいいるのだろうか。レッテルを貼り分けられるほど、議員たちの立ち位置はハッキリしたものなのか。『リベラルという病』(新潮新書)の著者、山口真由さんに聞いた。
「(リベラル派は)排除いたします」と言って薄笑いを浮かべたあのあたりから、小池百合子・東京都知事の勢いは失速し始めたという見方がある。そんな空気を感じ取ったのか、最近の小池氏は、会見のたびに「寛容」「大きな心」などとくり返し、お茶を濁そうとしているようにも見える。

さて、先ごろリベラルという病を上梓したこともあり、「現代ビジネス」編集部から、小池氏はなぜこれほどリベラル排除にこだわるのか書いてほしいとの依頼を受けた。

結論から言えば、そのような問いは「二重に」意味がないと、私は思うのだ。ただ、意味がないことを意味がないと整理しておくことに意義があろうという、まどろっこしい理屈を立てて、本稿を書き始めることにしよう。

二重に意味がないとした理由の第一は、そもそも日本に「リベラル」なんてないと思うから。第二に、小池氏にリベラルを排除するほどの強い政治信条があるとは思えないから。要するに、「空虚な概念 vs. 空っぽな信条」なのだから、そこには排除も寛容もないでしょう、と。

言葉だけ輸入された、中身のない「リベラル」


民進党幹事長代行の辻元清美氏は、希望の党に公認申請するかどうか問われ、「私はリベラルの力と重要性を信じています。ですから、私は行きません」と答えた。多くの方が、辻本氏の言う「リベラル」っていったい何、と疑問を抱いたことだろう。

憲法改正に反対すること?原発再稼働に反対すること?もしそれがリベラルということなら、その根底にある哲学は、戦争に反対する平和主義だろうか?

太平洋戦争の敗戦国という重い十字架を背負った日本では、戦争と平和へのスタンスが、「保守」と「革新」を分ける大きな軸になってきた。安保闘争しかり。だが、その後「リベラル」という言葉を輸入したことで、日本のイデオロギーは混乱する。

きわめて広い意味を持つ「リベラル」という言葉だが、アメリカの現代政治においては、ニューディールから現在の民主党へと続く一つの系譜を指す。ここで大まかにその流れを解説しておきたい。

世界恐慌の渦中でも、政府は市場に介入しないとの方針を取ったフーヴァー大統領は、生活が立ちゆかなくなったアメリカ国民の怨嗟を一身に集め、退陣を余儀なくされた。続いて大統領に就任したルーズベルトは、政府の公的支出によって需要を下支えし、雇用やビジネスの機会を生み出そうとしてニューディール政策を推し進めた。

フーヴァー大統領(左)とルーズベルト大統領
景気の波さえ政府によってコントロールしようとする「大きな政府」論は、経済は市場によってしか調整されないという自由放任の「小さな政府」論と対置され、前者はリベラル、後者は保守として分断される大きな軸となっていく。

そして、そこにアメリカの「神話」が重ねられる。黒人に対して非人道的な扱いをした歴史を深く恥じた知性派は、「人種の平等」を高く掲げた。少数者への共感は、やがて女性やLGBTへと広げられ、それがリベラルを支える大義を生んだ。「多様性への寛容」のため、政府は格差を是正して少数者にも均等に機会を与える必要があるという考え方から、「大きな政府」論が正当化されたのである。

このリベラルの発想は、いかにも「平和主義」につながりそうだが、実は真逆だったりする。人道主義という大義の御旗を振りかざすがゆえに、それを解さない野蛮な連中は武力によってその性根を改めてやろうというのが、リベラルの系譜を受け継ぐ民主党の伝統的な考え方なのだ。

実際、1990年代に民主党のクリントン大統領は、北朝鮮の核施設への空爆を実行寸前に至らせる強硬姿勢を見せている。それに比べ、保守の系譜にある共和党は、孤高のカウボーイよろしく、ヨーロッパの戦争にも干渉しない孤立主義を貫いてきたのだった。

アメリカのリベラルは、日本と真逆の立場


ここまで述べてきたリベラルと保守の真髄には、人間をめぐる考え方の違いがある。

リベラルは「人間の理性」を絶対的に信じる。経済不況や格差は政府の積極的な介入によって解決し、野蛮な帝国は軍事介入によって折伏する。そうやって理性的な人間がコントロールできる領域を広げれば、多様な人間が共存できる理想的な社会ができ上がる。こうした一種の理想主義は、自然を耕し、従えるという発想につながる。

対する保守は、人間に対する深い懐疑がその源にある。荒野の開拓者を原風景とする彼らにとって、大いなる自然の前に人間はあまりにちっぽけだった。だから、彼らは自然を支配するなどというおこがましい発想を捨て、政府の介入は最小限にし、市場は自由競争に委ねようと考える。

そんなわけで、アメリカのリベラルは、憲法改正反対や原発再稼働反対を主張する日本のリベラルとは、真逆の立場をとる。

リベラル派の判事は、時代に合わなくなった憲法を解釈によって変更しようとするのが常だ。「解釈改憲は許されない!」と批判するのは、アメリカではなんと保守派の判事である。また、人間が自然をコントロールすべきとの発想から、アメリカのリベラルは原子力発電を人類の輝かしい到達点と考えている。

一方、日本では、戦後の「保守」「革新」という対立軸を離れ、「リベラル」の中身を定義しないまま言葉だけ輸入したために、混乱が起きた。今日に至るも、リベラルに分類される議員たちが「安倍憎し」以上の何を国民に伝えたいのか、ちっとも見えてこない。

公平のために付言しておくと、今日の事態を招いたのは、保守の側にも責任がある。内閣官房長官時代の安倍晋三氏が記した『美しい国へ』(文芸春秋、2006年)というきわめて評判の悪い本の中で、彼はドラマ「大草原の小さな家」を「古き良き時代のアメリカの理想の家族のイメージ」として、伝統的な家族の価値への回帰を目指したレーガン大統領の政策に同調している。

だが、安倍首相がアメリカの共和党と同じ「保守」思想を持っていると考えるのは、誤解だ。確かに、伝統を重んじるのが保守の立場だが、守るべき伝統が日本とアメリカではまったく異なることを忘れてはならない。アメリカの保守は、解釈改憲を容認しないし、原発も推進しない。

結局、日本では、リベラルも保守も、自らを定義する言葉の意味すらわかっていないというのが現実なのだ。

小池氏が目指すのは「私が輝く日本!」

さて、多少ややこしい話が長くなってしまったが、話を戻そう。

小池氏が自らと政策を異にする勢力を「排除」したこと自体は、別に批判されることでもない。政策を実現するために政党を作るならば、異なる政策を掲げる者と一緒に結党するほうがおかしい。安倍政権に「NO」と言うためだけに寄せ集まった、政策の一致を見ない野合の衆をもって「多様性のある集団」と主張したいなら、話は別だけれど。

小池都知事を囲む、希望の党の細野豪志氏(左)と若狭勝氏 
政策が一致する者どうしで党を作りたいという正論を掲げる小池氏が、それでも批判されるのは、この人が政治的信条を持たない“カメレオン”なのだと、なんとなくみんなにわかってきてしまったからだろう。

「小池氏は、政策を異にする『リベラル』を排除したかったわけじゃなく、人気のない民進党をそのまま抱え込むと、希望の党が失速すると思ったからじゃないの?」「首相経験者とか自分よりも格上の目の上のタンコブが入り込むのを嫌っただけじゃないの?」という具合に。

都政を牛耳る人相の悪いオジサンを「都政のドン」呼ばわりし、そこに切り込む勇敢な女性として「改革勢力」のイメージを売り物にした小池氏は、アメリカのリベラルのキーワードである「ダイバーシティ(多様性)」を謳うものの、第一次安倍政権で防衛大臣を務めたことからもわかるように、安全保障については安倍首相と相違ない見解を持つ、日本で言うところの「保守」だ。

大衆にウケると思えば「改革者」になり、ときには「保守政治家」に舞い戻る。彼女の中心にあるのは政治信条ではなく、極端な自己中心性ではないだろうか。

都民ファーストの会の国政進出を進めようとした「百合子一筋」若狭勝衆院議員の面目を、「リセット」のひと言でものの見事につぶし(←まあ、若狭氏はそもそも無能だとの批判もあるが)、希望の党に合流すれば民進党候補者がまるごと公認を得られるという前原氏の期待をさらりと裏切る(←まあ、前原氏のお人好しな期待が甘かったといえばそれまでだが)。安倍首相への対決姿勢を明確にしたかと思えば、いつの間にやら自民党との連立も考えられるという。

前原誠司元外相の見立てでは、希望の党と「合流」するはずだったが…… 
「初の女性首相」という自らの進路は何よりも明確なのに、日本が進むべき将来の方向性は描けない。そんな小池氏からは、「日本をどうしたい」より「私はこうなりたい」しか見えてこない。つまり、「私が輝く日本!」ということか。

「朝からメディアの皆さん、私の発言ばかりを報道して」などと満足げに微笑む小池氏を見ていると、残念ながら、この人の芯にあるのは「私を見て!」という強い欲求だけだと思わざるを得ない。

都民ファーストの会の議員にメディア発言を控えさせるのも、若狭氏や細野豪志氏にメディアへの出演を自粛せよというのも、「私より目立つな」という暗黙の指示ではないか。結局、都民ファーストの会の代表に据えたのも、自分に決して歯向かわない、自分より決して目立たない、自らの元秘書なわけでしょう?

そういう意味で、元滋賀県知事の嘉田由紀子氏と小池氏はよく似た人種だ。嘉田氏が希望の党の公認を受けられなかったときには「やっぱり」と思った。「同族嫌悪」、目立ちたがり屋は目立ちたがり屋が嫌いなのだ。都民ファーストの会から音喜多駿都議が離脱したのも、どう言葉を飾ろうと、「私を見て!」と「僕の声を聴いて!」の対立に相違ない。

橋下徹氏には思想があった


「ポピュリズム」と批判されようとも、橋下徹氏は少し違ったのではないか。だからこそ、大阪維新の会が日本維新の会として国政進出するときには、小池氏に寄せられているような批判が起こらなかったのだと思われる。

橋下氏も確かに目立ちたがり屋ではあろうが、彼には思想があった。

大阪府知事時代の2008年、私学への助成金28億円を打ち切る財政再建策を打ち出した際、高校生12人から猛抗議を受けた。が、橋下氏は、私立ではなく公立校を選ぶ道もあると告げ、公立校には学力が足りないと泣きつかれても、「自己責任」と取りつく島もなかった。大人気ない対応だとも言えようが、子供相手にすら曲げられない確固とした信念があったというのは、いささか持ち上げ過ぎだろうか。

アメリカの保守と重なる「小さな政府」論を明確に打ち出した橋下氏に対し、改革勢力、リベラルにも保守にも変わる小池氏からは、理念が見えてこない。結局のところ、そこには政治信条などないのだろう。

とはいえ、私は、小池氏をある意味あっぱれと思っている。誰だって目立ちたい政治家の中で、埋没しない手腕と度胸はさすがだ。本稿の最初に「日本にリベラルなんてない」と書いたが、小池氏の「私を見て!」という生々しくも力強い野心は、「日本のリベラル」という空虚な概念、妄想をこの際打ち砕いてくれるのではないかと、私は変な期待を抱いている。
『リベラルという病』書影欧米のリベラリズムを奇妙な形で輸入・加工し続けてきた日本的リベラルの矛盾と限界を解き明かす!(amazonはこちらから)
【私の論評】小池氏は、政策論争の前に簡明な言葉遣いをすべき(゚д゚)!

小池百合子氏の話は、とにかくカタカナが多いという印象が強いです。「アウフヘーベン」「AI」「ワイズ・スペンディング」「チャーターメンバー」「リセット」と最近でもかなり多いです。

知事選から知事になってからもかなり使っています。

「ダイバーシティー」「サスティナブル」「ソーシャルファーム」「イノベーション」「メルクマール」「フィンテック」「IoT」「スプリングボード」「ブランディング」「レガシー」。

小池氏は、エジプト・カイロ大卒で語学堪能で知られるますが、哲学用語など難解な言葉も用いるため有権者に意図が伝わっているとは言い切れず、識者からは「誠実さに欠ける」との指摘も出ています。

これだけ、外来語を用いれば、確かに有権者はついていけいなかもしれません。そうして、小池氏の本質は、ブログ冒頭の記事で述べられているように単なる「目立ちやがり屋」なのかもしれません。



どこかの記事で読みしたが、一般的に横文字を使いたがる人間は”頭が良くない”って
批判されていました。

なにしろ聞き手の気持ちや、聞く側の知識等を考慮せずに自慰行為のように自己満足目的に使っているとしか思えないです。

それに、私は英語を読み、書き、話せますが、普段日本でする会話はすべて横文字を要れずに会話等を進めるようにしてます。

私は「それ、ファジー(あいまい)だね」 という言葉を聞くことがあります。しかし、たいていの場合、英語でいうなら「unclear」とか「vague」 というべきところをこのように言っていることを耳にすることが多いです。これでは、自己満足で「それ、ファジーだね」 と言っているようにしか聞こえません。

小池氏に限らずモチベーション、コンセンサス、イニシアチブなど、日本語でも十分用が足りる言葉のカタカナ語や、ブロードバンド、PTSDなどの一般社会ではあまりなじみのない専門用語をやたらと使う人がいます。

こういうタイプは、たいてい身に着けるもののセンスもよく、言葉遣いもていねいで、とても洗練された印象を与えます。

ただし、日本語にない概念を表わす場合は仕方ありませんが、むやみにこれらの言葉を使いたがる人は、自信に満ちた外見の裏返しとして、意外なコンプレックスを抱えていることが少なくありません。

また不安や劣等感を強く持ちつつも、それをあからさまに見せるのを避けたがる傾向にあります。

欧米コンプレックス、専門コンプレックスの強い日本人には、確かにカタカナ語、専門用語は格好よく聞こえ、使っているだけで、外国通、業界通の人に見えてしまうのでしょう。

それだけに、何らかのコンプレックスがある場合、カタカナ言葉や専門用語は重宝なことこの上ありません。

使っている人にとっては無意識かもしれませんが、これらの言葉をコンプレックスを覆い隠すためのバリヤーにすることで、自分自身を大きなものに見せることができるのです。

同じような例としてあげられるのは、「〇〇博士がいっている」、「作家の〇〇が“△△”の中で書いている」などという有名人の言葉の引用です。

やはり、その有名人の持つ権威を借りて、自分を大きく見せようという意識が隠れています。

外国生活が長い人が多用する場合、自分の知識を誇示しようとしているケースもありますが、一方、質問をされたくないときや、聞き手を煙に巻きたいときに使う人もいます。
あまり信用はできないでしょう。

本人は格好よく使っているつもりのカタカナ語や専門用語を、よくわからないといって嫌がる人も多いものです。

やはり、誰にでもわかる、簡単な表現を使った方がコミュニケーションも円滑にいくでしょう。

さて、ブログ冒頭の記事では、「ポピュリズム」という言葉が使われています。これは、現在では「大衆迎合主義」という意味でつかわれています。しかし、本来の意味はそうではなかったようです。これについては、以下の動画をご覧下さい。


この動画の文字起こしを以下に掲載します。

【ニューディール連合とは (3:00頃~)】
フランクリン・ルーズベルトが社会主義政策を大規模に推し進め、労働組合・バラマキ利権者・リベラル派官僚から成る選挙機関を作り政界を乗っ取った。これをニューディール連合という。このニューディール連合から政治の主導権を取り戻すのがアメリカの保守の課題です。
ニューディール連合を日本的に言うと「戦後レジーム」となる。ニューディーラーの中でも極めて落ちこぼれで、アメリカ本国で通用しないので極東アジアに左遷されたGHQなる組織によって作られたのが戦後の日本国憲法であり日本的左翼です。
【ポピュリズムとは(5:55頃~)】
日本で一般的に認知されているポピュリズムは「大衆迎合主義」と訳され批判の対象とされる。しかしこの解釈はアメリカの左翼によって作られたものであり、保守派の定義ではもともとは中産階級の代弁者という意味。
「ポピュリズム」の対義語は「エスタブリッシュメント」です。
エスタブリッシュメントは支配階級・上流階級の意味であるが、分かりやすく日本で例えるなら朝日新聞のような自称インテリ、朝日岩波文化人を指します。
これに対してまともな国民の意見を代弁する少数の政治家を、左翼が「ポピュリスト」とレッテル貼りをしたのです。
ポピュリズム の語源を探っていくと、確かに元々の意味はこのようなものだったようですが、米国左翼がこのように言葉の意味を変えてしまったのです。

現在のこの言葉の「中産階級の代弁者」という意味は、米国内では死語となっています。

言葉にはおうおうにしてこのような問題があります。だから、本当に重要な話をするときには、誰もが使っている基本的な単語を用いて話すべきです。

米国では、元々多人種の国家ですから、このような言葉の変遷や行き違いがあるので、政治家は誤解などをさけるために、非常に単純明快な言葉をつかう事が多いです。

その典型例が大統領の就任演説です。歴代の大統領が平易な言葉で就任演説を行っています。皆さんの記憶に新しい、今年1月のトランプ大統領の就任演説もそうでした。

ビジネスの世界でもそうです。特に国際ビジネスの世界はそうです。

国際ビジネスの世界で求められる「英語の運用力」とは、状況に的確な単語やフレーズを使って、相手に伝わるように話すことができる発信力ではないかと思います。

世界では、英語を母語としない人が英語を母語とする人)よりも多いのが現状です。このような状況で求められる英語は、plain English(わかりやすい英語)です。

シンプルで、曖昧さは残さずに、はっきりと伝わる英語を話すことが大切になります。

さまざまな言語を母語とする人達の間でのコミュニケーションでは、複雑で高度な英語表現は必要なく、かえって邪魔なんです。

日本でも、やはり日本国内の不特定多数の多くの人に語りかけるには、簡明な語りかけが重要です。

このようなことを考えると、小池百合子氏は政策論争の前に、簡明な言葉遣いをすべきです。

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2013年1月27日日曜日

【from Editor】一定条件下の体罰―【私の論評】体罰肯定派からみれば、言葉遣いの間違いが横行する昨今の治外法権的日本の学校あり方は異常であり、いずれ抜本的に改める必要がある!!

【from Editor】一定条件下の体罰:

市立桜宮高校の説明会に出席するため集まった保護者たち=9日夜


大阪市立桜宮高校のバスケットボール部の主将だった2年生が顧問教師の体罰後に自殺したことで、評論家やジャーナリストらの多くが体罰の全面禁止を主張している。大阪市の橋下徹市長も「あらゆる体罰禁止」を打ち出している。国も各自治体も体罰の実態調査に乗り出している。

生徒の自殺は痛ましい。顧問教師は、連日殴ったり、数十発殴ったり、唇を切ったり、「殴られてもええんやな」と発言していたという。これは明らか に教育の範囲を超えている。生徒はおびえ、教師と生徒の信頼関係は崩れていたとしか思えない。だから自殺してしまったのだろう。
こうした事件が起きると、「それでも体罰は必要だ」と言うには勇気がいる。だが、私は、一定の条件下で体罰は必要だと言いたい。それはどのような条件か。

この記事の続きはこちらから!!

【私の論評】体罰肯定派からみれば、言葉遣いの間違いが横行する昨今の治外法権日本の学校あり方は異常であり、いずれ抜本的に改める必要がある!!

上の記事、非常に歯切れが悪いと思います。体罰肯定なら肯定、反対なら反対とはっきり表明すべきと思います。私自身は、肯定派です。まずは、はっきり自分の立場を表明させていただいた上で、なぜそう思うのか説明させていただきます。

それ説明するための下準備としてまずは、下の記事を読んでいただきたいと思います。この記事は、大阪市の現橋下市長が、大阪府知事だったときに、体罰容認の発言をしたという内容です。2008年の新聞記事です。
橋下知事「手を出さないとしょうがない」 体罰容認発言
 大阪府の橋下徹知事は26日、堺市で開かれた「大阪の教育を考える府民討論会」(府、府教委主催)に出席、学力向上のための緊急対策に盛り込んだ反復学習の実施に理解を求めた。一方、「口で言って聞かないと手を出さないとしょうがない」と体罰を容認する発言をした。
 知事は「私は学力を必ず上げます」と断言、「子どもが社会に出て壁にぶつかったとき、乗り越えられる能力が絶対必要だ」と訴えた。一方で「子どもが走り回って授業にならない。ちょっとしかって頭でもコツンとしようものなら、やれ体罰だと叫んでくる。これで赤の他人の先生が教育をできるか」と話し、どこまでを教育と認めるか合意形成が必要だとした。
 また、質問に立った日教組の組合員という小学校職員が、「日教組の強いところは学力が低い」などと発言した中山前国土交通相を知事が擁護したことを批判。その後、知事を非難するヤジが続くと、知事は「中山発言正しいじゃないですか」「これが大阪の教育現場。こういう教師が現場で暴れ放題する」「9割の先生は一生懸命やってる。1割のどうしようもない先生を排除してください」と激しい口調で話した。
 討論会後、報道陣から体罰を容認するのかと聞かれた知事は「体罰という言葉にとらわれる必要はない」と答えた。これに対し、討論会に同席した生野照子・府教育委員長は「体罰に関する発言は間違っている」と話した。
この時の発言の動画を以下に掲載します。


過去に橋本市長が上記のような発言をしていたからといって 現在の橋下市長が、今回の体罰の次元を超えた暴力に関しては、高校入試の廃止や、教師の入れ替えなどかなり厳しい措置をしようとしていることに、矛盾があるという批判が多いです。

しか、私は何も矛盾しているとは思いません。なぜなら、体罰、いじめと暴力とは明らかに言葉が異なるからです。その意味では、上の産経の記事も間違いです。ある一定条件下での体罰という表現はあり得ません。体罰と暴力は異なり、同じではありません。

無論体罰、いじめと、暴力が区別がつきにくく、灰色のゾーンはあるかとは思いますが、今回の事例は、どうみても暴力です。明らかに体罰の域を超えています。これは、はっきりしています。4発けがをしない程度に殴るのと、軽かろうが重かろうが、40発殴るのとでは全く異なります。40発殴るのは、明らかに暴力です。

最近の特にマスコミなどの言葉遣いかなりおかしいです。それについては、過去にこのブログにもいくつか掲載したことがあります。以下は、「反日デモ」という言葉遣いのおかしさについて掲載したブログ記事のURLです。
【新聞に喝!】これは反日「デモ」なのか?―【私の論評】新聞は、物事の背景を見ることができないばかりか、言葉遣いまでおかしくなっている!!
詳細は、上の記事をご覧いただくものとして、この記事では、「反日デモ」という言葉のデモという言葉の定義をあげて、その定義にてらしあわせて、「反日デモ」はおかしいこと、正しくは「反日テロ(テロル)」が正しいことをあけました。中国政府あたりが、官製デモであることを隠蔽しつつ、「反日デモ」というのならまだわかりますが、日本側のメディアが「反日デモ」というのは、明らかに言葉遣いの間違いです。この言葉遣いでは、真実を覆い隠すばかりで真実を伝えることにはなりません。

それから、例の大津のいじめ問題についても、言葉遣いのおかしさをこのブログに掲載したことがあります。 その記事のURLを以下に掲載します。

いじめ 警察に被害訴える動き相次ぐ―【私の論評】「いじめ」という言葉は間違いではないか!!

詳細はこの記事をご覧いただくものとして、暴力を「いじめ」と表する言葉遣いのおかしさについてこの記事では以下のように締めくくりました。

今後、私たちは「いじめ」の問題を語るのではなく、「学校犯罪」という行為をどうするかという視点でものごとをみていくべきです。そうして、自らも犯罪者 にならないように、絶対に見過ごさないようにすべきです。そう思うのは、私だけでしょうか?皆さんは、どう思われますか?

 要するに、「いじめ」=「暴力」、「体罰」=「暴力」ではないのです。これらは、「いじめ」や「体罰」の域を超して、「暴力」になっても、なぜか、「暴力」とはマスコミなども呼ばずあくまで、「いじめ」「体罰」といいます。世間一般的にもなぜかそういう風潮があります。これは、非常におかしなことです。学校以外の一般社会で、このような暴力が行われた場合、それは、「暴力」であって、「いじめ」や「体罰」ではありません。>それが、なぜか、学校、それも高校以下の学校では、「暴力」と呼ばれることはありません。それは、全くおかしなこと異常なことです。へたをすると、大学でも、体育系のクラブ活動などでも、「暴力」と呼ばれないことがります。全く異常です。なにやら、学校という組織は、日本では治外法権のように思わているような気がしてなりません。
 

橋下市長は、今回の厳しい措置に対して動画で以下のように述べています。

橋下市長は、動画の中で「事の重大さ」という言葉遣いをしています。橋下市長が、今回のこの事件を単なる「体罰」とみているのではなく、重大な「学校犯罪」と見ていることは確かだと思います。

 また、大津のあのいじめ事件については以下の動画のように述べています。

 

私は、先にも述べたように、体罰肯定派です。しかし、それは、あくまで言葉の定義通りの意味で肯定しているということであり、何も暴力を肯定しているわけではありません。

この言葉の定義としてしては、いろいろ解釈があるとは思いますが、だいたい以下のとおりだと思います。
体罰は、父母や教員などが、子供や生徒などの管理責任の下にあると考えられる相手に対し、教育的な目的を持って、肉体的な苦痛を与える罰を加えることを指す。この場合の苦痛とは、叩くなどの直接的なものから、立たせたり座らせるなどして動くことを禁ずるなど間接的なものも含む。ただし、苦痛とは言っても明らかに負傷やPDSと認められるような措置は、体罰ではなく暴力である。
このような定義であれば、私自身子供の頃や、小学、中学では頻繁に、高校に入ってからは、稀に体罰を受けたことがあります。子供のころは、姿勢が悪かったり、ご飯の食べかた、お茶の飲み方が悪かった場合は、母に和裁に用いるときの、鯨尺というモノサシで、手や背中を叩かれたことよくありました。ただし、多少は痛いですが、叩かれた跡が残るということはありませんでした。

軽い体罰として古典的なバケツ持ち


小学、中学では、担任の先生などにげんこつはられたこともありましたが、げんこつとはいっても、多少痛いという程度で、それによってタコができるとか、完璧な負傷ということはありませんでした。廊下にバケツを持って立たされたこともありました。高校時代には、顧問の先生に、平手うちをくらったり、グランド何周といわれて、グランドを何周か走ったことなどもありました。しかし、こうしたことで、怖いとか、負傷したり、心に傷を負ったということはありません。ましてや、40発も連続で叩かれたなどということは一回もありません。 というより、あきらかに負い目があったので、むしろ、体罰を受けたほうが、せいせいしました。体罰を受けることにより、逆に気分がすっきりしました。過去の悪いことは消え、そうして、将来は、二度とこのようなことはしないようにと、心の中で誓いました。

社会常識が身についていない子供は、時に残酷、残虐にもなる!!

このようなことは、日常茶飯事で、それ自体が問題となるとか、あるいは、それで自殺者が出るなどということなど考えたこともありません。これらは、明らかに「体罰」の限度内に収まっており、暴力ではなかったからだと思います。

体罰度を超して鼻血が出るとか骨折するような暴力や、度を超して健康を害するとか死の危険が伴うようなしごきは問題ですが、本来の言葉の意味での体罰であれば、有っても構わないはずだとと言うよりも、全く体罰が無い学校の方が危険だといえます。

体罰として古典的な廊下ふき


例えば、生徒によるいじめ事件があれば、教師がいじめを行った生徒を平手打ち(ビンタ)することは仕方がないです。それは必要悪というものです。

まずは言葉で注意すべきであることは言うまでもないですが、言葉で言っても解らない人間には、体罰をもって教えるしかありません。他人の痛みが解らない人間には、自らも痛みをもって解らせるしか方法がありません。

正気を失った犯罪者を警官が暴力行為によって諌めるのと同様、他人を傷付けても心が痛まない異常者には正義の鉄槌が時には必要です。学校には子供を叱るべき親がいないのだから、親に代わって教師が体罰を与える行為は事情によっては認めるべきです。しかし、体罰を超えるような制裁が必要であれば、それはもはや学校の問題ではなく、法治国家として社会の問題として警察権力や司法当局の介入も仕方ないとみなすべきです。このあたりが、今の学校ではなぜかうやむやにされています。

まともな体罰までも禁止にすれば、元々、事勿れ主義で無法化している現在の学校が更なる無法地帯と化し、野獣の如く野放し状態となったいじめっこは、ますます手が付けられなくなってしまい、いじめの範疇を超えた学校暴力による自殺問題は更にエスカレートすることになります。そんな地獄のような学校なら、存在自体が悪でありこのような施設はいらないということになります。「体罰は絶対悪」と言っているような人は、学校の更なる地獄化を望んでいるとしか思えません。

体罰が全くない学校は無法地帯に!!?

家庭内でキッチリと子供の教育ができない不出来な親が「教師が生徒を殴ってはいけない」などと言う資格は無いし、まともな教師がそんなクレーマーのような親の存在を許しておく必要もありません。教師も生徒も言いたいことをハッキリと言える学校にすることこそが、今回のような問題を防ぐには最も重要なことだと思います。

今回、自殺した生徒も、おそらくは多くの学校内暴力による自殺者と同様、「逃げ場が無い」と思ったのだろうと思います。単に暴力が嫌だったのではなく、クラブのキャプテンという責任ある立場(または将来ある地位)にいながら、期待通りにいかない状況に不安を感じ、そこに教師からの体罰という名の暴力が重なり、自殺に追い込まれたのだろうと推察します。

実際はもっと複雑が事情が絡んでいるのかもしれないですが、結局のところ、いじめ自殺問題同様、閉鎖された教育空間が齎した悲劇であることには違いはないでしょう。そうして、こうした、学校の治外法権のようなあり方をマスコミが、「暴力」という言葉を遣わないことにより、さらに助長しているのだと思います。

想像を絶する韓国の解散させられた一陣会の悪行 恐喝・暴力・輪姦は日常茶飯事

学校の問題など、表面面だけみていては、何もわかりません。考えてみれば、歴史的にみれば、現在の教育制度など、GHQが日本の弱体化をはかるために、その基本的なあり方を決めたものです。その基本的なありかたが、戦後60年を経てもいまだ続いているわけです。日教組などは、その先兵です。悪名高い教育委員会制度もGHQが導入したものです。マスコミもこうした、治外法権的学校のあり方を日本弱体化の立場から支援しているのだと思います。橋下市長が 「事の重大さ」と述べたり、安倍総理が教育に力をいれると表明するのは、こうした治外法権的な日本の教育現場を正そうという意図があるのだと思います。

本当に、私のような本来の意味での体罰肯定派からみれば、言葉遣いの間違いが横行する昨今の治外法権的日本の学校のあり方は全く異常です。やはり、戦後体制の脱却という観点からも、日本の教育はいずれ抜本的に改めていかなければならないと私は思います。皆さんはどう思われますか?

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2012年9月23日日曜日

【新聞に喝!】これは反日「デモ」なのか?―【私の論評】新聞は、物事の背景を見ることができないばかりか、言葉遣いまでおかしくなっている!!

【新聞に喝!】これは反日「デモ」なのか?(京大大学院教育学研究科准教授・佐藤卓己)


日本政府による尖閣諸島の国有化に反発する中国の「反日デモ」が激化した。

16日付産経1面(大阪本社発行版)は、「パナ工場など襲撃」の見出しで中国各地の日系工場が襲撃された様子を報じた。そこには、「山東省青島で炎上するトヨタ自動車の販売店」とのネット掲載写真が添えられていた。

中国の「反日デモ」については、中国国内の格差問題に起因する鬱憤晴らしがその背景にあると解説されることも多い。同記事も次のように結ばれていた。

「言論や集会の自由を制限されている民衆の不満が政府に向かう恐れもある。中国当局の出方が大きな焦点になってきた」


その通りには違いがないのだが、各紙の「反日デモ」関連記事を読んで不思議に思うことがある。

一つは、中国民衆の不満が反政府運動に発展することを日本のメディアがなぜかくも心配する必要があるのかという疑問である。特に共産党一党独裁を批判してきたはずの保守系メディアが、中国の民主化よりも現指導部の安定化を願うのは矛盾ではないだろうか。経済重視の事なかれ主義ということであれば、さんざんに批判した丹羽宇一郎前駐中国大使(元伊藤忠商事会長)と同じことだろう。

一方で、逆に首相官邸前で繰り返される脱原発の金曜デモに関して、「デモをする社会の到来」と礼賛した市民運動家にもぜひ聞いておきたい。あなた方は中国の「反政府デモ」をどう評価するのか。あの混乱を見ても、こううそぶくのだろうか。

「市民が主権者であるような社会は、代議士の選挙によってではなく、デモによってもたらされる」、と。

であるならば、「反日デモ」が「反独裁デモ」に転化することは、民主主義にとって最大の僥倖(ぎょうこう)ではないのか。もちろん、逃げ口上は用意しているのだろう。普通の市民が主体となる自分たちのデモは、「独裁と暴力」から限りなく離れている、と。


もしそうならば、いま日本で「デモ」の必要性を訴える者は、中国の反日暴動は「デモ」ではなく「テロル」だと声を上げるべきだろう。投石も放火も略奪も「暴力」である。これを正確に表現すれば、「反日テロル」ではあるまいか。しかし、新聞各紙は「暴力」シーンの写真を掲載しながら、「反日デモ」と表記している。

新聞紙面のよく似た事例は、「いじめ」という表記である。「テロル」を「デモ」とくくる言語感覚は、学校内の暴行や恐喝など「犯罪」を「いじめ」と表現する教育委員会的な心性と変わらないではないか。                                     


【プロフィル】佐藤卓己

さとう・たくみ 昭和35年広島県出身。京都大大学院修了、文学博士。専門はメディア史。

(非常に重要な論考だと思いますので、特に新聞サイトは時がたつと、削除されてしまうので、敢えて全文掲載させていただきました)

【私の論評】新聞は、物事の背景を見ることができないばかりか、言葉遣いまでおかしくなっている!!

上の佐藤氏の意見もっともだと思います。


反日デモの背景は、はっきりしています。これは、完璧な官製デモであり、派閥のある中国政府のかなり高いレベルで実施されたものであり、派閥内の権力闘争があることははっきりしています。特に、習近平が、しばらく消息不明だったことも考え合わせると、かなり熾烈な権力闘争があることははっきりしています。

今回の反日デモにそのような背景があることは、はっきりしています。特に、最近では、中国版ツイッター微博で、デモの呼びかけがことごとく削除されていることも考え合わせると、はっきりしています。このデモは、中国政府が総意で、やめさせようとすれば、やめさせることができたということです。中国政府のコントロール下にあったということです。尖閣問題にも、そのような側面があります。もちろん、あわよくば、領土にできたらしたいという下心はありますが、当面の権力闘争の材料にされたということです。


私自身は、どこのデモがどこの派閥によって実行されたのか、あるいは尖閣に対する傍若無人なふるまいは、どこの派閥によるものなかのかまではわかりませんが、内実はそういうことです。尖閣に関しては、主流派閥が行ったことであれば、反主流派につけいる隙を与えないように、示威行動をとったということであり、反主流派が行ったのであれば、主流派閥に対してつけいる隙を得るために、過激な行動をとったということです。それに、中国は、一枚岩ではなく、様々派閥がありますから、実体はもっと複雑だと思います。

私は、最近中国の反日デモに関して、その背景など上記のようにこのブログに掲載してきましたが、書いていてどうも、すっきりしない部分がありました。それは、やはり、「反日デモ」という言葉です。新聞各社は、「デモ」という言葉の意味をわかっているのでしょうか、以下にデモの定義の一部をwikipediaから、コピペしておきます。
デモ活動(デモかつどう)は、ある特定の意思・主張をもった人々が集まり、集団でそれら意思や主張を他に示す行為である。デモとはデモンストレーションの略であり、示威行為、示威行進、デモ行進、デモ集会、あるいは単にデモとも呼ばれる。 
デモ活動は、公の場で集団で自らの意思や主張を示す行為である。事実上の責任者や決定者がいる施設の前にいながらプラカードなどを掲げる場合もある。「デモ行進」のように徒歩で一定区間を移動しながら行われるものもみられる。大きなものでは数万人から百万人の規模が参加する一種の集会のようなものもあれば、その一方で参加人数はともかくとして、非常に遠距離(都市間など)を移動しながら主張を掲げ続ける場合もある。主張されるテーマは、政治や経済・社会に対するものなど多岐に渡り、それらは個人的な主張から、社会問題を示して世間にアピールすることを目的とするものまで、さまざまである。
デモとは、何も乱暴狼藉を働くものというわけではありません。ごく最近盛んに行われるようになった、日本のデモなど、乱暴狼藉を働くものはほとんどありません。それは、下の動画などご覧いたたければよくわかると思います。

 

上の動画のような行動が、デモ(デモンストレーション:demonstration)というものです。ただし、日本以外の国、あるいは、日本でもここ数年の最近のデモでは、いわゆる暴動がつきものです。しかし、「デモ=暴動」ではありません。そうして、この暴力は、テロリズム(上の記事の作者はテロルとしていますが、同意)です。以外テロリズムに関する定義をこれも、wikipediaから掲載しておきます。
テロリズム(英語: terrorism)とは、恐怖心を引き起こすことにより特定の政治的目的を達成しようとする組織的暴力の行使、およびそれを容認する主義のことである。テロリズムに則った行為・手段、およびそれらによって敵対者を威嚇することをテロル(ドイツ語: Terror)と呼ぶ。日本では一般にテロリズムとテロルの双方を指してテロと略す。またテロリズムを標榜しテロルを行う者をテロリストと呼ぶ。
これが定義であれば、確かに上の記事の佐藤氏が言うように、反日デモも、尖閣問題も、中国によるテロリズム以外の何ものでもありません。こうして考えると、反日テロも、尖閣問題も同じく日本に対するテロリズムであるということです。テロリズムととらえると、中国内のテロも、尖閣に対するテロも、同じ穴のムジナのようなものであることが良く理解できます。


それに日本政府は、自国の都合によって、反日テロを許容する中国には、断固たる態度で臨むべきだと思います。今回も、中国政国内の反日テロに対する謝罪と、弁済をもとめるべきです。相手がどのような態度にでたとしても、そんなことはお構いなしにまずは、意図をはっきり伝えるべきです。

それから、尖閣テロ問題についても、はっきりした態度を示すべきです。中国は、1970年代にも、尖閣テロリズム問題を起こしたことがあります。その当時は、鄧小平が、一時棚上げにするとして、事態は収束しました。しかし、もともと、日本の領土であることがはっきりしている問題に関して、棚上げなどという理屈が成り立つはずがありません。これは、本来、その時に棚上げなどする必要性などないことをはっきり、日本政府が相手方に伝えるべきことを怠ったのだと思います。


だからこそ、現在でも、尖閣テロリズム問題が、起こってしまうのです。これから、このようなことが起こらないようにするためにも、中国側に、はっきり尖閣テロはやめるように伝えるべきです。それをしない限り、このテロ問題はいつまでも尾を引きます。

これからは、このブログでも、反日デモなどとは表記せず、正しく反日テロリズムなどと表記します。それから、尖閣問題も改め、尖閣テロリズム問題などと表記することにします。

それにしても、今の日本の新聞は、反日テロや、尖閣テロリズム問題などの背景も、良くわかっていないし、そもそも、言葉遣いも間違っているということで、本当に情けない限りです。


それから、上の記事では、一番最後に、「新聞紙面のよく似た事例は、「いじめ」という表記である。「テロル」を「デモ」とくくる言語感覚は、学校内の暴行や恐喝など「犯罪」を「いじめ」と表現する教育委員会的な心性と変わらないではないか」として、締めくくっていますが、まさにその通りです。

このことに関しては、私もこのブログに掲載したことがあります。


いじめ 警察に被害訴える動き相次ぐ―【私の論評】「いじめ」という言葉は間違いではないか!!

詳細は、上記のURLをご覧いただくものとして、この記事では、最後に以下のように締めくくりました。
今後、私たちは「いじめ」の問題を語るのではなく、「学校犯罪」という行為をどうするかという視点でものごとをみていくべきです。そうして、自らも犯罪者にならないように、絶対に見過ごさないようにすべきです。そう思うのは、私だけでしょうか?皆さんは、どう思われますか? 
全く佐藤氏のいう通りです。まさに、我が意を得たりという心持ちがします。私は、「いじめ」という言葉遣いは完全に間違いだと思います。やはり「学校犯罪」という言葉を遣うべきと思います。最初は、「校内犯罪」という言葉でも良いとは思いましたが、「校内」というくくりがあれば、学校の生徒間で発生した犯罪であっても、学校以外であれば、対象外ということになりますので、「学校」というものが関わっている「犯罪」ということで、「学校犯罪」という言葉がもっとも実体を表していると思います。

大津の学校犯罪事件では、学校や、教育委員会の連中が、「学校犯罪」があったことを知りつつ、「いじめ」という言葉遣いで、犯罪などなかったように糊塗しているだけの話だと思いますが。だからこそ、警察も異例の家宅捜索に入ったのです。もう、マスコミも、この種の出来事に関しては、「いじめ」などという言葉遣いはせずに、「学校犯罪」という言葉遣いをすべきです。

カッパじゃ「教育委員」は無理?(笑)

「デモ」といい、「いじめ」といい、言葉遣い一つの間違いでも、本当に大事な背景を見逃してしまうことになりかねないという良い事例だと思います。このようなこと、探せば他にもいくらでもあります。これは、新聞に限らず、テレビや、ラジオなどのマスメディアをはじめとして、あらゆる組織で、あることかもしれません。私たちは、言葉の本来の意味を意識して、意図して意識して、コミュニケーションを図っていく必要がありそうです。そう思うのは私だけでしょうか?皆さんは、どうお考えになりますか?



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