原爆ドーム 写真はブログ管理人挿入 以下同じ |
毎年この季節になると、広島と長崎の犠牲者を慰霊して、原爆投下を「人類の悲劇」として語る式典が行われるが、彼らは何を祈っているのだろうか。それが悲劇だったことは間違いないが、「人類」が原爆を投下することはできない。投下したのは米軍の爆撃機であり、民間人に対する無差別爆撃は国際法違反である。
しかしアメリカ政府がその責任を認めたことはなく、もちろん謝罪したこともない。日本政府も、原爆投下の責任にはまったく言及しない。NHKが毎年放送する原爆の特集番組でもアメリカの責任は追及しない。こういう思考停止は、そろそろやめてはどうだろうか。
原爆投下はポツダム宣言の前に決まった
この不自然な歴史解釈を生んだのは占領統治である。占領軍が原爆を正当化するのは当然で、日本政府もそれに従うしかなかった。占領軍が検閲していた時代には、マスコミも「悪いのは原爆投下ではなく戦争を起こした日本だ」と報道するしかなかったが、占領統治が終わったあとも、そういう自己欺瞞が身についてしまった。
原爆投下は1945年秋に予想されていた本土決戦で日米に多くの犠牲が出ることを避けるためにやむなく行われた作戦であり、「原爆投下によって戦争が早期に終結し、数百万人の生命が救われた」というのが、今もアメリカ政府の公式見解である。
それを承認したトルーマン大統領は、回顧録で「1945年7月26日にポツダム宣言を出したのは、日本人を完全な破壊から救うためだった。彼らの指導者はこの最後通牒をただちに拒否した」と、あたかもポツダム宣言を受諾しなかった日本政府に責任があるかのように書いているが、これは因果関係が逆である。
ポツダム宣言で日本に無条件降伏を呼びかけてから、広島に原爆を落とすまで、わずか2週間足らず。日本政府が公式に回答する前に投下されている。スティムソン陸軍長官が原爆投下を決定してトルーマンが承認したのは7月25日、つまりポツダム宣言の発表される前日だった(長谷川毅『暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏』)。
原爆投下の飛行計画は8月上旬と決まっていたので、それに合わせて急いでポツダム宣言を出したと考えることが合理的である。
「国体護持」で遅れた日本政府の決定
日本政府は、ポツダム宣言を「ただちに拒否」したわけではない。鈴木貫太郎首相が宣言を「黙殺」したと報じられ、それをトルーマンは拒否と解釈したが、これは日本政府の公式回答ではなかった。宣言の内容が重大なので、コメントしなかっただけだ。
日本政府が困惑したのは、「国体」が護持できる保障がないことだった。ポツダム宣言は「日本国国民が自由に表明した意思による平和的傾向の責任ある政府の樹立」を求めており、朝廷の維持を保障していなかったからだ。
スティムソンの起草したポツダム宣言の原案では、政府の形態として「現在の皇室のもとでの立憲君主制を含む」という言葉があった。これは日本の早期降伏を促すものだったが、統合参謀本部がこの言葉を削除してしまった。
日本軍にとっては「決号」作戦と呼ばれた本土決戦が既定方針だったので、それを変更するには重大な情勢の変化が必要だった。昭和天皇は6月22日の御前会議で「戦争の終結に就きても此際従来の観念に囚はるゝことなく、速に具体的研究を遂げ、之が実現に努力せむことを望む」と、政府首脳や大本営に申し渡した。
これは本土決戦の方針を見直せということで、軍も反対しなかった。つまり実質的な「聖断」は6月に下っていたのだが、それは大きな方針転換なので、秘密裏に終戦工作が行われていた。
原爆投下がなくても、当時すでに日本の敗戦は決定的になっており、決号作戦は物理的に実行不可能だったが、ポツダム宣言が問題を複雑にした。国体護持をめぐって不毛な論争が始まり、貴重な時間が空費された。
こうして終戦工作に手間どって終戦の決定が8月まで遅れている間に、原爆が投下された。8月10日の御前会議における天皇の「聖断」は、数の上ではぎりぎりの多数決だったが、内容は既定方針の確認だった。その決定に際して原爆投下とともに、8月9日のソ連参戦が大きな意味をもった。
あと半年、降伏が遅れていたら、日本は朝鮮半島のように分割されたかもしれない。日本を英米中ソで4分割する案も、アメリカ政府で検討されていた。1945年8月は日本が分割されないで戦争を終結する、ぎりぎりのタイミングだった。
周回遅れだった日本国憲法
トルーマンがスターリンの署名なしにポツダム宣言を出したのは、ソ連参戦の前に日本を降伏させ、アメリカが占領統治の主導権を握るためだった。それを加速させる原爆投下はアメリカにとっては必要であり、それは冷戦の始まりだった。
1945年は、国際的な座標軸が大きく転換した過渡期だった。ルーズベルト大統領はスターリンを信頼しており、米ソが敵対するとは考えていなかった。トルーマンも当初はそう考えていたが、ドイツが5月に無条件降伏した後、ソ連は東ヨーロッパをまたたく間に軍事的に制圧した。
それに続いてソ連が日本に参戦することは(ヤルタ会談の密約で)明らかだったので、トルーマンは戦争終結を急いだ。イギリスのチャーチル首相は1946年3月に「鉄のカーテン」演説で冷戦の開始を宣告した。わずか1年足らずで、ソ連は同盟国から仮想敵国に変わったのだ。
この大転換の最中の1946年3月にできたのが、日本国憲法である。それは冷戦の始まる直前の、米ソが平和共存できるという幻想を「凍結」したようなものだ。そのときすでに冷戦は始まっていたのだが、日本はこの周回遅れの憲法を改正できないまま現在に至っている。
原爆投下は冷戦の序曲であり、アメリカの世界戦略の一環だった。だがトルーマンは広島と長崎の被害の大きさに驚き、1945年8月10日に「大統領の許可なく原爆を投下してはならない」という命令を出した。
原爆投下は人類の悲劇ではなく、アメリカの戦争犯罪である。それが終戦を早めて救った命もあるが、犠牲は余りにも大きかった。今さらアメリカに謝罪を求める必要もないが、日本が反省する筋合いはないのだ。
【私の論評】今や二周回遅れの日本国憲法では現在の世界情勢にそぐわない(゚д゚)!
ブログ冒頭の記事には、日本国憲法とは、冷戦の始まる直前の、米ソが平和共存できるという幻想を「凍結」したようなものであり、そのときすでに冷戦は始まっていたのですが、日本はこの周回遅れの憲法を改正できないまま現在に至っているとあります。
そうして、現在の日本は周回遅れどこか、今や二周回遅れの日本国憲法を改正できないまま現在に至っていると言っても過言ではありません。
「冷たい戦争(Cold War)」の略語である冷戦。米国を中心とした資本主義陣営と、ソ連を中心とした共産主義・社会主義陣営の対立構造を指し、第二次世界大戦直後の1945年から、1989年のマルタ会談まで、およそ44年間続きました。
第二次世界大戦が起こる前、米国とソ連は目立って対立関係にはありませんでした。双方ともに、敵国はドイツであり日本だったため、お互いを敵視してはいなかったのです。
1945年2月、米国・英国・ソ連の3国によって、戦後の国際政治体制に関する話しあいがおこなわれました。いわゆる「ヤルタ会談」です。
メンバーは、米国大統領・ルーズベルト、英国首相・チャーチル、ソ連共産党指導者・スターリン。彼らは敗戦が明らかであるドイツと日本への対応を取り決めます。その際ソ連は、ドイツに占領されていたポーランドや、バルト三国など東ヨーロッパに対して力を持とうとしていました。
戦中、特にドイツとの戦いで2500万人以上もの犠牲者を出し、疲弊状態に陥っていたロシアにとって、東ヨーロッパで影響力を持つことには大きな意味があったのです。
これについて米国は、ソ連の領土拡大になりはしないか、社会主義国が強大になりはしないか、と危惧危機感を抱くことになるのです。しかしヤルタ会談の結果、ドイツは東西に分割され、東ヨーロッパ諸国にはソ連が駐留して社会主義勢力が拡大していきます。
ちょうど東西ドイツの間で、アメリカを中心とする西側諸国とソ連を中心とする東側諸国とに分かれ、冷戦の体制が整いました。この様子をチャーチルは「鉄のカーテン」と表現しています。
資本主義と社会主義、どちらが世界のリーダーシップをとるのか、武力による争いをするわけではなく、大国同士が直接ぶつかり合うわけではないが理解しあうこともないという状況が続きます。
第二次世界大戦に敗戦し、米国、英国、仏国、ソ連によって東ドイツと西ドイツに分断されたドイツ |
1945年に東西に分かれたドイツ。西ドイツは資本主義国家として経済成長を遂げる一方、東ドイツはソ連の影響を受け社会主義に染まっていきました。経済格差は日ごとに大きくなっていきます。
より良い暮らしを求めて西側へ移ろうとする人が後をたたず、危機感を覚えた東ドイツは、1961年8月に一夜にして「ベルリンの壁」を建設しました。
この壁は冷戦の象徴となります。
建造中のベルリンの壁 |
確かに米国とソ連は、直接戦ってはいません。ただ当時の世界各国は、まるで見えない力に誘われるかのように、米国側につくのかソ連側につくのか、その姿勢を問われたのでした。
朝鮮戦争やベトナム戦争、アフガニスタン紛争、キューバ危機など、実際の戦争に繋がってしまったケースも少なくありません。これらは米ソ冷戦の「代理戦争」とも呼ばれています。
そんななか1985年に、ソ連の共産党書記長にゴルバチョフが就任します。彼は社会主義経済を立て直すための改革「ペレストロイカ」を掲げ、これをきっかけに東ヨーロッパ諸国でも自由化を求める声が高まっていきました。
この動きは東ドイツにも派生し、ついに1989年11月、ベルリンの壁が取り壊されることとなったのです。およそ28年間もの間分断されていたドイツは、東西統一に向けて歩みはじめました。
ベルリンの壁が崩壊した翌月の12月2日、アメリカのブッシュ(父親)大統領とソ連のゴルバチョフの書記長の会談が地中海のマルタで実現。冷戦の終結が宣言されました。
米ソ首脳会談で冷戦の終結を宣言したブッシュ米大統領(左)とゴルバチョフ書記長(右) |
冷戦の終結宣言は、その後の世界に大きな影響を与えました。
まずソ連。さまざまなクーデターが起き、これまで抑え込んでいたバルト三国が独立の動きをみせ、ペレストロイカは頭打ちとなります。1991年12月にソ連が崩壊し、ロシア連邦が誕生しました。
ソ連が崩壊したことで、世界はアメリカ一強時代に傾くかと思われました。ロシアも資本主義に傾き、両国の関係も穏やかなものとなっていったのです。ただし、実際にはソ連が冷戦に敗北したといっても良いです。
ところが、2000年代になると、再びロシアが影響力を誇示しはじめます。アメリカの一極支配を警戒し、反米的な中南米諸国や中国、イランなどとの関係を強めようと動いていくのです。
これを「新冷戦」または「第二次冷戦(Second Cold War)」といいます。アメリカとロシアの新しい関係は世界に緊張をもたらすほか、宇宙開発やインターネット技術の躍進など、さまざまな分野における革新の原動力となり、それは2018年現在も続いているといえるでしょう。
ロシアは大量の核兵器を保有する核大国ではありますが、もはや経済大国ではありません。ロシアの名目国内総生産(GDP)は1兆5270億ドル(約171兆円)、世界12位にすぎないです。中国の約8分の1にとどまり、韓国にさえ若干下回っています。
韓国といえば、韓国のGDPは東京都のそれと同程度です。ロシアのGDPはそれを若干下回るというのですから、どの程度の規模かお分かりになると思います。さらには、人口も1億4千万人であり、これは日本より2千万人多い程度であり、中国などとは比較の対象にもなりません。
輸出産業はといえば、石油と天然ガスなど1次産品が大半を占め、経済は長期低迷を続けています。
現在の実態は汚職と不況、格差拡大にのたうち回っている中進国なのです。そんな国だから、米国に真正面から対決して、世界の覇権を握ろうなどという気はありません。というより、できません。
プーチンロシア大統領は、明らかにロシアをかつのソ連のような大国にしたいという強い意志があるようですが、もしそれがうまくいったとしても、今後20〜30年でロシアが超大国になることはあり得ません。
そしてあと2つ、冷戦後の大きな動きとして、「EU」の誕生と中国の台頭が挙げられます。第二次世界大戦後、低迷が続いていたヨーロッパ諸国は、統合することで復権を目指しました。
動き自体は戦後すぐはじまっていましたが、発足が実現したのは1993年のこと。2002年に統一通貨「ユーロ」が導入され、新体制で経済復興への道を歩んだのです。
そうして最後に、一つ忘れてはならないのは、中国の台頭です。中国は、現在では世界第2の経済大国へと躍り出ました、ただし一人あたりのGDPはまだ低く、ロシアよりも若干低いくらいで、やはり中進国の域をでていません。
とはいいながら、最近は経済成長は衰えてはいるものの、今後も伸びていく可能性もあります。
そうして、ここで重要なのは、米国が暫く前から、中国は米国を頂点とする戦後秩序を変えようとしていると警告を出していたのですが、中国自らがそれを認めたことです。
それについては、このブログでも以前掲載しました。その記事のリンクを以下に掲載します。
中国がこれまでの国際秩序を塗り替えると表明―【私の論評】中華思想に突き動かされる中国に先進国は振り回されるべきではない(゚д゚)!
ドナルド・トランプ米大統領(左)と中国の習近平国家主席 |
米国政府は中国に対してここまでの警戒や懸念を表明してきたのである。これまで習近平政権はその米国の態度に対して、正面から答えることがなかったが、今回の対外戦略の総括は、その初めての回答とも呼べそうだ。つまり、米国による「中国は年来の国際秩序に挑戦し、米国側とは異なる価値観に基づく、新たな国際秩序を築こうとしている」という指摘に対し、まさにその通りだと応じたのである。米国と中国はますます対立を険しくしてきた。要するに中国は、自ら新冷戦を起こすと宣言したのです。これに米国が対応して、まずは貿易戦争を開始したのです。
冷戦がすでに始まった後の 1946年3月にできたのが、日本国憲法です。これは冷戦の始まる直前の、米ソが平和共存できるという幻想に基づいたお花畑のようなものでした。日本はこの周回遅れの憲法を改正できないままに、ソ連は崩壊しました。
ソ連が崩壊した後にできたロシアは先にものべたように、とても冷戦を起こせるような器ではありません。それに変わって台頭してきたのが中国です。南シナ海の環礁を実行支配し、台湾に迫り、尖閣諸島付近で示威行動を繰り返し、一帯一路で他国を取り込もうとしている中国はすでに冷戦を開始したといっても過言ではありません。
二度の冷戦が始まる前の、米ソが平和共存できるという幻想に基づいたお花畑のような、日本国憲法を日本は未だ改正できないままです。
今や日本国憲法は、二周回遅れの代物であり、とても現在の世界情勢に対応できるものでありません。すぐにでも、まずは憲法解釈を変更すべきですし、そうして一日でもはやく改憲すべきです。
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