2020年8月26日水曜日

台湾、香港、中国の社会運動から見る青春と挫折、未来への記録 映画「私たちの青春、台湾」公開―【私の論評】今日の台湾は、アジアの希望だ(゚д゚)!

台湾、香港、中国の社会運動から見る青春と挫折、未来への記録 映画「私たちの青春、台湾」公開

「私たちの青春、台湾」ポスター

[映画.com ニュース]2014年に起きた台湾の「ひまわり運動」のリーダーと、中国人留学生ブロガーの活動から、台湾の民主化の歩みとその後を追い、台湾アカデミー賞こと金馬奨最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した「私たちの青春、台湾」が10月31日、公開される。

23日間に及ぶ立法院占拠、統率の取れた組織力、全世界に向けたメディア戦略で成功を収めたといわれる一方、立法院内では、一部の指導者たちによる決議に対する不満など、困難に直面し、多くの課題を残した「ひまわり運動」。

陳為廷(チェン・ウェイティン)は、林飛帆(リン・フェイファン)と共に立法院に突入し、ひまわり運動のリーダーになった。そして、中国からの留学生で人気ブロガーの蔡博芸(ツァイ・ボーイー)は、“民主”が台湾でどのように行われているのか伝え、大陸でも書籍が刊行される程の支持を集めた。そんな彼らの活動を見ていた、傅楡(フー・ユー)監督は「社会運動が世界を変えるかもしれない」という期待を胸に抱いていたが、彼らの運命はひまわり運動後、失速。運動を経て、立法院補欠選挙に出馬したチェンは過去のスキャンダルで撤退を表明。大学自治会選に出馬したツァイは、国籍を理由に不当な扱いを受け、正当な選挙すら出来ずに敗北する。

『私たちの青春、台湾』傅楡(フー・ユー)監督

そして、香港の雨傘運動前の黄之鋒(ジョシュア・ウォン)、周庭(アグネス・チョウ)との交流など、カメラは台湾、香港、中国の直面する問題、海を越えた相互理解の困難さ、民主主義の持つ一種の残酷さを映し出していく。

アジア初の同姓婚法制化、蔡英文総統の歴史的再選、女性議員がアジアトップ水準の4割を占め、世界も注目した新型コロナ対策などで関心を集める台湾。フー・ユー監督は、金馬奨授賞式で涙を流しながら、「いつか台湾が“真の独立した存在”として認められることが、台湾人として最大の願いだ」とスピーチし、大きなニュースとなった。

私たちの青春、台湾」は、10月31日からポレポレ東中野ほか全国順次公開。また、フー・ユー監督の人生と台湾の民主化の歩みを書いた、「わたしの青春、台湾」(五月書房新社)邦訳版が、映画公開にあわせ10月23日に発売される。

▼「ひまわり運動」とは
 2014年3月17日、国民党がサービス貿易協定をわずか30秒で強行採決した。翌18日、これに反対した学生たちが立法院(国会)に突入し、23日間にわたって占拠した。占拠直後から多くの台湾世論の支持を集め、与党側は審議のやり直しと、中台交渉を外部から監督する条例を制定する要求を受け入れた。議場に飾られたひまわりの花がシンボルとなり、この一連の抗議活動を「ひまわり運動」と呼ぶ。運動は一定の成果を残し、同年11月の統一地方選挙での国民党大敗を導き、台湾政治の地殻変動を引き起こした。翌年にはひまわり運動を起こした若者らが中心となり、政党・時代力量が設立された。ひまわり運動は、近年の台湾アイデンティティの興隆を象徴する出来事となった。

【私の論評】今日の台湾は、アジアの希望だ(゚д゚)!

一体何が台湾を変えたのか?この映画は、この疑問に答える映画の一つになりました。 2014年の「ひまわり学生運動」は大きな転換点であるように思います。そう、学生や運動家たちが国会を占拠した、あの事件です。実はこの事件だけではない。台湾の歴史を振り返ると、市民運動が政治を動かしてきたことが分かります。

もともと台湾は、現在の大陸中国と比較しても、比べ物にならないほどの独裁国家でした。1949年から1987年の38年間、台湾では戒厳令が敷かれ、中国国民党(=国民党)による一党独裁政治が行われていました。この38年間にわたる戒厳令は、決して名誉ではない世界最長記録です。

台湾 の離島、緑島 の政治犯収容所、蠟人形によって当時の様子が復元されている

白色テロ」とも呼ばれるその時代に、政治活動や言論の自由が厳しく制限され、多くの知識人が弾圧され、投獄され、処刑されました。それでも民主化を望む多くの知識人が、「党外(=国民党の外で、の意)運動」と呼ばれる民主化運動を行っていました。

中でも特に有名なのが1979年の「美麗島事件」です。これは『美麗島』という雑誌社が台湾南部の都市・高雄で主催した反体制デモで、例にもれず言論弾圧に遭い、主催者を含め数十人が有罪判決を受けました。裁判の過程でむごい拷問に遭った人も多かったとされています。デモ自体は鎮圧されたのですが、これがきっかけで国民の政治への関心が高まり、台湾の民主化を推し進める結果となったのです。

美麗島事件後、国民から民主化を求める声が高まり、やがて政権が押さえつけられないほど勢いを強めていきました。1986年、政権に対抗すべく運動家たちは政府が敷いた結党禁止令を破って民主進歩党(=民進党、今の与党)を結成しました。

「美麗島事件」で投獄された活動家や裁判に関わった弁護士の一部は民進党の党員となりました。翌年、長い戒厳令が解除され、台湾はようやく民主化を迎えました。民進党の党員の中には、政府の要職についた人も多かったのです。

これら独裁政治や民主化運動の歴史は、台湾では義務教育できちんと教えられている。感じ方は人それぞれだろうが、「今の民主主義は先人が長い時間をかけて、血を流しながら反体制運動を繰り返してやっと手に入れたものだ」ということを、台湾人なら少なくとも知識としては知っています。「望む政治を手に入れるためには声を上げ、行動しなければならない」というのが、民主化を求める台湾の歴史に刻まれたDNAであるように思います。

1987年に戒厳令が解除されたは良いのですが、政治改革のペースは緩慢でした。それに不満を覚え、1990年に大学生を中心に「野百合学生運動」が行われました。この学生運動の直接的あるいは間接的な成果として、国会議員の総選挙、そして国民の直接投票による総統の選出を可能にした制度改革の実現が挙げられます。それまでの国会議員は1947年選出以来ずっと改選されておらず、総統も国民ではなく「国民大会」という形骸化した機関が選出していたのです。

その後、1996年に初めて総統選挙が行われ、2000年の総統選挙では史上初の政権交代が実現し、国民党に代わって民進党が与党になりました。この政権交代は、台湾社会は本当の意味で民主化したことを示しています。

2000年に当選した陳水扁(ちんすいへん)総統は2004年に僅差で再選を果たすも、2006年に汚職疑惑が噴出し、彼の退陣を求めて数十万人規模のデモが何度も行われました。その後、民進党の支持率が低迷し、2008年の総統選挙では国民党の馬英九が民進党の立候補者に大差をつけて当選しました。国民党は与党に返り咲き、馬英九は2012年に再選を果たしました。ちなみに陳水扁は任期満了後に汚職で有罪判決となり、収監されました。

陳水扁

親中派である国民党の政策は中国に配慮するあまり、台湾の(特にリベラル派の)国民の反感を買っていました。その一例として、2008年の「野いちご学生運動」があります。

当時、中国の海協会(中国の対台湾交渉窓口機関)会長・陳雲林が会談のために台湾を訪問しましたが、政府は治安維持の名目で人権侵害とも取れる政策を行いました。空港や道路を封鎖したり、理由なく職務質問や任意捜査を行ったりしました。台湾独立のスローガンや中華民国の国旗を掲げるだけで拘束された人もいました。そんな中で政権に対する反発として行われたのが「野いちご学生運動」ですが、名称はもちろん、前述の「野百合学生運動」にちなんでいます。

国民党が政権に返り咲いた2008年から、台湾では毎年何かしらの社会運動や抗議デモが行われました。都市再開発に伴う土地の強制収用、地下鉄建設に伴うハンセン病療養所の取り壊し、性的少数者の差別問題、食品安全問題、賃金や退職金の不払い問題。

それらの問題はまるでがん細胞のように、面積が日本の十分の一しかない台湾という小さな島を日々蝕んでいくように見えました。
やがて「もう十分だ」と言わんばかりに爆発したのが、2014年の「ひまわり学生運動」です。きっかけは台湾と中国のサービス貿易協定であり、これは台湾の国民生活に幅広く影響を及ぼす協定ですが、国民党政権は説明責任を果たすことなく、数の力に頼って30秒で強行採決しました。
不満を覚えた大学生や社会運動家は「貿易協定を撤回せよ、民主主義を守れ」をスローガンとし、国会の議場に乗り込み、国民の幅広い支持のもとで警察と対峙しました。運動はやがて3週間の籠城に発展し、50万人規模のデモも行われました。

「私たちの青春、台湾」は、この「ひまわり学生運動」の空気感を余すところなく伝えてくれたようです。

運動は最終的に政権側の譲歩で収束し、サービス貿易協定は撤回されたのですが、成果はそれだけではありません。ひまわり学生運動がきっかけで、それまで政治に無関心だった多くの若者が政治の重要性を再認識し、積極的に参加するようになりました。これらの若者を指して「覚醒青年」という言葉が生み出され、「時代力量」など小さなリベラル政党が結成されたのもこの時期でした。

「覚醒青年」と呼ばれる若者と、「時代力量」などのリベラル新興勢力を中心に、人権問題や社会正義に対する関心が高まりました。そのため、世代間の平等、居住権の平等、婚姻の平等、移行期正義(=独裁時代に弾圧された政治犯への名誉回復や補償など)、マイノリティの差別解消など、人権を重視する政策を打ち出す政党が支持を集めるようになりました。一方、保守派の国民党は支持率が低迷し、2014年末の地方選に続き、2016年の総統選も大敗を喫しました。

2016年に民進党は再び政権を握り、史上初の女性総統・蔡英文が誕生しましたが、民進党政権は決して安泰ではありません。中学中退でトランスジェンダーである唐鳳(オードリー・タン)をIT大臣に起用したり、年金改革や同性婚を断行したりなど、国民党政権では考えられなかった大胆な人事や政策を打ち出しましたたが、そのせいで保守層や既得権益層から反感を買いました。

一方、労基法改正などの政策は「労働者の権利を無視した」として、一部のリベラル層からも批判を浴びました。年金改革や同性婚、労基法改正を巡って、やはり抗議デモが何度も行われました。そんな中で、2018年末の地方選では民進党が敗北しました。

習近平の独裁体制や香港デモの勃発で、中国に呑み込まれる危機感が国民の間で募り、その結果として2020年総統選挙では親中派でない民進党が勝利し、蔡英文が再選を果たしました。

しかし2018年の敗北を経験した民進党は、自らの政権は決して盤石ではないことを知っているようです。100年の歴史を持つ国民党のように強固な支持層があるわけではなく、リベラル志向の若者も多くは浮動票で、政策を誤ればすぐに離れるのです。

何より民進党自身が反体制デモから生まれた政党なので、市民運動の力をよく分かっているようです。だからいつも強い危機感を持って政権の運営に当たっており、利権や前例、党内のしがらみなどよりも、常に国民を第一に考える姿勢を見せているようです。そしてそれがコロナ禍の対応にも反映されたのです。

「ひまわり学生運動」後の台湾の若者は、選挙のために帰省し、日常生活で政治的な会話をし、SNSで自分の意見を表明し、臆することなく政権を批判します。

かつて、現在の中国よりも、比べ物にならないほどの独裁国家だった、台湾が変わったのは、こうした市民学生運動の力があったことは間違いありません。

誤解のないように最後に付け加えておきますが、台湾と日本の市民学生運動の違いはなにかというと、日本はあくまでも「市民学生運動ごっこ」に過ぎないことです。台湾は違います、間違いなく台湾社会の転換期を作っています。その差はなんなのかというとを、日本の若者や市民たちに、しっかり真剣に考えてほしいです。

シンガポールの独裁者故リー・クアン・ユー氏はかつて、決して西洋の自由民主主義が誤りだとは主張しませんでした。ただ「アジア人」には向いていないとは述べていました。アジア人は、個人の利益よりも集団の利益を上に置く考え方に慣れていると主張しました。生来、権力者に対して従順で、こうした傾向はアジアの歴史に深く根差す「アジア的価値観」なのだと主張していました。

しかし、今日の台湾をみていると、リー・クアン・ユー氏のこの考えは間違いだったといわざるをえないです。もし氏が存命だったとしたら、台湾についてどのように語るのか聴いてみたいです。

今日の台湾をみているとシンガポールも大陸中国や他のアジアの独裁国家もいつの日か、民主化、政治と経済の分離、法治国家化が可能になるのではないかとの希望がわいてきます。

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