松野博一官房長官 |
松野氏は「無辜(むこ)の民間人に対する(ロシアによる)極めて凄惨な行為が繰り広げられていたことが次々と明らかになっている。民間人殺害は国際人道法違反で断じて許されず厳しく非難する」と重ねて表明した。
プーチン氏をめぐっては5日、自民党の茂木敏充幹事長が「民間人を殺害することは断固として許されるべきではない。国際人道法に違反する。定義にもよるが、戦争犯罪者と呼んでもいいのではないだろうか」と語った。
プーチン氏は戦争犯罪人である可能性が高いことについては、昨日もこのブログで掲載しました。これは、誰でもそう思うでしょう。
そうして、昨日もこのブログで主張したように、戦争犯罪は国際法に照らして、裁かれるべきです。
プーチン |
ただ、そのことと、これから先に戦争が起らないようにすることとは、別次元の問題です。
経営学の大家ドラッカー氏は平和について、以下のように語っています。
われわれが平和を手にする日は、旅を終える日でも始める日でもない。それは馬を替える日にすぎない。(『産業人の未来』)
ドラッカーがこれを書いたのが、1941年、米国に移り住んで四年目、チャーチルの激賞を得た処女作『経済人の終わり』刊行の2年後でした。
結局は、米国もこの戦争(第二次世界大戦)に参戦するだろう。そして勝つだろう。しかし、政府統制的、国家総動員的なことはいっさい行ってはならない、勝つための一時のこととの触れ込みで始めても、必ず永続してしまうから。おまけに産業力がものをいう戦争においては、自由で創造的な産業活動のほうが優れているに決まっているではないか──という趣旨です。
そうしてドラッカー氏は以下のようにも語っています。
機能する自由な産業社会を実現するうえで最も重要でありながら最もむずかしく思われることは、明日の社会と政治にとって、自由こそが決定的に重要な問題であることを認識することである。(『産業人の未来』)
この自由を追求しようというのが、日本も含めた自由主義諸国です。一方、世界には中露、北朝鮮、イランなどのように全体主義的な国々も存在しています。
われわれが平和を手にする日とは、第二次世界大戦の終了を意味するのでしょうが、その後にドラッカー氏は「旅を終える日でも始める日でもない。それは馬を替える日にすぎない」としています。
ドラッカー氏 |
この言葉は、見事に的中しました。第二次世界大戦が終了してから、今日まで紛争・戦争はたえず、今般は国連安保理次回で拒否権を持つロシアが、ウクライナに侵略をしています。
この戦争はいずれは、終焉を迎えることでしょう。しかし、それとて、われわれが平和を手にする日は、旅を終える日でも始める日でもない。それは馬を替える日にすぎないのです。
新たな馬とは、それは新たな世界秩序と言い換えても良いと思います。そうして、自由こそが決定的に重要なのです。今回のウクライナ戦争の後には、ロシアは自由化されるか、されなければ、世界から隔離されることでしょう。しかし、世界に中国など全体主義体制の国があります。これをどうするかが、大きな問題となるでしょう。
第二次世界大戦終了後の世界秩序は大きく変わりました。にもかかわらず、国連憲章にはまだ中華民国、ソビエト連邦という文言が残り、中華人民共和国とロシア連邦がその継承者として、常任理事国の地位を引き継いでいます。
第二次世界大戦後、いくつもの大きい戦争があったにもかかわらず、世界は馬を乗り換えることもなく第二次世界大戦直後の秩序にしがみつき、それを前提として、国際連合を運営してきました。そのためもあり、今日ロシアのウクライナ侵略に対して、何らの有効な手を打つこともできず、機能不全に至っています。
そうして、それは日本も同じです。未だに防衛費の1%枠にこだわり、核シェアリングの議論さえ禁忌とされています。これでは、世界も日本も、新しい馬に乗り換えることはできません。一日でもはやく、新しい馬に乗り換えるべきです。
そうして、ロシアのウクライナ侵攻という出来事の後では、世界も日本も状況が変われば、すぐに新しい馬に乗り換えられるようにすべきです。そのための、国際組織の革新は今回のウクライナ戦争の後の緊急の課題です。これを過去のように疎かにすれば、第2、第3のウクライナ戦争が勃発します。それどころか第3次世界大戦すら起きかねません。
さて、ドラッカーは、「自由こそが決定的に重要な問題」としていますが、これについても重大な提起をしています。それぞれの社会で様々な形はあるかもしれませんが、責任のともなう真の自由こそ、社会の目的なのですが、ドラッカー氏は次のように語っています。
経済の成長と拡大は、社会的な目的を達成するための手段としてしか意味がない。経済の発展は、社会的な目的の達成を約束する限りにおいて望ましいのです。約束が幻想であることが明らかになれば、当然その価値は疑わしくなります。
(『「経済人」の終わり』)
社会秩序および信条としての資本主義は、経済的な進歩が、個人の自由と平等を促進するとの信念に基づいているのです。
これに対しマルクス主義では、そのような社会は、私的な利潤を廃止することによってもたらされると期待したのです。全体主義においては、凡庸な大衆よりも、有能な独裁者こそが個人の自由と平等を促進するという信念に基づいているのです。
ドラッカーは、資本主義は自由で平等な社会を自動的に実現するための手段として、利益を積極的に評価した最初で唯一の社会的信条だったといいます。
資本主義以前の信条では、私的な利益は社会的には有害なもの、少なくとも中立的なものと見ていました。
かつての社会秩序においては、個人の経済活動を、意図的に狭い領域に閉じ込め、社会的に意味のある領域に与える影響を最小限にしようとしていました。しかし、資本主義は、経済に独立性と自立性を付与しました。それどころか、経済活動を非経済的な要因に左右されることのない上位に位置づけました。
ドラッカー氏は、次のようにも述べています。
まさに、経済的な進歩が千年王国を実現するがゆえに、経済的な目的の実現のために、あらゆるエネルギーを注がなければならない。これが資本主義である。しかし、それは、本来の社会的な目的を実現できなかければ、意味をなさず、正当化されず、存続の可能性すらない。
最も重要でありながら最も理解されていないものが、市場における権力の構造である。(『産業人の未来』)いわゆる自由市場には、どんな種類の制約も存在しないといわれてきました。政府が企業や個人の経済活動に干渉せず、市場の動きに任せる状態をレッセフール(自由放任主義)といいます。仏語で「なすがままに任せよ」の意味です。
ところが、ドラッカーは、そのような無秩序な市場が存在したためしはない、と喝破しています。
City of London |
行使されるのか観察していたのです。
英国記入の権威筋が、市場の代表的な機関、すなわち証券売買市場、資本調達市場、外国為替市場などを通じて、権力を行使していました。彼らは、市場のヒートアップを危惧しても、通達の類いを出しませんでした。抑圧的な規制はルールに反したからです。
不心得者に対する権威筋の意向は、昼食時の雑談、電話でのさりげない会話、あるいは取引所や仲買人たちを通じて、非公式に伝えられました。このサインは、控え目に二回まで出されます。そして、ある日突然、裏書が拒否されます。それまで、不心得者が市場と関係していたことで得られた権威は、すべて取り上げられたといいます。
市場には、常に市場自体の規制や権威が存在した。この経済的な領域における支配もまた、政治的な領域における政治的権力と同様、その権力を実際に行使した。(『産業人の未来』)今日のグローバル市場でも、米国などがこのような役割を担ってきたし、WTOという組織も作って世界共通のルールを適用しようとしたのですが、それをことごとく破ってきたのが、中国でありロシアです。
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