2007年4月24日火曜日

An American in Paris

今日はまた、ミュージカル映画の紹介します。本日はパリのアメリカ人!いわずと知れた大作です。あまり開設は必要ないと思います。出演は、ジーン・ケリー、レスリー・キャロンその他。監督はいわずと知れた、ビンセント・ミネリです。ジーン・ケリーがパリを舞台に華麗に舞う、ミュージカルです。CGなど全く使わない時代の作品なのに、映像が炸裂しています。バーチャルな技術を全く使っていません、しかしこのころのミュージカルの特徴として、いわゆる妄想、出演者が頭の中で描いた世界が華麗に美しく描かれています。人間というのは、もともと想像するものなんですね。このミュージカルでは想像の世界での映像の世界の美しさを最大限追求しています。見た人はもう一度、みていない人は是非ご覧になってください。







テクノラティプロフィール

2007年4月23日月曜日

共同体形成のための事例-映画『硫黄島からの手紙』


上は、硫黄島からの手紙のシーンとインタビューで構成されたカットです。この映画のすごいところは、クリント・イーストウッドというアメリカ人の監督が製作にたずさわっているということです。出演しているのは、ほとんどが日本人です。アメリカの映画、しかも戦争映画でここまで日本人を正面きって撮影しているものはこれが初めてのことでしょう。クリント・イーストウッド氏は、語っています。「昔から、国家のエゴにより命を失うのは一般の市民であり、そのことを描きたかった」と。アメリカでもこの映画の評判は上々だったようです。
アメリカの人も日本人の映像をみて、アメリカ人も日本人もいくら人種や考え方が違っていたとしても、同じように悲惨な目あった経験を共有できることがわかったのではないでしょうか。特に、アメリカでは、イラクの問題や同時多発テロのこともあり、身につまされたのではないでしょうか。
このような映画は言葉や文化の壁を超えて、多くの人々の考え方や、理想に対して影響を与え、共通の理念を持つために大きく寄与するものと考えます。そうして、グローバルな共同体を構築するため、価値観の共有に寄与できるものと考えます。みなさんはどう考えますか。


2007年4月22日日曜日

消えつつある共同体の再生はありうるか?

たまたま、最近以前紹介した『未来社会への変革』という書籍の書評をアマゾンに書きました。本日はその内容を掲載します。

ドラッカーのいうように、日本における企業による共同体の試みは失敗に終わったようにみえます。しかし、まだ一筋の希望は残っているように思います。

この本を読んだ皆さんはどう思っているかは判りませんが、この書籍で述べられているのと同じような組織内の共同体は日本には、戦前から存在していました。これらの共同体が各々の組織の中で均衡を保ち華々しい成果をあげてきました。日本の場合は公の組織よりも、こうした共同体が組織をある一定方向に推進してきました。役所などの公共セクター、軍部、民間企業、医療機関の中に厳然として存在し多大な成果をあげてきました。無論悪い面もあったことは否めません。

たとえば、病院の例をあげてみましょう。昔から日本の病院、特に大きな大学病院には医局なる共同体が存在してきました。医師の世界では切っても切り離せないのが「医局」の存在です。医局とは、教授を中心とした医師同士の研究仲間であり、研修医の教育機関でもあります、同一診療科の医師たちのグループのことを言います。政治の世界で例えるなら「派閥」のようなものです。ほぼ全ての医師たちが、自分の出身大学の医局に所属しています。

この医局に関しては、テレビドラマ「白い巨塔」に見られるように、負のイメージが多く植え付けられていますが、そうした負の一面がある反面、確かに教育・訓練の場として、あるいは地域医療、特に地方病院に定期的に医師を派遣するなど大きな役割を果たしてきたことも事実です。現在医局を廃止する自治体もでてきたり、相対的に医局の力が弱まってきたことも、地域医療の弱体化の一翼を担っている側面もあると思います。強力な医局の権力により、地方に定期的に医師を派遣することが出来にくくなってきたためです。

下は、テレビドラマ、白い巨塔のシーンです。

政治の世界でもしかりです。かつての軍部にも派閥が存在しました。民間企業でもしかりです。いや、それどころから日本では昔から共同体が国を動かしてきました。日本には古から、天皇制度があり、公式な政は本来天皇を頂点とした公家組織が行うべきものですが、現実には、幕藩体制が定着した江戸時代の前までは、強力な武力を持ち、武士道という理念を共にする武士共同体によって国政が司られてきました。このようなことは、法律や個人を尊重するアメリカやヨーロッパでは考えられないことでしょう。組織内の共同体に関しては、ヨーロッパ、アメリカなどより日本の方が先輩格なのです。

これらの、共同体は今では弱体化してきていますが、従来の派閥のように派閥の長と派閥構成員の利益最優先という、いわばミーイズムから脱却し、属人的な性格を捨て去り、この書籍にあるように、共同体の核心的目的を明確化し、一人ではない共同体の可能性を探り、他者との結合で何を生み出すかを再定義し、本来の目的に即したウィーイズムの使命を持つことにより再生し、これからの日本社会の大変革に寄与することになるかもしれません。

このことに、日本の組織の人々が気づけば、日本はまた、明治維新の時のように急速に大きな社会変革を達成することができるかもしれません。

■映画白い巨塔のあらすじ
東教授(東野英次郎)の定年により、その後任選挙で揺れる大阪の浪速大学医学部。そんな中で野心家の財前五郎助教授(田宮次郎)は、東一派の妨害を巧みに交わしながら、ついに教授の座へ。しかし、そんな折り、彼は院内の医療ミス問題で訴えられてしまい……。
医学界の派閥争いなどに罪をとった山崎豊子の同名小説を原作に、社会派の巨匠・山本薩夫監督が映画化した問題作。選挙のときは財前の敵だった者たちが、裁判になると医学界の権威のために一転して彼を弁護するなど、権力を巡る人間の醜さが徹底的に描かれている。モスクワ映画祭では銀賞を受賞。後に田宮は同原作のTVシリーズでも財前を演じて自身の当たり役としたが、その撮影終了直後に自殺を遂げた。
私自身は新しいほうの唐沢が演じる、財前教授より、田宮次郎の財前役の方がしっくりきます。皆さんはいかがですか?


2007年4月21日土曜日

Beatniks (2)

本日もビートニクスに関して、掲載します。
■ロックとジーンズ文化の始まり
ファッションと大きく関係のある音楽、ロックが生まれたのは戦後でした。ロックが世界中に知れ渡ったのは1955年の映画「暴力教室」タイトルバックに使われたビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」と言われています。そして、それから間もなく登場するのがエルヴィス・プレスリーです。

下はビルヘイリーとコメッツのロック・アラウンド・ザ・クロック テレビ番組の一シーンです。

ビートの聞いたサウンドはエルヴィス・プレスリーの名前とともに瞬く間に世に広がっていきます。このようなロックの愛好者たちのことはビート二クス(ビート族)と呼ばれるようになりました。ビートニクスとは、いわゆるビート・ジェネレーションと、その当時のソビエト連邦が打ち上げた人類最初の人工衛星であるスプートニクを合わせた造語です。当時のアメリカにとっては、反逆的で反抗的な若者の新たな文化・ファッションの登場は、当時の仮想敵国だったソビエト連邦の人工衛星と同じくらいショッキングなことだったのです。

下は映画監獄ロックからのカットです。
Elvis Presley - Jailhouse Rock (Music Video)




そのプレスリーのスタイル、黒の革のジャンパー、ジーンズ、リーゼントがビート二クスファッションとしてロックとともに広がりました。 またプレスリー以外にも影響を与えたのがジェームズ・ディーンです。ジーンズに革ジャン、Tシャツのスタイルもここから広がっていきます。


■日本でのファッション 「太陽族」
1955年に発表された石原慎太郎『太陽の季節』が芥川賞を受賞し、映画化されヒットしました。「太陽の季節」では石原裕次郎主演の戦後の無軌道な若者の姿が描かれていました。変な外人として岡田真澄も出演していました。石原裕次郎の弟役で、長門裕之が悪役で出演していました。このころの長門浩之はサザン・オールスターズの桑田佳祐にそっくりです。(ただし、私はビート・ゼネレーションではありません、ビデオで見ました。当然か、もしビート・ゼネレーションならもう70歳前後となります。)
映画が封切られると、その登場人物たちのファッションスタイルを真似た若者達が多く見られるようになり、一種のつっぱりが誕生します。彼らは「太陽族」と呼ばれるようになります。そのファッションの特徴はスポーツ刈りの前髪を短く刈りそろえないで額に垂らしておく髪型、Tシャツ、アロハシャツ、サングラスというものでした。この若者ファションも無論、ビートニクスの影響を受けていました。
下の写真は、あまりにも有名な「太陽族元祖会」の写真。若い日の絆は、世を去るその日まで固く結ばれていた。前列向かって左から2番目が山本さん、3番目が裕次郎。




2007年4月20日金曜日

アメリカ・バージニア工科大学の銃撃事件の犯人映像


チョ・スンフィ容疑者(23)が犯行当日の16日、NBCテレビに自らを撮影した映像を送付したものの一部です。最初の銃撃と二度目の銃撃の間に発送されたとみられ、警察当局は動機の解明につながると見て調べています。
チョ容疑者は二人を射殺した16日午前七時十五分の学生寮銃撃と、三十一人を殺害した同9時四十五分ごろの教室銃撃との合間に郵便物を出した可能性が高いといいます。
4月15日に、『未来社会への変革』を書いたばかりです。その中の一番最後の項に

「無関心とは孤独なものである。無関心な人間は、他人を見ていない。だから周囲に何も感じないし、他人の身に何が起きても気にしない。底知れない虚無に包まれ、内面を虚無で満たされている。彼らはいかなる希望も将来も持てない」。とあります。まさに、チョ・スンフィ容疑者もそのような状況にあったのではないでしょうか。

また、「我々は、21世紀を迎えるにあたり、弱く、虐げられ、孤独で、病み、絶望している人びとと連帯しなければならない。その思いが、共同体に対して気高く人間的な貢献をしたい!という願望になる。そして、自らが何者であるかでなく、他者にとって何かということで自らを規定するようになる」。とあります。
無論このような犯罪を犯した、犯人に同情するつもりはありませんが、それにしても、大学で暴力的な文章を書いていることを教授が、指摘していたとか、カウンセリングのようなものも受けていたようです。

社会の安全装置として、何かで防ぐことはできなかったのでしょうか。警察や、その他既存組織ではできなかったのでしょうか?おそらくできなかったのでしょう。また、これからも出来ない可能性が大きいと思います。

やはり、何らかの形で非営利組織の共同体を構築して防ぐということが必要なのかもしれません。今後、こうした容疑者のような人が存在したばあい、なんとか、犯罪を防ぐようにするNPOの設立が世界各所の都市に必要と考えます。

2007年4月19日木曜日

ビートニクスについて

皆さんは、この『ビートニク(Beat nik)』という語を目にしたことがあるでしょうか?この語は簡単に言うと、50年代アメリカで、『ビートジェネレーション』と名付けられた世代の若者達を『ビートニク』と呼んだ。このビートニクを理解しなければ、その後のヒッピーやBOBOs出現の背景を理解できないと思います。今日はなぜ50年代アメリカに『ビートニク』と呼ばれる若者達が出現したのかについて掲載したいと思います。

下は典型的なビートニクス映画『Rebel Without Cause』(邦題「理由なき反抗」)の一シーンです。ビートニク役のジェームス・ディーンのファションは今でも若者達の憧れの的です。


■ビートニクとは?■■■■
(1)社会
 1950年代始めアメリカでは、朝鮮戦争が勃発し、レッドパージが猛威をふるい、米ソ冷戦時代をむかえた。
 第二次世界大戦後の冷戦期は、何万という核弾頭を抱えていた。そして、”レッドパージ(「赤狩り」)”に代表される反共産主義的閉塞状況の中で、社会のすみに追いやられてしまった男性が、せめて家庭で「男らしさ」を回復する必要があった。そのため「女らしさを、、、」という考えが社会を支配し、それによって女性がその社会からの押し付けと家庭に縛られるようになった(このことは、早婚が流行し、ベビーブームをさらに増長した)。

(2)”ビートニク”が生まれたきっかけ
 ビートニクが生まれたきっかけは、 ジャック・ケルアック(Jack Kerouac) の 『路上』(On The Road) という、1冊の小説でした。 

▼『路上』の簡単なあらすじ
 主人公のサルは、驚くべき奇矯児ディーンの活力に溢れた言動に魅かれて、アメリカ大陸を幾度となく流浪の旅をし、メキシコまで足をのばします。その間、女性関係を含むディーンのあらゆるトラブルに巻き込まれていきます。
 

▼若者たちが、『路上』から読み取ったもの
 「路」は、アメリカの自由、人間の自由を象徴しています。大戦後の冷戦期に画一的順応主義や物質主義、管理社会に縛られていた若者達は、アメリカの壮大な「路」をとおして、ディーンが何にもとらわれず自由に生きる姿に憧れました。それによって、「縛られた社会から飛び出して自分のやりたいことを自分のやりたいようにやろうじゃないか!」というメッセージを読みっ取ったのです。

(3)ビートニクの特徴
▼外見
 あごひげ、ジーパン姿、裸足の男達、長髪に黒いドレス、黒いストッキングの女達が、サンフランシスコなどを中心として群がり始めました。(この時点で、男は長髪ではない。男の長髪は、60年代に入ってからである。)
▼生き方
 ビートニクは、生きている実感を取り戻すために本当に大切なもの以外の全てを生活から切り捨てました。貧乏を良いこととし、つつましさと自由のバランスを保ちながら生きる、黒人ジャズミュージシャンの人生のなかに答えを見つけようとしました。また、社会や、その価値観に対する軽蔑を服装によって示したり、麻薬煙草、飲酒、奔放なセックスなど、可能な限りの手段を結合して、その精神的、肉体的リズムから新しい次元の世界に到達しようとするものでした。
  

Singing In The Rain

本日はまた、ミュージカルの紹介をさせていただきます。
紹介するのは、MGMの大傑作"Singing In The Rain"です。私の最も大好きなミュージカルです。時代背景を説明しておくと、まずこの映画の製作は1952年です。長引いた第二次世界も終了して、戦争の傷跡はあったものの、国内は戦場に巻き込まれず、アメリカが経済的にも世相的にも落ち着き、まだベトナム戦争にも突入しておらず、自信に満ち溢れた、良き時代です。ただし、ミュージカルの舞台はトーキー映画が導入された1930年代です。大恐慌から立ち直り、まだ戦争に本格的に始まっていないころのアメリカです。鷹揚で屈託のない、全く屈折が感じられない、前向きの楽しくて、愉快で、上品で、面白くて、他愛のないアメリカの良き時代のテイストが味わえます。まず、下は予告編です。


以下は、ドナルド・オコンナーのMake'em Laughです。

下はジーン・ケリーの"Singing In The Rain" ミュージカル史上最も有名なシーンと言っても過言ではありません。


下は、ジーン・ケリー、ドナルド・オコンナー、でビー・レイノルズによる"Good Morning"です。

このミュージカル、先に紹介したProducers(一昨年の映画です)にも多大な影響を与えています。さて、どこに影響を与えているのか、両方を見比べると良くわかります。「雨に歌えば」がこのミュージカルの邦題です。まだ、見たことのない人は是非ご覧ください。もう見た人も何回も見るとまた、新しい発見があるかもしれません。

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