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2018年5月28日月曜日

中印関係「雪解け」は一時的―【私の論評】諸悪の根源、侵略国家中国はインド太平洋地域で、過去の歴史を繰り返す(゚д゚)!



武漢で非公式な首脳会談を行ったインドのモディ首相と、習近平

中国の習近平国家主席とインドのモディ首相は、4月27~28日に、中国の武漢で非公式な首脳会談を行った。インド政府の発表によれば、要点は次の通りである。

 両首脳は、中印両国が経済大国、戦略的主要国として同時に興隆することが、地域と世界にとり重要な意味を持つと考える。平和的、安定的で、バランスの取れた中印関係が、現在のグローバルな不確実性の安定化にとり有益なファクターである、との見方を共有する。中印2国間関係の適切な管理は、地域の発展と繁栄に資するものであり、「アジアの世紀」の前提条件となる。

 両首脳は、中印国境問題に関する特別代表の作業への支持を表明し、公平、合理的、相互に受け入れ可能な解決を追求する努力を強化するよう求めた。中印国境地帯全域の平和と静穏の維持が、両国関係全体の発展において重要であることを強調。国境問題の管理における、両国軍間の信頼醸成、相互理解、予測可能性を高めるための戦略的ガイダンスを発表。国境地帯における偶発事態を防ぐべく、両国軍にさらなる信頼醸成の実施を指示した。

 両首脳は、2国間の貿易と投資を、均衡的で持続可能なやり方で前進させることで合意した。文化的、人的交流の促進についても議論し、新たなメカニズムの構築を模索することで合意した。

 両国は、戦略的対話を強化する必要につき合意。かかる戦略的対話は相互理解に役立ち、地域と世界の安定に貢献する。

 中印はそれぞれ、成長と経済発展を通じて世界の平和と繁栄に大きな貢献をしており、今後とも世界の成長のエンジンであり続けるだろう。開放的、多極的、多元的、参加型のグローバル経済秩序は、あらゆる国の発展追求を可能にし、世界中の貧困と不平等の除去に貢献する。

 気候変動、持続可能な発展、食料の安全、感染症との戦い、テロ対策など、グローバルな問題で、両国は協力する。

出典:‘India-China Informal Summit at Wuhan’インド外務省

 今回の非公式首脳会談は、毛沢東ゆかりの地である武漢で開催され、両首脳は、船上でお茶を飲み、インド音楽を聴くなどして、友好ムードを演出したという。中国外務省は、習近平が「今回の会談で両国関係の新たな1ページを開きたい」と語り、モディが「今回の会談は歴史的意義を持つ」と述べた、と発表している。両国とも、何らかの形で経済関係を好転させたい意図があることは、上記会談の要点からも見て取れる。しかし、中印関係が緊張する戦略的構図に何ら変化がないのであるから、武漢での首脳会談で演出された「雪解け」は、あくまでも一時的なものにとどまると考えられる。

 中印関係を緊張させる第一の要因は、1962年の中印国境紛争の原因ともなった、ヒマラヤにおける国境問題である。昨年だけをとってみても、次のような小競り合いが起こっている。6月に中国がブータンのドクラム高原に道路を建設し始めたことに対抗し、8月にはブータンの擁護者であるインドが部隊を派遣、中印両軍がにらみ合った。12月末には、インドが実効支配するアルナーチャル・プラデーシュ州で、中国による道路建設に対し、インド軍とインド・チベット国境警察が出動し、中国側の作業員を追い返すなどしている。

 中印間の緊張の大きな要因には、国境問題に加え、中国のインド洋への進出、中国とパキスタンの関係緊密化がある。両者はともに、最近中国が強力に推進している巨大経済圏「一帯一路」構想とも関連している。

 「一帯一路」のうち「一路」に当たる「海洋シルクロード」は、歴史的にインドの影響下にあったインド洋を舞台にしている。中国は、インド洋沿岸国へのインフラ投資を強化している。スリランカやモルディヴへの港湾建設は、その典型的な例である。また、中国はインド洋に海軍を積極的に展開し、インドに強い警戒感を与えている。

 そして、「一帯一路」には、インドの宿敵パキスタンが含まれる。この点は、インドにとって極めて重大である。インドとパキスタンは、カシミール地方をめぐって常に一触即発の状態にあるが、「一帯一路」の主要構成要素と位置づけられる「中国パキスタン経済回廊」は、そのカシミール地方を通過する。インドが強く反発するのは当然である。


 したがって、インドは「一帯一路」への警戒を隠さず、上記首脳会談の直前の4月24日に北京で開催された上海協力機構(SCO)外相理事会のコミュニケで、参加国中唯一「一帯一路」への支持を表明していない。「一帯一路」にはネパールも含まれるが、武漢での会談後の5月11日にはモディ首相が、親中派が政権の座についているネパールを訪問し、両国の関係強化で一致するなど、巻き返しを図っている。

 そして、インドは、中国のインド太平洋地域における影響力の増大に危機感を抱き、日米豪に接近している。日本が掲げる、自由、民主主義、市場経済、海洋の自由といった価値を基本に据えた「自由で開かれたインド太平洋戦略」は、インドにとっても魅力的に映ると思われる。中印関係が劇的に好転する要因は見当たらず、インドと日米豪との接近は続くことになろう。

【私の論評】諸悪の根源、侵略国家中国はインド太平洋地域で、過去の歴史を繰り返す(゚д゚)!

最近では、北朝鮮のことが、注目されていますが、これ以外の地域でも世界は未だに緊張が続いています。中国は北朝鮮の後ろ盾となっていますが、その中国はブログ冒頭の記事のようにインドとの対立が続いていました。

ブログ冒頭の記事では、中印関係が劇的に好転する要因は見当たらず、インドと日米豪との接近は続くことになると予測しています。

なぜこのようなことがいえるのかとえば、過去の中印、インド・パキスタン関係の歴史をみれば明らかになります。

以下に中印国境紛争の歴史をまとめておきます。

1962年10月に起こった中国軍とインド軍の国境での衝突。中印戦争ともいいます。中国とインドは1954年に周恩来とネルーの間で「平和五原則」による友好関係を成立させていました。また、ネルーは非同盟主義を提唱し、二大陣営のいずれとも同盟関係を結ばないことをインド外交の方針としていました。

周恩来(左)とネルー(右)

チベットの反乱から国境紛争へ

ところが、1957年ごろからヒマラヤ山中の両国国境をめぐって対立が始まった。1959年に中国によるチベット侵略が始まりチベット内で反乱が起こり、ダライ=ラマ14世がインドに亡命したことから対立は決定的となりました。ネルーは中国との友好という原則があるとはいえ、チベットの保護とインドの安全のためには軍事行動もやむを得ないと表明しました。

24歳のダライ・ラマ、1959年4月14日

1962年10月、中国軍が中印国境の東部(1914年、イギリスの仲介で設けられたマクマホン=ライン)と西部(カシミール地方)で軍事行動を開始、インドも「祖国防衛」を呼びかけ応戦し、戦争状態に入りました。しかし、インド軍は全戦線で中国軍に圧倒され、苦境に立たされることになりました。

ネルー、非同盟外交政策を放棄

厳寒のヒマラヤで夏服で戦ったインド軍が壊滅的な敗北を被り国中がパニックに陥りました。ネルーはケネディに支援を要請し、ケネディはネルーの体面を保ちながら支援に踏み切りました。11月下旬中国は一方的に休戦を宣言し、兵を引き揚げました。

当時のケネディー米国大統領

この戦争は米印関係を好転させましたが、ネルーの非同盟主義が破綻したことを明らかにしました。中印戦争でソ連は中立を保ち、それ以上に非同盟主義で連帯する国家でインドを支援した国はほとんどなく、その政策を常に批判していたアメリカから支援を受けざるを得なかったのです。

この対米傾斜はアメリカの同盟国パキスタンを中国に接近させました。このときすでに病気であったネルーは、64年5月死亡しました。

未解決の中印国境問題

中印国境紛争は「宣戦布告なき戦争」でした。中国軍は優勢なまま、全面的な停戦と撤退を表明しました。東部ではインドの主張するマクマホン=ラインを中国は承認せず、西部のカシミール地方ではインドが自国領であるとするアクサンティ地区を中国は実効支配し、自動車道路を建設しています。

この戦争開始と共にインドと中国はそれぞれ大使を引き揚げ、外交関係は断絶しましたが、中国はソ連、インドはパキスタンというそれぞれ新たな敵対国があらわれたため、ようやく1976年に大使を交換し外交関係を再開させました。しかし、国境問題は依然として未解決のまま、棚上げされた状態で今日に至っています。

以下には、インド・パキスタン戦争についてまとめます。

インド・パキスタンの双方の独立した1947年以降、インドとパキスタンは3次にわたる戦争を展開しました。第1次と第2次はカシミール帰属問題、第3次は東パキスタン独立問題をめぐって起こりますした。

第1次インド=パキスタン戦争

1947年 独立に際し、カシミール藩王国の藩王はヒンドゥー教徒であったのでインド帰属をめざしたのですが、住民の大部分を占めるイスラーム教徒が反発し衝突。インド軍、パキスタン軍がそれぞれ軍を派遣し軍事衝突となりました。インド軍優勢のうちに国際連合の調停で休戦しました。

第2次インド=パキスタン戦争

1965年 インドが実効支配していたジャンム=カシミールの完全統合を宣言したことにパキスタンが反発。背景にはインドが中印国境紛争(1962年)で中国軍と戦い、実質的に敗北したことがあげられます。

カシミール地方の国境上で両国が武力衝突し、米ソの国連での働きかけによって停戦が成立しました。この停戦ラインによってそれぞれ実効支配を分けていますが、双方ともカシミール全域の領有権の主張を取り下げておらず、国境問題は現在でも未解決となっています。

第3次インド=パキスタン戦争

1971年 パキスタンが東部パキスタン(ベンガル地方)の独立運動を弾圧。多数の難民が発生しました。インドのインディラ=ガンディー政権は東部パキスタンに対して軍事援助を行って、独立を支援しました。インドが有利な闘いを進めて勝利し、その結果、東部パキスタンは独立してバングラディシュとなりました。

東パキスタンがパキスタンから分離した結果、インドとパキスタンの係争地点はカシミール問題に集中することとなり、両国はそれぞれの実効支配地域への軍配備を増強し、にらみ合いは現在でも続いています。

印パの核実験

特に80年代には、インドにおけるヒンドゥー至上主義が台頭し、ナショナリズムを掲げたインド人民党(BJP)が1998年には政権を獲得するに至り、パキスタンでも軍事政権によるイスラーム化が進められました。1998年にインドが核実験に踏み切ると、同年、パキスタンが核実験で対抗、南アジアにおける核戦争の勃発が危惧されました。

印パ対立の背景の変化

カシミール地方では、再三、両国軍が衝突する事態となりましたが、一定の抑止力が働き全面戦争へのエスカレートは抑制されました。その背景には、1991年にソ連の解体し、東西冷戦の構造が解消されたことが挙げられます。

それまでの両国の対立は、インドはソ連と、パキスタンはアメリカ及び中国と結びついてそれぞれ支援を受けるという構造がありましたが、ソ連の崩壊によってインドはアメリカとの和解に向かわざるを得なくなりました。

また、中国との関係も、中国で改革開放路線が進んだ結果として改善されていきました。そのような中、両国とも核武装を維持することは経済を圧迫し、経済成長を阻害することが明らかになっていました。

そのような中で2001年、9.11同時多発テロが発生、アメリカはイスラーム原理主義との対決を強めるため、インドとパキスタンの対立を解消する必要に迫られました。そのような情勢の変化から、アメリカはインド=パキスタンの和平に積極的に関わり、両国関係は次第に安定しました。

ムンバイ同時多発テロ

しかし、2008年11月にはインドのムンバイで同時多発テロが起こり、ホテルなどが襲撃され、日本人を含む160人が殺害されました。インド当局は、パキスタンから越境したイスラーム過激派の犯行と断定し、パキスタン側に犯人の引き渡しを要求しました。

パキスタンはテロ実行犯を逮捕しましたが、インドへの引き渡しは拒否し、2015年4月の裁判では武装組織の司令官を証拠不十分として釈放しました。インドは強く反発し、両国関係の悪化が危惧されています。

ムンバイ同時多発テロで燃え上がるラグジュアリーホテル タージマハル

以上の歴史を見直してみると、中国とインド、インドとパキスタンの関係が悪化した、最初の原因は、1959年に中国によるチベット侵略が始まりチベット内で反乱が起こり、ダライ=ラマ14世がインドに亡命したことから始まっていることがわかります。

特に中印関係が悪化したのは、中国が原因であることがはっきりしています。今日、侵略国家中国は南シナ海を侵略し、そこを拠点にインド太平洋地域に進出しようとしています。

地図上の濃い青の部分が生物地理学上のインド太平洋

今のまま放置しておけば、中国はインド太平洋地域において過去の歴史を繰り返すのは必定です。日米豪印は、一致協力して、これを食い止め中国を封じ込めなければなりません。北朝鮮情勢がある程度収束すれば、次の世界の課題は中国封じ込めになります。

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2016年6月10日金曜日

【書評】寄らば大樹の陰。朝鮮内部抗争に振り回された日本の歴史―【私の論評】過去の歴史に学び朝鮮半島とのつきあいは、拉致問題などの例外は除きほどほどにすべき(゚д゚)!


戦争が起こるたびに、巻き込まれた多くの人たちが傷つき涙することになります。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、我が国からも多くの犠牲者を出した日清戦争、日露戦争の発端が「韓民族の内部抗争」だったという説を唱える石平(せき へい)さんの新著を紹介。「この本を読まずして、北朝鮮や韓国に関する歴史も外交も議論できない事になる」と大絶賛しています。

 東アジアのトラブルメーカー
写真はブログ管理人挿入 以下同じ

石平氏の最新著『韓民族こそ歴史の加害者である』が面白い。タイトルこそセンセーショナルだが、冷静な筆致で史実を丹念に辿り、その上で、このタイトル通りの結論を引き出している。

「目から鱗(うろこ)」という使い古された表現があるが、この本はまさに、今まで我々の目を覆っていた「韓民族は日本帝国主義の被害者だった」という鱗を取り除き、韓民族の真の姿をはっきりと見せつけてくれる。今後、この本を読まずして、北朝鮮や韓国に関する歴史も外交も議論できない事になるだろう。

前置きが長くなったが、本書は、韓民族が内部抗争に勝つために周辺諸国を戦争に引きずり込んだ、というパターンが、7世紀初頭の高句麗・百済・新羅の三国統一戦争から、20世紀の朝鮮戦争まで繰り返されたという史実を克明に描いている。

その中で、日本が巻き込まれたのが、西暦661年の白村江の戦い、1274(文永11)年、1281(弘安4)年の元寇、そして近代の日清戦争、日露戦争である。特に元寇では、高麗国王が自らの生き残りのために、日本征伐をフビライに提案する経緯が生々しく描かれていて、「そうだったのか」と思わせる。

本稿では、このうちの近代における日清、日露、朝鮮戦争の部分のさわりを紹介して、同書への誘(いざな)いとしたい。

 政府側とクーデター側がそれぞれが外国軍を引き込んだ

日清戦争の発端は、朝鮮王朝の第26代国王・高宗の実父・大院君と、王妃・閔妃(びんひ)一派の抗争だった。閔妃一派は、1873年に大院君を失脚させ、日本と日朝修好条約を結んで、近代化路線をとった。その一環として、日本から軍事教官を招いて、軍の近代化を図った。

閔妃
これに不満を抱いた旧式軍の軍人たちが、1882年、閔妃一族の高官の屋敷を襲った後、大院君の許に逃げ込んで、助けを求めた。大院君は、これを権力奪回のチャンスと見て、閔妃一族の殺害、日本公使館と日本人教官の襲撃を命じた。彼等はその指示通り、日本人13人を虐殺した。

閔妃は宮殿から逃げ出したが、高宗に密書を送って、起死回生の秘策を授ける。それは密使を清国に送って、軍勢を派遣して貰うよう依頼することだった。それに応えて、清は3,000人を朝鮮半島に送り込み、反乱を起こした韓国軍兵士たちを鎮圧した。

これを機に、清国は3,000人の軍勢をそのまま半島に駐留させ、朝鮮を完全な属国とした。大院君は捕らえられ、清国に拉致された。

この状況に反発したのが、金玉均(きんぎょくきん)率いる若手官僚グループであった。金玉均は日本とのパイプを持ち、漢城(現在のソウル)に駐留していた日本軍の力を借りて、閔氏一族を一掃し、高宗を担いで政権を掌握しようとした。当時、多数の邦人を殺された日本は、邦人保護のために、朝鮮政府の許可を得て、数百人規模の兵力を漢城に置いていたのである。

金玉均が、日本の明治維新をお手本として朝鮮の近代化を目指し、日・中・朝鮮の3国の同盟でアジアの衰運を挽回すべきという「三和主義」は、福沢諭吉など日本の朝野の支持を集めていた。

金玉均ら50名は日本軍150名とともに、1884年にクーデターを起こし、一時は新政府樹立を宣言したが、清国軍1,500人と朝鮮政府軍の反撃で、衆寡敵せず、わずか3日で鎮圧された。金玉均は日本公使・竹添進一郎とともに海路日本に脱出したが、約30人の日本人が殺害され、さらに多くの朝鮮人が処刑された。

 日本を清国と戦わせて独立を宣言

1889年、「東学党の乱」と呼ばれる農民一揆が起こり、1894年には数万人規模となった農民軍が一地方を占拠した。朝鮮政府は、東学党鎮圧のための出兵を清国政府に要請した。清国は2隻の軍艦を仁川に派遣し、2,800人の兵を上陸させた。

これに対抗して、日本は公使館と居留邦人保護という名目で約6,000人を派兵した。10年前の乱の際に、日本は清国と「天津条約」を結び、どちらかが朝鮮に派兵した際には、通告すると約束していたのである。

石平氏は、こう語る。

近代朝鮮が自立した独立国家として、南下する大陸国家との緩衝地帯になってくれず、清国の大軍を半島に招き入れて植民地支配を受け入れたことが、日本の安全保障に重大な脅威を与えていた以上、日本はもはや戦わざるを得なかった。
(『韓民族こそ歴史の加害者である』 p156)

7月23日、大鳥公使は、清国から送還されて謹慎中だった大院君を擁立し、その命を受ける形で、日本軍は王宮を占拠し、親清派の閔氏勢力を一掃した。ここに日清戦争が始まったのである。

機を見るに敏な高宗は、1895年1月、まだ日本軍が清国と戦っている最中にも関わらず、世子や王族・各大臣を引き連れて、清国との宗族関係を破棄したとする独立誓告文を宗廟に奉告し、全国に宣布した。戦い続けている日本と清国こそ、いい面の皮である。

日清戦争に勝利した日本は、清国と日清講和条約(下関条約)を結ぶが、その第一条は「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する」となっている。

まさに朝鮮は、日本の力によって、「自主独立」の地位を得たのである。

 今度はロシアに急接近

日本は下関条約で、台湾と遼東半島を得たが、これに待ったをかけたのが、ロシアだった。ロシアはドイツ、フランスと謀って、遼東半島を清国に返還するよう要求した。三国を敵に回す力のない日本は、やむなくこの三国干渉に従った。

これを見て、高宗と閔妃は手のひらを返すように、ロシアに急接近した。ロシア公使のウェーバーと共謀して、内閣の親日改革派を追い落とす。

このままでは朝鮮半島をロシアに握られ、日本にとっても一大危機となると、三浦梧楼公使と日本の浪人たちが、朝鮮の王宮に乱入し、閔妃を斬殺した。この蛮行で、国際社会と朝鮮国内の日本の立場は悪くなり、親露派が勢いを増した。

1896年2月、親露派はウェーバーと共謀して、ロシア軍艦から120名の将兵を漢城に呼び出し、彼等に護送される形で、高宗と世子をロシア公使館に移した。高宗は親政を宣言し、内閣の大臣5人を逆賊として逮捕殺令を布告した。

こうして朝鮮国王がロシア公使館から「親政」を行うという世界史上でも類例のない珍事が1年以上にわたって続いた。親政といっても、ロシア人の将校と財政顧問がそれぞれ軍事と財政を握った属国政治である。

こうして、日本は日清戦争を戦って、清国の覇権を排除したのもつかの間、今度はさらに強大なロシアが半島に居座ってしまったのである。日本の独立が再び脅かされる事態となり、今度は日露戦争を戦わざるをえなくなった。

何とか、日露戦争に勝って、ロシアと結んだポーツマス条約の第一条では、「ロシアは大韓帝国における日本の政治上・軍事上および経済上の利益を認め、日本の韓国に対する指導、保護および監督に対し、干渉しないこと」と約した。まさに清国相手の下関条約の繰り返しだった。

 日韓合邦への熱烈な大衆運動

ロシア勢力を駆逐した後、日本は日韓合邦に進むが、その動機を石平氏はこう解説する。

韓国を放っておけば、悪夢のような歴史がまた繰り返されるかもしれない。日本にとって、「朝鮮問題」の完全かつ最終的な解決は、韓国そのものの併合以外にはないというのが、当時の帝国主義や植民地主義、弱肉強食の世界秩序の中で、安全保障を手に入れる鉄則だったのである。
(同 p167)

しかし、奇妙なことに、朝鮮側でも、日韓合邦を熱望した一派がいた。自称100万、実態は20数万人の、当時としては最大規模の民間団体「一進会」である。一進会は「外交権を日本政府に委託し、日本の指導保護を受け、朝鮮の独立、安定を維持せよ」という宣言書を発表した。さらに会の幹部は、1909(明治42)年2月、桂太郎首相に、両国の「合邦」を提言した。

日本政府が日韓合邦を進める上で、こういう韓国内の声が大きな後押しとなった。日本との合邦を決めた韓国の閣議でも、一人を除く全閣僚が賛成した。

ある民族がその大衆運動によって、自国の独立を進んで犠牲にしてまで隣国への吸収合併を望むというのは、世界史上の奇観である。アメリカの朝鮮史家グレゴリー・ヘンダーソンは、一進会の動きを評し、「事実それは、政治史上、自分の民族に対して行われた反民族主義的大衆運動として、今までになかった唯一の例である」と述べている。

もちろん、日本に習って自分たちの近代化を進めようと努力した人々もいたが、やはり朝鮮の伝統的な事大主義、すなわち「寄らば大樹の陰」という心情が一般大衆の中に根づいていなければ、ここまでの熱烈な大衆運動は起こりえなかっただろう。

併合期間中に、日本政府は朝鮮半島に近代化のための膨大な資本投下を行い、30余年間で農業生産も人口も2倍以上に増加するという高度成長を実現した。しかし、その平和と繁栄も、日本の敗戦によって終止符が打たれる。

 内部抗争から始まった朝鮮戦争

日本の降伏後、米ソは38度線を境にして、それぞれ南北を占領した。米ソ英は5年間の信託統治期間の後、朝鮮の独立と統一政権の樹立を図るという「モスクワ協定」を結んだが、肝心の韓民族自身が、例の如く内部闘争に明け暮れて、統一政権どころではなかった。

結局、ソ連を背景とした金日成と、アメリカから戻った李承晩が、それぞれ北朝鮮と韓国の政権を樹立した。それだけでなく、彼等は、それぞれ相手国を打倒して、自らが朝鮮の統一政権になることを目指していた。

最初に仕掛けたのは金日成だった。当時は日本の産業施設が多く残っていた北朝鮮の方が、農業中心の韓国よりも、圧倒的に国力は上だった。金日成はソ連のスターリンに南進の許可を求めた。邪悪な政略の天才スターリンは、もしアメリカとの戦争になったら、中国を矢面に立たせようと、毛沢東の支援を得るよう指示した。

中華人民共和国を建国したばかりの毛沢東は慎重で、38度線を越えてアメリカが攻め込んできたら、自国の国境が脅かされるので参戦をする、と消極的な支持を表明した。これをもとに、北朝鮮は1950年6月25日、38度線を越えて、韓国内に侵攻した。

 3ヶ月で済んでいたはずの朝鮮戦争が…

北朝鮮は2ヶ月後の8月末には南朝鮮の90%以上の領土を占拠したが、ここで米軍を中心とした国連軍が救援に入り、わずか1ヶ月でソウルを奪還した。米軍も国連軍も、38度線まで奪還すれば、そこで戦闘を止める計画だった。その通りに事が運んでいたら、朝鮮戦争は3ヶ月で停戦を迎えていたはずだった。

しかし、ここで李承晩は一気に北朝鮮を打倒して統一政府を作ろうと、韓国軍に38度線を突破させた。これに引きずられる形で、国連軍も38度線を越えて進撃し、ついには中国国境沿いにまで近づいた。ここで毛沢東はやむなく中国共産党軍を投入したのである。

こうして米中の激突となった朝鮮戦争はさらに2年9ヶ月以上も続き、結局、38度線の振り出しに戻って、停戦を迎えた。金日成なくば、そもそも朝鮮戦争は起こらずに済んだかも知れないし、李承晩がいなければ、3ヶ月で終わって、その後の600万の犠牲者の大部分は失われずに済んだろう。

結局、韓民族の内部抗争と外部勢力の引きずり込みという伝統的な宿痾で、米中ともに何の益もない戦争に巻き込まれたのである。

 活用し損ねた歴史の叡知

こうして朝鮮半島の歴史を通観して見ると、日清、日露、朝鮮戦争という3つの戦争とも、同じ構造をしていることが明らかになる。韓民族が内部抗争に勝つために、それぞれ周辺諸国を戦争に引きずり込むというパターンである。

通常の民族のように、韓民族が一つにまとまって独立統一国家を作っていれば、中国、ロシア、日本の緩衝地帯となり、東アジアの平和が保たれていた可能性もある。そう考えると、韓民族は「東アジアのトラブルメーカー」だ、という石平氏の指摘は説得力を持つ。

韓民族が内部抗争という宿痾を自ら克服できないなら、今のように南北でせめぎ合い、結果として日米中ソの緩衝地帯になっている方が良い、というのは、冷酷な地政学的戦略から言えば、合理性がある。米中とも、現在はその戦略をとっているのだろう。だから、北朝鮮で膨大な餓死者が出ようと、各国は手は出さないのである。これが冷厳な国際社会の実態である。

「半島とは一定の距離をおいて、韓民族内部の紛争にできるだけ関与しないようにするのが、もっとも賢明な道」とは石平氏の結論であるが、この本で半島の歴史を丹念に辿ってみれば、頷くしかない結論である。

この結論は、日清戦争前に金玉均が残忍な方法で処刑された後、彼を支援していた福沢諭吉が『脱亜論』で「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と語ったのと同じである。この叡知を当時から活用していれば、我が国の近代史もまた別の形になったであろう。我々は歴史の叡知を活用し損ねたようだ。

文責:伊勢雅臣

【私の論評】過去の歴史に学び朝鮮半島とのつきあいは、拉致問題などの例外は除きほどほどにすべき(゚д゚)!

石平氏の最新著『韓民族こそ歴史の加害者である』はまだ読んでいませんが、近々読んでみようと思っています。

ブログ冒頭の記事を読んでいて、思いだしたのは、先日このブログで以下のようなことを述べたことです。
今日の世界では、国連が国連軍を組織して、紛争地に国連軍などを送ることができますが、日露戦争前後には無論そんな組織はないし、大東亜戦争直前にも、国際連盟はありましたが、その国際連盟には米国は加盟しておらず、また当時の国際連盟には今日の国連軍のような組織を作ることはできませんでした。 
現在の国連は、決議に従わない国に対しては、武力による制裁もできますが、当時の国際連盟では決議に従わない国に対しては勧告や経済制裁しか行えませんでした。 
だから、紛争地帯などに各国が自国の裁量で当該国の了承などにもとづき軍隊を派遣するのは当たり前のことで、これを侵略とはいいません。だから、朝鮮半島や、満州に当時日本の軍隊がいたからといって、当時の状況ではそれが即侵略とは受け取られることはありませんでした。 
もし、日本を侵略国家とするならば、世界のすべての先進国も侵略国家ということになってしまいます。 
その日本も、後に国際連盟から脱退し、その後から他国の日本に対する評価は変わってきました。ただし、マッカーサーはこの地域の実情を知り、上記のような証言をしたわけです。これについては本日の話の本題ではないので、その話はまた別の機会に掲載しようと思います。
この記事とブログ冒頭の記事をご覧いただければ、日本の軍隊が朝鮮半島に駐屯していたからといって、それが侵略とはいえないことは、良くご理解いただけるものと思います。

詳細は、この記事のリンクを以下に掲載しますので、こちらをご覧になってください。
韓国が共同訓練閉幕式で海自艦の入港拒否 「日本軍国主義の象徴」旭日旗にメディアが猛反発―【私の論評】正しい歴史認識のできない中韓・北朝鮮には嫌われる勇気を持て(゚д゚)!
 

この記事で述べたように、当時は紛争地帯などに各国が自国の裁量で当該国の了承などにもとづき軍隊を派遣するのは当たり前のことで、これを侵略とはいいません。当時の朝鮮の要請にもとづいて日本は、軍隊を赴かせたのですから、それを侵略というのは筋違いです。

この記事にも掲載した、日露戦争関連の地図を以下に掲載します。


現在の朝鮮半島の地図を以下に掲載します。



この両者を見比べていただくと、日露戦争の主戦場はほとんどが、現在の南北朝鮮ならびに現在の中国の東北地方(満州)で行われていたことがわかります。

そうして、その後も朝鮮半島に日本軍が駐屯していたのも、当時の朝鮮が望んだためであり、日本が侵略した結果ではないことがわかります。実際当時の日本軍は、清國やロシアの軍隊とは戦ったことはありましたが、朝鮮の軍隊とは交戦していません。ましてや、朝鮮の軍隊と戦って、侵略したなどはありません。これが、史実です。

それにしても、当時の朝鮮も今日のように、どうしてこのような煮え切らない態度ばかりとったのか、理解に苦しみます。

その原因に関してヒントとなるのが、呉善花氏の以下の記事です。
韓国の執拗な日本攻撃の原因は植民地支配より深い根がある
呉善花氏
詳細は、この記事をご覧いただくものとして、その原因とみられる部分のみをこの記事から以下に引用します。
 韓国人は「反日主義」や「反日感情」以前に伝統的な「侮日観」を抱いている。侮日のルーツは「中華思想」だ。14世紀末に成立した李氏朝鮮(李朝)は明の皇帝に冊封を仰ぎ、中華秩序に組み入れられた。李朝は明にならって“中国化”を進め、やがて自らを中国と文化的同質性をもった「小中華」だと意識するようになった。 
 彼らにとって地理的・文化的に中国から離れた日本は野蛮な夷族の地であり、なおかつ日本人は文化的に程度が低く侵略的で、蔑視すべき民族だと考えていた。実際、近代以前から朝鮮半島では日本人を「倭人」「蛮酋」などと蔑み、現代でも「日本奴」(イルボンノム=日本野郎)、「猪足」(チョッパリ=豚の足のような足袋を履く日本人)といった差別用語を日常的に使っている。 
 国土の狭い朝鮮で本家・中国よりも「純化」された小中華主義により、李朝の日本蔑視はさらに強化された。同時に善と悪を明確に区別する朱子学により、野蛮な日本の行動をすべて「悪・不正義・侵略」とみなす考え方が浸透した。 
 同時期の日本では文化の多様性が育まれたのに対し、朱子学のみを信仰する李朝は中央集権化を推し進め、言論や思想は硬直化した。オバマ氏の広島訪問に、韓国メディアが判で押したような主張をするのも、李朝以来の“伝統”といえる。
 李朝500余年で培われた侮日観を背景にして、戦後に反日教育が盛んになると、幼い子供まで「日本をいくらバカにしても構わない」と思うようになった。

侮日=民族の誇りであり、韓国のアイデンティティであるがゆえ、日本蔑視は決して消えない。個人的には親日でも、こと歴史問題や慰安婦問題が絡むと侮日意識が唐突に蘇り、同じ人間が反日となる。一人の人間に親日と反日が同居するのが韓国人の複雑さだ。 
 今後も日韓関係は予断を許さない。日本ではあまり報じられないが、多くの韓国人は昨年末の日韓合意に反発し、世論は反日で沸騰している。今後も慰安婦の世界遺産登録など、韓国の反日行動が続くだろう。

日本は歴史に基づく韓国の日本蔑視を十分に理解して、韓国と向き合う必要がある。中途半端な理解で深入りすれば、日本が受ける傷が大きくなるばかりだ。
結局のところ、中国やロシアには媚びても、日本は侮日ということで、日本は古くから朝鮮半島に引っ掻き回されてきたということです。古くは、といえば、元寇のときに日本に攻めてきた、モンゴル軍を多くの日本人は、未だにモンゴル人が大半であったと考えているようですが、それは違います。モンゴル軍の大半は、朝鮮人でした。このくらい古くから、日本は、朝鮮半島に引っ掻き回されてきたのです。

もうこんな半島に引っ掻き回されるのは御免です。先のこのブログからの引用記事にも書いたのですが、侮日感に凝り固まり正しい歴史認識ができない韓国などとは、何やら歴史修正をしたときには、徹底的に論破して水掛け論に持っていき、後は、冠婚葬祭程度のつきあいにとどめることが正しいつきあい方です。

下手につき合うと、また北朝鮮、中国、ロシアなどとともども、紛争などに巻き込まれてしまう可能性が大きいです。

過去の経験に学び、朝鮮半島とのつきあいは、拉致被害者問題に関してなどの例外は別にして、ほどほどにすべきです。

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2015年6月25日木曜日

軍事ジャーナル【6月19日号】戦争になる?―【私の論評】過去の歴史では、多国間の集団的自衛権を可能にしたことにより世界の平和が維持されてきた(゚д゚)!

軍事ジャーナル【6月19日号】戦争になる?

メルマガ『鍛冶俊樹の軍事ジャーナル』

発行日:6/19


安全保障法制に反対する左翼が、またしても「戦争になる」と言って大騒ぎをしている。60年安保のときも1990年代のPKO法制定のときも「戦争になる」と言って大騒ぎをしていた。

PKO法が成立して自衛隊が海外に派遣されて、しばらくしてマスコミから問い合わせがあった。「どうして戦争にならないのですか?」どうやらその人は私を左翼ジャーナリストと勘違いをしていたらしい。

つまり「あれだけ戦争になると言っていたのに戦争にならないのはどういう訳か?」と責任を追及に来たらしい。「私は戦争になるなんて一言も言っていませんよ。あなたたちマスコミが左翼に踊らされただけでしょう」と言い返してやった。

するとその人は態度を軟化させ「失礼しました。実はこちらも困っているんです。視聴者から「本当は戦争になっているのにマスコミは隠しているんじゃないか?」などと問い合わせがあるものですから」

下手に出てきたので、私は国際情勢と左翼のこけおどしの関係について説明してやった。納得して聞いていたようだが、その次の言葉が私を驚愕させた。「何とか戦争になりませんか?視聴者に申し訳が立たないもので」

【私の論評】過去の歴史では、多国間の集団的自衛権を可能にしたことにより世界の平和が維持されてきた(゚д゚)!

鍛冶俊樹氏は、軍事ジャーナリストとして、定評のある方で、私もこの方のブログや、動画、著書など参照させていただいています。まともな、軍事ジャーナリストであると思います。以下に、鍛冶氏が出演されている動画を掲載します。


確かに、60年安保のときも、反対派は国会周辺に集まり「戦争反対」と気勢を上げたものです。この様子を見た当時の岸総理大臣は、「声なき人の声がある」との発言をしていました。当時は、インターネットなどなかったので、国会周辺のみを見たり、新聞やテレビ報道だけ見ている人には、あたかも、安保反対が日本全体の潮流のように思い込んでいた人も多いと思います。
60年安保時に国会周辺て集会を開いた反対派
しかし、当時の岸総理は、これが国民すべての声ではないと言う意味で先の発言をしたのです。結局日米安全保障条約が成立しましたが、その後の日本は、戦争もなく、それどころか空前の経済成長をしました。

そうして、1990年代のPKO法制定のときも「戦争になる」「戦争になって、若者が紛争地に送り込まれる」と言って大騒ぎをしていた。

1990年代のPKO法制定の時に国会周辺でデモする反対派
ご存知のように、PKO法制定がなされましたが、それで戦争になったとこともなければ、紛争地に自衛隊以外の若者が徴兵されて、送り込まれたなどということもありませんでした。

そうして、今日、やはり国会周辺で安保法政反対の以下のようなデモが繰り返されています。


この有様と、ジャーナリストのトンデモ質問などから、鍛冶氏は上記のようなメルマガを書いたのだと思います。

鍛冶氏は、無論のこのメルマガで今国会で、集団的自衛権を含む安保法制が成立したからといって、すぐに戦争になるなどというのは妄想に過ぎないことを語っているわけです。

しかし、他にも集団的自衛権などを含む安保法制が成立したからといって、すぐに戦争になるなどというバカなことはあり得ないという有力な証拠があります。

国連憲章の最初の部分のみ以下に引用させていただきます。長々と読まれる必要はないと思いますが、以下の赤字の部分だけは見逃さないようにおねがいします。
国際連合憲章
第1章 目的及び原則
第1条
国際連合の目的は、次のとおりである。
1.国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整または解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。
上記でもお分かりになるように、国際連合憲章では、第1章 目的及び原則の、第1条の第一項、すなわち、憲章本文の最初で、集団的措置すなわち、集団的自衛権を認めているわけです。

しかし、だからといって、私は日本の愚かな憲法学者のようにこの条文が存在するから、我が国にも集団的自衛権は認められて当然だなどとは申しません。そんな、論法をすれば、愚かな憲法学者と似たりよったりになってしまいます。

私が、言いたいのは、現実の世界を見て欲しいということです。もし、集団的自衛権を認めたら、戦争になるという言い分が通るなら、国連憲章でも集団的自衛権を認めており、さらに日本以外の他国の憲法では集団的自衛権を認めているという事実を見て欲しいのです。

もし、集団的自衛権が戦争の引き金になるというのなら、世界中のありとあらゆる国々が日々戦争をしているはずだということになります。しかし、現実はどうでしょうか。確かに、戦争はあります。

しかし、大多数の国々は戦争をしていません。この事実を集団的自衛権を認めれば、戦争になるという方々は、どうやって説明するのでしょうか。

これは、全くの矛盾です。集団的自衛権を否定する方々は、この矛盾を説明してから、否定していただきたいです。

日本の真珠湾攻撃で攻撃されて炎上する米艦艇

そもそも、第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、集団的自衛権によって引き起こされたなどということは全くありません。

過去において、地域紛争などは別として、本格的な大戦争は、バランス・オブ・パワーが崩れたときに発生しています。

これについては、以前このブログでも解説したことがあります。その記事のリンクを以下に掲載します。

【危機の正体】“弱体政権”の影で中ロがやりたい放題!解散で強い政府を―【私の論評】国家を理解していない、現代のニッポン人には、これを解決することは出来ない!
民主党野田政権
詳細は、この記事をご覧いただくものとして、この記事は民主党野田政権が成立直後のものです。この記事では、この当時ロシアのメドベージェフは、領土を1ミリたりとも譲らないと北方領土に赴いて、発言したり、中国の尖閣での示威行動が目に余るようになった時期です。

この記事では、さらに、世界の平和を歴史を遡って解説しました。その部分を以下に引用します。
それにしても、今の政府や、日本人の多数というより、このブログの書き方に習えば、多くのニッポン人(人種的には、日本人ながら、精神は日本人でない人々のこと)は、長い間の平和ボケでこのような事実も認識できなくなっているのだと思います。 
それに、以上のようないわゆる戦術的なことは、当然として、戦略的なことも何もわかっていないようです。ニッポン人は、なにやら、「国際」と名がつくと、平和とか、友好などのイメージを思い浮かべるようですが、これがそもそも、間違いです。オリンピックだろうが、国際会議だろうが、とにかく、複数の国が集う集まりは、すべて、特に大国の意地の張り合い、エゴのぶつかりです。そうでないと思い込んでいるのは、おめでたいニッポン人だけです。

ヴェストファーレン条約をテーマとした絵画

ニッポン人の歴史認識も間違っています。現実の世界は、ヴェストファーレン条約以来、米ソの冷戦時代を除き、数カ国のパワーオブバランスの上になりたってきたのです。ちなみに、ヴェストファーレン条約(ヴェストファーレンじょうやく、独: Westfälischer Friede、英: Peace of Westphalia)は、1648年に締結された三十年戦争の講和条約で、ミュンスター条約とオスナブリュック条約の総称です。英語読みでウェストファリア条約とも呼ばれます。近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき条約です。

ローマ兵に脇腹を刺されて亡くなったイエス・キリスト

この条約によって、ヨーロッパにおいて30年間続いたカトリックとプロテスタントによる宗教戦争は終止符が打たれ、条約締結国は相互の領土を尊重し内政への干渉を控えることを約し、新たなヨーロッパの秩序が形成されるに至ったのです。この秩序をヴェストファーレン体制ともいいます。 
こう掲載すると、この条約により、世界は平和になったと勘違いするニッポン人がいると思いますが、そのようなことは一切ありません。とにかく、この条約を締結したとき、5つくらいの大きな国が、いつも、相手の出方をみながら、自らが、少しでも有利に動いたことはいうまでもありません。それは、その後これら国々の間でも、戦争があり、フランスや今のドイツなどが、版図をかなり広げて、ヨーロパの大きな部分を領土にしたことも何度かあったことでわかることです。 
そうして、この時代は、世界といえばヨーロッパであり、後は辺境の地でしたが、その後、全世界を巻き込んでこのようなことが行われるようになりました。 
そうして、平和な時代には、いくつかの国が互いにバランスを保っていたということです。それはあたかも今の、政局のように、小国は、いずれかの大国に加勢することにより、他の大国からの攻撃をかわしてきました。他の大国がよりよい条件をだしてくれば、今加勢している国から他国へ乗換えなどということも行われました。恒常的に集合離散を繰り返してきました。 
こうしたパワーオブバランスの上に平和が成り立っていることは、今でも変わりありません。このバランスが崩れれば、戦争状態にもなったということです。米ソ二極冷戦体制が崩れた今でも、この事実は、変わりません。ただし、米国は、冷戦後米国一局体制を目論んだのですが、事実上失敗しています。 
そろそろ、ニッポン人も、平和ボケから覚醒し、現実の世界を認識すべきです。
むしろ、集団的自衛権は、パランス・オブ・パワー(国同士の力の均衡)によって、小国や、軍事力の弱い国が、他国の大国などと集団的自衛権を行使できるようにしたことによって、それが抑止力となり平和に寄与してきたとさえいえます。大国側からしても、いざというときには、他国から加勢してもらえるということでメリットがあります。

少し前までは、アメリカは強大で、そのアメリカが日米安全保障条約によって、日本を守るということで、日本は安全保障をあまり考える必要はありませんでした。

しかし、現在の世界は、中国のパワーが強まり、アメリカの相対的パワーは弱まり、パワー・オブ・パランスが崩れかかっています。これを補強するためには、日本は集団的自衛権を発揮できるようにして、このバランスの崩れを補わなければ、アジアの平和と安定はありえません。

アジアに日本以外にも強い国があれば、良いのですが、日本を除く国では中国に対峙することは難しいです。もし、日本が安全保障に関して何もしなければ、必ず中国のアジアでの台頭を許してしまうことでしょう。

そうなれば、当然日本も中国の脅威に直接晒されることになります。そうならないために、日本はアジアのパワー・オブ・バランスを維持するために、今こそ集団的自衛権を発動できる体制にして、アジアそうして、日本の平和と安定、繁栄の道を歩む必要がほあります。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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