個性重視で知られる北欧諸国の教育環境が、急速に悪化している。中でもスウェーデンの学力低下が深刻で、経済協力開発機構(OECD)が先日公表した2012年実施の国際学習到達度調査(PISA)では、全3教科の得点がOECD平均を大きく下回った。かつて教育先進国とも呼ばれたスウェーデンの教育はなぜ崩壊したのか、背景を探った。(川瀬弘至)
日本とは55点差
「北欧諸国の成績が急落した原因は?」
「もう少し詳しいデータを出してほしい」
昨年11月27日に文部科学省で行われたPISA結果発表のブリーフィング。記者たちの質問が集中したのは、日本をはじめアジア勢の成績が上昇したことと、北欧諸国の成績が急落したことへの原因分析だった。
PISAは、各国・地域の学校に通う15歳の男女を対象に「読解力」「数学的応用力」「科学的応用力」の3教科を評価する国際学力テストだ。2000年から3年ごとに行われ、5回目の今回は65カ国・地域から約51万人が参加した。
その結果発表で、北欧諸国の低迷が浮き彫りになった。このうちスウェーデンの状況は、日本と比べてみると分かりやすい。例えば2003年調査の読解力の得点は、国別順位8位のスウェーデンが14位の日本より16点も高かった。しかし06年以降、脱ゆとり政策に取り組む日本が得点を上げる一方で、スウェーデンは急落。09年調査で8位に上昇した日本に逆転され、今回の12年調査では55点も引き離された。
この間、北欧諸国でトップを走っていたフィンランドも順位を下げ、日本に抜かされている。
地方分権化の失敗
「北欧諸国では近年、国家の教育予算を削減し、子供たちの学力向上を地域や学校任せにする傾向がみられる。このため成績上位校と下位校との学校間格差が広がっている」
PISAの結果分析をしている国立教育政策研究所の担当者がこう分析する。学力低下の背景には、国家の教育政策が影響しているというのだ。
1990年代のスウェーデンは、徹底した個性重視教育で世界中の注目を集めた。中でも注目されたのは、「教育の地方分権化」と「フリースクール改革」だ。教育への国家の関与を薄め、地域と学校の裁量権を拡大するとともに、民間も参入しての学校選択制(フリースクール)を積極的に導入したのである。
だが、結果的にこの政策は大失敗だった。自治体によって予算も政策も異なるため、学力の地域間格差や学校間格差が急速に拡大、教育環境の悪化に歯止めがかからなくなった。
移民政策も影響
もう一つ、スウェーデンの学力低下に決定的な影響を与えているものがある。欧州の中で最も寛容といわれる移民政策だ。
高福祉国家のスウェーデンは、高齢化による労働力不足を補うため、積極的に移民を受け入れてきた。同国に住む外国生まれの人の割合は、1970年代は7%未満だったが、2000年までに10%を超え、現在は15%前後を占める。
移民の子供たちは一般の学校に通うので、教室内にスウェーデン語が話せない児童生徒が増加。北欧諸国の教育事情に詳しいノンフィクション作家の河添恵子さんは「両親もスウェーデン語の読み書きができないから、簡単な宿題すら見てあげられない。次第に子供たちは学習意欲を失い、不登校など問題行動が見られるようになる」と話す。
教育の地方分権化と移民政策により深刻化するスウェーデンの学力低下。国立教育政策研究所の渡辺良・前総括客員研究員は、「子供たちの学力水準を向上するには、学校や地域の取り組みとともに、国家がある程度は関与し、適切な教育行政に取り組む必要がある」と話している。
◇
日本のゆとり教育にも影響?
スウェーデンの教育は、平成14年度に本格化した日本のゆとり教育にも影響を及ぼしたといわれる。スウェーデンの個性重視政策や教育の地方分権化が世界的に注目されていた1990年代~2000年代初め、日本からも教育関係者らが相次いで視察に訪れ、その政策を評価する書籍や論文が多数出された。
「(スウェーデンは)弱者にとってはまったく天国のような国であろう。個人教育を実践しているスウェーデンの教育に学ぶことは多大にあると思う」
平成14年刊行の教育書籍「スウェーデンののびのび教育」には、こんな風に書かれている。
だが、日本では平成17年以降、子供たちの学力が急激に低下したため脱ゆとり路線に方針転換し、スウェーデンの教育と決別した。
文科省関係者は「もしも方針転換せず、スウェーデンのように教育政策から国家の関与を薄めていれば、日本でも子供たちの学力低下に歯止めがかからなかっただろう」と話している。
【私の論評】人口も歴史も違いすぎる!北欧諸国幻想は間違い!日本には日本独自の教育システムが必要!本当に必要なのは、他人評価であり、それを受け入れるためには鋳型が必要である(゚д゚)!
上のニュース意外と重要だと思いましたので取り上げさせていただきました。日本には、なにやら北欧幻想のようなものがあります。しかし、日本もこの幻想から、すこしづつではありまずが、覚醒しつつあります。たとえば、北欧の社会保障制度は、崩壊しつつあります。
教育には個性重視というような愚かな論調は、北欧に限らず他の世界、たとえば日本にもあります。この愚かな論調に惑わされて、教育方針を誤ったのが、北欧なのだと思います。とにかく、北欧などの愚かな実験が、左翼系とか、リベラル派といわれる人たちの間で特に、日本でもてはやされているようですが、こんなことは少し頭を使って考えれば、すぐに間違いであることがわかります。
生まれたばかりの子供は個性も何ないものであり、多少あったにしても、それは子供の頃は、さほどのものではないはずです。そうして、それだけでは社会人になることは不可能であり、躾の大部分は家庭にまかせるものの、さらに社会性を身につけさせまともな社会人にするためにある程度の社会人といわれる理想系の鋳型にはめ込むことが教育の原点ではないかと思います。その鋳型があることにより、本来の意味での、個性も発見しやすくなります。個性を伸ばすこともできます。
そこには、家の躾レベルを超えた、社会規範を教えること、まずは、個々人の国(これから人生の大部分を生きていくことになる国)における、社会常識を教えること、さらに社会の上の概念である、国家観をある程度植えつけること、その上にたった国際感覚を身につけるための、基本を学ばせることに原点があるのだと思います。
とにかく、義務教育の範囲では、特に基本的なことはは確実に教え、身につけさせなければなりません。この基本を欠いたまま、義務教育を終える人は残念ながら、犯罪者か、犯罪者でなければ、惨めな敗残者になる以外にありません。最初から個性を重んじていては、多くの教育を受ける人がそうなります。
このような大事な義務教育の期間に、個性などを伸ばすことよりは、様々な知識を身につけさせること、特に基本的なことはある程度の鋳型にはめ込むのが重要なのはいうまでもありません。
このことを無視あるいは、軽視したからこそ、日本のゆとりの教育、北欧の教育が失敗したのです。
「個性」が尊重されることのおかしさについて、養老孟司氏と内田樹氏が対談の中で興味深いやりとりをしていました。以下にそれを引用させていただきます。
『逆立ち日本論』(養老孟司 内田樹 新潮選書 2007)P171~P173より引用
「個性」とは「人を見る目」
養老:「個性」というものは、その人に内在するものということになっていますけど、それは間違いですよ。古くから日本の世界ではそんなことを言っていません。それは「人を見る目」なんです。
内田:「人を見る目」が個性とは……。どういうことですか?
養老:だって、自分の個性なんて主張したって意味がないのです。戦後、「個性」が主張され始めて何が起こったかというと、上役がサボり、教師がサボるようになりました。なぜなら上役や教師というのは、人を見る目がなくちゃできないことだったのです。それで「お前はあっち、お前はこっち」って示してやるのが本来の役目だったのです。それを「個性」という内在型にしたら自己責任だけになっちゃいました。入学願書に「自分の個性」とか書かせるでしょう?本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。
(中略)
個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。他人のことがわからなくて、どうやって生きられるでしょう。社会は共通性の上に成り立つものです。「個性を持て」というよりも「他人の気持ちをわかるようになれ」というほうがよいはずです。ぼくが今まで出会ったいちばんの個性派は精神病院にいますよ。
(中略)
内田:自己評価とか自己点検というのは外部評価との「ズレ」を発見するための装置だと思うんですよ。ほとんどの人は自己評価が外部評価よりも高い。「世間のやつらはオレの真価を知らない」と思うのは向上心を動機づけるから、自己評価と外部評価がそういうふうにずれていること自体は、ぜんぜん構わないんです。でも、その「ずれ」をどうやって補正して、二つを近づけるかという具体的な問題にリンクしなければ何の意味もない。自己評価が唯一の尺度で、外部評価には耳を傾けないというのはただのバカですよ。
(後略)
――――――――――――――――――――――――――――
両氏は、「個性」(≒自分の自分に対する評価)自体には何の意味もなく、生きていく上で指針とすべきなのは、周囲の人々が何を期待しているかであり、周りからの評価、他人評価であるとしているのです。
今も昔も、「人を見る目」(≒他人に対する期待・評価)こそが一番の圧力源=活力源になります。自分の中をどれだけ探しても答えは見つかりません。いわゆる、自分だけによる、自分探しなどやっても、永遠にそれは見つかりません。他人評価によってはじめて、自分探しができます。それを知らずに、自分探しを続ける人は、いつまでたっても大人になれず、子供のまま人生を終えることになります。より能動的に周りの人からの期待や評価、あるいは社会状況を指針にしていくことが必要なのです。
義務教育は、本来他人評価を受け入れる素地をつくるのが目的のはずです。個性を伸ばす教育は、一見正しいようにはみえますが、他人評価を受け入れられなければ、それは全く意味をなしません。そうして、その目的を失った反動が、北欧型教育であり、日本でゆとり教育だったのだと思います。ゆとりと、他人評価はそもそもは、あまり関係ありません。しかし、他人評価を受け入れるためには、ある程度の社会常識などを知らなければとても受け入れられるものではありません。
個性を伸ばすためにも、ある程度の鋳型は必要です。これは、音楽の世界にたとえると判りやすいかもしれません。音楽の習い始めに、ピアノなどを習うと、12音階の決まった音しかでないため、それが最初の鋳型となり、その鋳型から外れた音楽や音を良く認識できるようになります。
12音階とは、白鍵7つに黒鍵5つをあわせた音階のことです。音は決してこれだけではないのですが、ピアノやチェンバロの音はこれだけで構成させています。最初はこの音階で音楽を学びはじめて、ある程度までやった人、あるいはそこからさらに絶対音階まで身に着けた人は、ここから外れた音をすぐに察知できます。この12音階は、演奏したり、聴いたりする人が好きだとか、嫌いだとかは、お構いなしに最初から決められています。そこに、個々の演奏者や、聴衆にの個性など全く入る余地もありません。
ところが、最初から管楽器などから音楽の道に入ってしまうと、鋳型がないため、音が外れていても気づかないとか、どれが新しい音であり、どれが新しい音楽なのかもわからなくなってしまうという状況におうおうに陥ります。実際、管楽器から音楽を始めた人が、ピアノで始めた人に対してそういうようなことを言っていたのを一度ならず、何度か聴いたことがあります。
とにかく、人には原型というものがなければ、精神も発達どころか行き場所を失います。人間の社会においてこの原型にあたるものは、古から家庭においては、父親がその役割を担ってきました。母親はそれこそ、母性的な愛情を注ぎますが、父親は子供が、ある程度の年齢になると、子供に身近な社会を教える存在になります。これが、父性愛というものです。これが、人の原型です。
そうして、この父性愛は、人為的なものとも長い間受け取られてきましたが、そうではないことが最近の類人猿などの研究からわかってきました。たとえば、ゴリラは、いわゆる、社会性に基づく、躾を父親が担っています。子供がある程度大きくなると、父親ゴリラは、子供と一緒に遊び、遊び方や、遊びのルールを教えたりします。ある程度これを覚えたら、他のゴリラの子供と遊ばせたりします。これも、遊び方やルール教えます。子供同士が喧嘩をはじめたら、仲裁したり、悪いことをした子供のほうを諫めたりもします。
こうした、類人猿の研究から近年、父性愛は人為的なものではなく、本来備わっている能力であることが明らかにされています。このようなことを考えれば、父親というものは、すべからく自信を持って、犯罪や完璧な時代遅れでもない限り、自分の独断と偏見でも構わないので、子供に社会性(躾け)を叩き込むべきなのです。
おそらく、公的教育なども、昔は、こうしたところから発展してきたものではないかと思います。だから、昔の教育では、叩き込みが重視されてきました。吉田松陰先生も、子供の頃は、相当厳しい教育を受け、母上が、あまりの厳しさに憤りを感じていたそうですが、その後の松蔭先生を考えれば、厳しさが、松蔭先生その後の松蔭先生にたいす影響も強かったことが理解できます。こうしたことを無視して、子供の個性尊重などという幻想に浸った連中が、父性などの存在を忘れて、個性尊重の教育をはじめたところ、失敗してしまったというのが真相です。
さて、このブログでは、過去においては「ゆとり教育」の批判もしてきました。その記事のURLを以下に掲載します。
選択的夫婦別姓を明記 第3次男女共同参画基本計画策定に向け答申―日本解体始動!!ゆとり教育の二番煎じになるか?
詳細は、この記事をご覧いただくものとして、ゆとり教育に関する批判の部分だけを以下にコピペしておきます。
そもそも、北欧の国々を日本がモデルにするということは間違いです。北欧の国々は、人口規模が日本のような大国とは違います。どうも、日本人は、中国やインドなどをみて、日本の人口は少ないと思い込んでいるようですが、ほとんどが単一民族と言って良いような、日本のような国で、人口が一億を超える国などありません。おそらく、世界最大だと思います。
中国やインドは10億を超える人口ですが、これらの国々はご存知のように、複数民族からなっています。中国でも、ほとんど漢民族のみが固まり、1億以上もの省を形成しているようなところもありません。バラバラです。
そんな世界最大の国と、北欧のような国々とが一緒の手法で教育や、政治などもうまくいくはずがありません。北欧の国々の人口はどの国々も数百万であり、日本の一地方自治体と同クラスです。こういう国々と日本とが、同じ政治手法や、社会のあり方でうまくいくはずもありません。それに、これらの国々調べていただければわかりますが、日本のように歴史も古くはありません。
参考にするなら、少なくとも人口が数千万以上もあり、単一の民族が多く、歴史も古い国ということになります。そうなると、日本が参考にできる国は少ないです。少なくとも、北欧は全く参考になどできません。ニュージーランドも、似たようなものです。こちらの国も、人口は数百万、歴史も数百年に過ぎません。
言ってみれば、数十人もいる大家族の家庭が、核家族的家庭を参考にするようなものです。こう考えていくと、中国も全く参考になりません。中国建国から100年にも満たない国です。韓国も無論参考になりません。アメリカだって、建国の歴史は、二百数十年に過ぎません。これでは、参考にはならないでしょう。
日本には、どう考えても、日本独自の教育システムが必要であることははっきりしています。他国の真似ではなく、日本独自のシステムが必要です。そうして、日本独自のシステムは、大昔に存在しました。日本には、昔は、寺子屋や藩校、私塾がありました。これらは、明治になって新たな学校制度が出来て以来廃止されたのですが、これらの学校は当時は世界最先端の教育施設でした。これらをそのまま復活することはできないでしょうが、これらを参考にして現代風の学校をつくることなども十分に考えられます。ただし、今の日本の学校教育は戦後の誤った個人主義などの影響により、決して良いものとはいえません。とは、いいながら、今でも基礎教育は優れています。今後、戦後の影響を排除して、日本独自の教育システムをつくっていく必要があります。
こんな、日本が、北欧の教育方法など最初から学ぶような存在ではないことがお分かりだと思います。これらを、参考にすべきという、極左系やリベラル派の主張はそもそも間違いであることがお分かりになると思います。彼らの主張は、「隣の芝生は青く見える」という諺の通り、まともではありません。
私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?
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他人評価と自己評価の葛藤が人を育て、個性的にする! |
個性を伸ばすためにも、ある程度の鋳型は必要です。これは、音楽の世界にたとえると判りやすいかもしれません。音楽の習い始めに、ピアノなどを習うと、12音階の決まった音しかでないため、それが最初の鋳型となり、その鋳型から外れた音楽や音を良く認識できるようになります。
12音階とは、白鍵7つに黒鍵5つをあわせた音階のことです。音は決してこれだけではないのですが、ピアノやチェンバロの音はこれだけで構成させています。最初はこの音階で音楽を学びはじめて、ある程度までやった人、あるいはそこからさらに絶対音階まで身に着けた人は、ここから外れた音をすぐに察知できます。この12音階は、演奏したり、聴いたりする人が好きだとか、嫌いだとかは、お構いなしに最初から決められています。そこに、個々の演奏者や、聴衆にの個性など全く入る余地もありません。
ところが、最初から管楽器などから音楽の道に入ってしまうと、鋳型がないため、音が外れていても気づかないとか、どれが新しい音であり、どれが新しい音楽なのかもわからなくなってしまうという状況におうおうに陥ります。実際、管楽器から音楽を始めた人が、ピアノで始めた人に対してそういうようなことを言っていたのを一度ならず、何度か聴いたことがあります。
ピアノの12音階は、さまざまな音楽の原型になる! |
そうして、この父性愛は、人為的なものとも長い間受け取られてきましたが、そうではないことが最近の類人猿などの研究からわかってきました。たとえば、ゴリラは、いわゆる、社会性に基づく、躾を父親が担っています。子供がある程度大きくなると、父親ゴリラは、子供と一緒に遊び、遊び方や、遊びのルールを教えたりします。ある程度これを覚えたら、他のゴリラの子供と遊ばせたりします。これも、遊び方やルール教えます。子供同士が喧嘩をはじめたら、仲裁したり、悪いことをした子供のほうを諫めたりもします。
ゴリラの父親は、子供に社会性を伝授する。個性尊重は教育はゴリラの教育よりも劣る? |
こうした、類人猿の研究から近年、父性愛は人為的なものではなく、本来備わっている能力であることが明らかにされています。このようなことを考えれば、父親というものは、すべからく自信を持って、犯罪や完璧な時代遅れでもない限り、自分の独断と偏見でも構わないので、子供に社会性(躾け)を叩き込むべきなのです。
おそらく、公的教育なども、昔は、こうしたところから発展してきたものではないかと思います。だから、昔の教育では、叩き込みが重視されてきました。吉田松陰先生も、子供の頃は、相当厳しい教育を受け、母上が、あまりの厳しさに憤りを感じていたそうですが、その後の松蔭先生を考えれば、厳しさが、松蔭先生その後の松蔭先生にたいす影響も強かったことが理解できます。こうしたことを無視して、子供の個性尊重などという幻想に浸った連中が、父性などの存在を忘れて、個性尊重の教育をはじめたところ、失敗してしまったというのが真相です。
さて、このブログでは、過去においては「ゆとり教育」の批判もしてきました。その記事のURLを以下に掲載します。
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詳細は、この記事をご覧いただくものとして、ゆとり教育に関する批判の部分だけを以下にコピペしておきます。
選択的夫婦別姓もゆとり教育の二番煎じになるか?
米国での失敗を学ばないということ、以前にもありましたね、昨日のテレビで「ゆとりの教育」の失敗ということで、結局は「ゆとりの教育」はやめるということが報道されていました。「ゆとりの教育」の導入に当時尽力した中曽根さんがテレビのインタビューを受けていて、「ゆとりの教育」が失敗したことを率直に認めていました。ゆとりの教育に関しては、日本が導入の検討をし始めたときには、アメリカではもうとっくに導入されていたどころか、完全に失敗したことが明らかになったため、とりやめて、逆に「若いうちに詰め込めるだけ詰め込め」が合言葉になっていました。
ゆとり教育に関しては、私自身がその酷さに直面したことがありました。工学部志望の東京大学1年生と話をしていて、ファラディーの右手の法則、左手の法則など当然のこととして話をしたら、何と彼女はこの法則を知りませんでした。良く話しを聴くと、高校では物理は選択制となっており、物理は履修していなかったそうです。現在の入試制度では、将来工学部に進むことができる理Ⅰ類でも、物理の試験は受けなくとも良いということを聴いて驚いてしまいました。
要するに、ゆとりの教育という名の下で、受験に必要のない科目は勉強しなくなても良いということが平気で行われていたということです。だから、世界史など全く知らない東大生もたくさんいます。
アメリカのゆとり教育の時代には、高校ではほとんど勉強せず、基礎学力が落に落ちていました。大学の教養の講座でも、得体のしれない今日ではとっくに消滅した講座がたくさんありました。個性豊かにというキャッチフレーズのもの、たとえば、「結婚式の講座」とか、「カメラの講座(映像美術などとは異なる)」とか、「ポップミュージック講座(音楽史などではない)」「映画鑑賞講座(これも純粋な意味で学問とはとても呼べないしろもの)」とか、学問とは無関係のものが大真面目で大学で教えられていたものでした。その結果、大学生でも、世界地図で、アメリカを指せないとか、アメリカの地図でニューヨークを指すことのできない人が大勢いました。
日本の大学では、さすがにそこまで乱れなかったのは、幸いなことだったと思います。ただし、日本ではあまりに学生の学力が低いので、大学教育などできる水準ではなく、何と、数学や英語など中学の内容を補講するというところもあるそうです。実際、私も函館大学の英語のテキストなどみて驚いたことがあります。水準として、中学の復習ならびに高校1~2年くらいの内容だったと思います。あれでは、とても大学教育など無理と感じてしまいました。さらに、北海道大学の学生など、昔では考えられないくらい読書をしないということがわかってびっくりしたことがあります。要するに、学校でも、受験には関係ないことは全くさせないとか、本人も受験に関係ないものは見向きもしないということが、ゆとり教育という名の下に繰り広げられてきたということだと思います。ある程度まとまった、書籍を素早く読んで概略をつかむということは、創造性を育むのに必要不可欠なことだと思います。
ゆとり教育時代のアメリカの大学生を見て、誤解した日本人の中には、「アメリカの学生はものすごく勉強する」などと評している人もいましたが、事実は違いました。その当時の日本人のまともな学生なら、別に勉強しなくても知っているような常識的な事柄を高校でまったく学んでこなかったので、大学でまともなレポートを書くように要求されると、ひがな一日図書館などに閉じこもり、常識を調べていたというのが実情です。日本でも、もっと酷い誤解としては、アメリカの大学全般は入るのがやさしくて、卒業するのが難しいというまことしやかな神話などもありました。
これは、日本でもアメリカでも同じことです。昔からアメリカでも、誰でも入れて、だいたい誰もが卒業できる大学がある一方で、誰もが簡単には入れないし、卒業も難しい大学もあります。これは、ゆとり教育が実施されているときでも同じ事だったと思います。アメリカの私学の有名校はそれなりに伝統があるので、ゆとり教育などとは無縁のところもありました。ただし、この時代の誰でも入れる大学や中程度の大学での乱れようや、バカバカしさは筆舌につくしがたいところがあったと思います。
こうした神話が、日本のゆとり教育の導入を助長した面は否めないと思います。アメリカの名門校など、わざわざ調査員を派遣して受験生個々人の素行調査(学力だけでなく、社会貢献なども調べる)まで行なうのと、寄付金(たとえば親が同じ大学卒で経済的に余裕があるにもかかわらず寄付金をはらっていなかったら、合格は望み薄)もからんできますから、場合によっては、日本の大学に入るより難しい場合があります。まあ、日本でまともな大学に入れない人がアメリカに行っても、かえって駄目ですね。日本のまともな大学を卒業して、アメリカの大学院に行くなどとか、あるいは日本でまともな大学に入れる人がアメリカの大学に行くというのなら良いでしょうが・・・・・・・。
アメリカで大失敗した「ゆとり教育」なぜ、日本であまり考えもせずに、導入されてしまったのか、今から考えると不思議でなりません。いずれにせよ、教育に関しても国家の関与、ある程度の詰め込みが必要であり、過度の移民政策もマイナスということがいえそうです。
そもそも、北欧の国々を日本がモデルにするということは間違いです。北欧の国々は、人口規模が日本のような大国とは違います。どうも、日本人は、中国やインドなどをみて、日本の人口は少ないと思い込んでいるようですが、ほとんどが単一民族と言って良いような、日本のような国で、人口が一億を超える国などありません。おそらく、世界最大だと思います。
中国やインドは10億を超える人口ですが、これらの国々はご存知のように、複数民族からなっています。中国でも、ほとんど漢民族のみが固まり、1億以上もの省を形成しているようなところもありません。バラバラです。
そんな世界最大の国と、北欧のような国々とが一緒の手法で教育や、政治などもうまくいくはずがありません。北欧の国々の人口はどの国々も数百万であり、日本の一地方自治体と同クラスです。こういう国々と日本とが、同じ政治手法や、社会のあり方でうまくいくはずもありません。それに、これらの国々調べていただければわかりますが、日本のように歴史も古くはありません。
参考にするなら、少なくとも人口が数千万以上もあり、単一の民族が多く、歴史も古い国ということになります。そうなると、日本が参考にできる国は少ないです。少なくとも、北欧は全く参考になどできません。ニュージーランドも、似たようなものです。こちらの国も、人口は数百万、歴史も数百年に過ぎません。
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日本には、どう考えても、日本独自の教育システムが必要であることははっきりしています。他国の真似ではなく、日本独自のシステムが必要です。そうして、日本独自のシステムは、大昔に存在しました。日本には、昔は、寺子屋や藩校、私塾がありました。これらは、明治になって新たな学校制度が出来て以来廃止されたのですが、これらの学校は当時は世界最先端の教育施設でした。これらをそのまま復活することはできないでしょうが、これらを参考にして現代風の学校をつくることなども十分に考えられます。ただし、今の日本の学校教育は戦後の誤った個人主義などの影響により、決して良いものとはいえません。とは、いいながら、今でも基礎教育は優れています。今後、戦後の影響を排除して、日本独自の教育システムをつくっていく必要があります。
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