2015年10月12日月曜日

クラスほぼ全員でいじめ 担任は放置? 腹蹴り、トイレ閉じ込め―【私の論評】閉じた社会の凄惨さを思い起こせ(゚д゚)! 


中野区立桃園第二小学校6年生「演劇によるいじめ防止事業」2013年7月8日
ブログ管理人注:写真と、記事の内容には、直接関係はありません。
和歌山県かつらぎ町の小学校で、6年の男児2人が複数の同級生からいじめを受けていたことがわかり、事態を重く見た町教委は、弁護士や大学教授ら4人でつくる第三者調査委員会を設置し、町内で12日、初会合を開いた。うち1人は昨年11月から不登校の状態が続いており、町教委は「男児が早く登校できるよう、原因究明と再発防止に努めたい」と話している。

町教委などによると、男児は小学4年だった平成25年ごろから複数の児童に腹を蹴られたり、悪口を言われるなどのいじめをしつこく受けた。翌26年3月、男児の保護者が学校側に訴えて発覚した。

学校側は担任とは別の教員を見守り役として教室に配置するなどの対策を講じたが、休み時間中にトイレの用具入れに閉じ込められるなど、いじめが止まなかったため、男児は吐くなどの体調不良に陥り、11月以降は不登校の状態が続いている。

さらにクラスのほとんどの児童がいじめに関与していたことがわかった上、7月ごろには別の男児へのいじめも発覚。2人ともケガはないが、町教委は「いじめの根は同じ。看過できない」として、第三者委の設置を決めた。池田八主雄教育長は「学校側が主体的に取り組む姿勢は崩していないが、よりタイムリー、より効率的に行うには第三者の意見を聞くことが必要と考えた」と説明する。

初会合では、委員長に勝井映子弁護士を選任。町教委側から、いじめの経緯や、学校と町教委のこれまでの対応などの説明を受けた後、今後の取り組みについて話し合った。勝井委員長は「学校は子供が育つ場なのに、男児が登校できないことは問題。男児の気持ちを大事にすることを一番に心がけてサポートしていきたい」と話した。

不登校中の男児の父親は「なぜクラスの子供らはいじめをし、担任は放置したのか。学校や町教委の対応に問題はなかったのか。それらの点をしっかりと調査して原因を究明し、子供が安心して登校できる状態にしてほしい」と話していた。

【私の論評】閉じた社会の凄惨さを思い起こせ(゚д゚)!

いじめというか、暴行殺人事件に関して、数日前にKAZUYA氏が動画を投稿していました。その動画を以下に掲載します。



この動画でKAZUYA氏が述べているように、この動画の中で示されている事件は「いじめ」などではありません。暴行殺人事件です。KAZUYA 氏の言うとおりです。しかし、何やら

日本では、学校というと特別な社会であるかのような変な風潮があります。学校だって、社会の一部です。特別な存在とみなして、学校の中での暴力や犯罪などを見逃すなどということは到底許容されるものではありません。

ブログ冒頭の記事のような事件だって、今回はかなり規模が大きくなって、それで白日の下に晒されることになったわけですが、ここまで酷くなるのは、やはり学校が閉鎖社会ということにも原因があると思います。開かれた社会であれば、このようなことは起こらなかったか、起こったとしても、未然に防ぐことが可能だったのではないかと思います。

開きれた社会、閉じた社会については、H・ベルクソンが用いた社会類型により、定義がなされています。それについて以下に引用します。

H・ベルクソン
H・ベルクソンが用いた社会類型で、それらは異質な二つの道徳、すなわち閉じた道徳・開いた道徳morale close-morale ouverte(フランス語)に対応する。
 閉じた社会は、本能に近い習慣や制度に由来する社会的義務によって、内から個人を拘束・威圧し、外に対しては排他的であり、自衛と攻撃の用意を怠らぬ閉鎖社会である。原始社会がそれに相当するが、程度の差はあれ、文明社会もまた閉じた社会である。家族も都市も国家も、他者を選別し、排斥し、拒否と闘争を生む。 
この社会の結合原理は、静止した習慣や制度によって個人を社会に服従させる、非人格的で不変の閉じた道徳である。 
 これに対して開いた社会は、有限な、敵対的な閉鎖性を超えた、無限の、開放的な社会であり、人類愛によって全人類を包み込む社会である。ここでの結合原理は、習慣、本能などの自然力に基づく威圧や命令ではなく、自然から人間を解放し、生命の根源に触れる歓喜を目ざして絶えず前進・向上する、人類愛の道徳、開いた道徳である。 
したがって開いた道徳は、習慣や制度といった非人格的な力によって担われるのではなく、選ばれた宗教的・道徳的天才の人格的な「呼び声」(英雄の呼び声)そのものであって、家族や国家の閉じた道徳を超えた、愛において結ばれた人類社会に対応する。 
 ベルクソンは、こうした人類愛を結合原理とするイデアルな開いた社会と、家族愛や祖国愛に基づくリアルな閉じた社会とは、まったく異質の社会であるとし、静的・停滞的な後者から「生命の飛躍」によって動的・創造的な前者に超越できるとした。この2種の社会と道徳の対置によって、ベルクソンはデュルケームの社会学的宗教・道徳理論を哲学的に批判したが、同時に多くの批判を浴びた。[田原音和] 
『H・ベルクソン著、平山高次訳『道徳と宗教の二源泉』(岩波文庫)』
当然のことながら、今の日本の社会では、完璧に開かれた社会も、閉じた社会もありません。日本の社会にも、幾分閉じられている、かなり閉じられている社会が混在しているわけです。その中で、私は今の学校、特に小学校から、高校までは、かなり閉じた社会ではないかと思います。

しかし、本来学校も社会の一部を構成しているものであり、閉じた社会としてしまえば、それこそ、いじめのような問題が発生するのは当然のことです。上の引用でも「閉じた社会は、本能に近い習慣や制度に由来する社会的義務によって、内から個人を拘束・威圧し、外に対しては排他的であり、自衛と攻撃の用意を怠らぬ閉鎖社会である」とあります。

ブログ、冒頭の記事の小学校は、まさにこの「閉じた社会」です。まさに、自衛と攻撃の用意を怠ることのできない社会です。

学校がこのようなことであってはいけないはずです。「いじめ」という言葉は、今の学校という閉じられた社会の中で通用する言葉ではないかと思います。本来、学校が開かれた社会になっていれば、あのようなことにはならかったのではないかと思います。

学校も、もっと開かれた社会にして、それこそ、一般市民が気軽に訪れたり、職員会議の中に入ることができたり、教育の一部を担っても良いのではないかと思います。

そうして、学校内での、腕力などによる暴力、言葉などによる暴力、その他攻撃などに関しては、ことが起こってから、どうのこうのと会議を開いたり、責任を追求するなどということ事後処理などはやめて、最初から法律や条例などや、そこまでしなくても、全国共通の校則などで、手続きを決めておき、何がことが起こったら、粛々とその手続きにのっとり、処理したり、その範囲を超えた場合は、警察に委ねるなどの決まり事を決めておき、まずは、迅速に処理するという体制を築くべきではないでしょうか。

私達の社会にも、法律などの決め事があります。犯罪を犯せば、警察に拘束を受け、裁判を受け、量刑が決まれば、それに従うというのは当然のことです。

学校だけが、独立した社会で、暴力事件などが発生しても、その時々の学校の判断などというのでは、とんでもないです。こんなことでは、学校の先生だって、判断基準がないのも同じて、何か事が起こったとしても、迅速に対応できず、後追いでしか対処できないです。こんなことでは、子どもたちを守ることはできません。

なぜ、日本だけが学校がこのように曖昧な対応しかとれないのか、全く疑問です。外国では、日本とは随分様子が違います。このブログでは、過去にドイツの学校の事例を掲載しました。その記事のリンクを以下に掲載します。
ドイツの教師 校外で煙草吸う生徒目撃しても注意しない理由―【私の論評】何でも学校の管轄とするのはあまりにも無責任!!学校は治外法権ではなく、責任ある社会人の子供が行くところと心得よ!!

詳細は、この記事をご覧いただくものとして、この記事は「いじめ」に関するものではありません。「体罰」に関するものです。しかし、根は同じ所にあると思います。以下にドイツの学校のシステムなどについて引用します。

体罰問題を高校野球の監督をしている友人と話していて、彼が自分のこんなエピソードを紹介してくれた。 
 若くして母校の監督に就任して初めて選手の保護者会があったときのこと。リトルリーグの監督もしているという保護者からこんな指摘を受けた。 
「私がグラウンドに来ても誰も選手が挨拶をしない。どういう指導をされているのか」 
 友人は答えた。 
「挨拶といった基本的なシツケは家庭でお願いします」 
 私は「よく言い返した」と思ったが、保護者会では「シラーとした雰囲気が漂った」という。 
 体罰問題が繰り返されで跡を絶たないのは、子どもの教育をなんでも学校に委ねる風潮も、土壌にあるのはではないか。 
「ドイツでは校門から一歩出れば学校の管轄外。煙草を吸っている生徒を目撃しても教師は注意しません」 
 というのは日独ハーフで「生きる力をつけるドイツ流子育てのすすめ」の著者、サンドラ・ヘフェリンさん。ドイツで義務教育を過ごしたサンドラさんは、1度も体罰を受けたことも目撃したこともないという。 
「ドイツでは遅くとも1980年代前半には、体罰が法律で完全に禁止されていました。基本、子供の生活態度の管理をする担当は学校ではない、というのがドイツの共通したスタンスです」 
 サンドラさんによると、ドイツで「問題行為」(授業中に騒ぐなどの行為。髪の毛を染めるような身だしなみや学校外で起こした問題ではない)を起こした生徒には、まず「口頭」で注意される。その「注意」が3回たまると、校長から生徒の家に「問題行動を起こしたことへの注意」が書面で送られる。そしてこの書面が3通たまったら退学、という。 
「ドイツでは教師の家庭訪問もありません。学校と家庭は厳格に区別されています」(サンドラさん) 
 他国のやり方が日本にそのまま適用できるとは思わない。しかし体罰問題を掘り下げていくと「学校教育と家庭教育の峻別」に行き着くのではないか。学校外で生徒を指導してくれる教師を私たちは「面倒見の良い先生」と賞賛してきた。それは教師に本来親がすべきことを押しつけたことにならないか。学校や教師の責任を非難するだけでなく、家庭を含めた私たちの教育観を問い直すべき時期に来ている。 
 冒頭の高校野球の監督をしている友人に「体罰をしたことがあるか」と訊ねると、 
「あのな、野球が下手なぐらいで人を殴れるか」 
 と苦笑した。
ドイツでは家庭に三通目の注意の手紙が行くと、自動的に退学という仕組みです。 日本の学校もこれで良いのではないかと思います。学校で、暴力を働くものに対する仕打ちは、これで良いと思います。日本では、こういう厳しさがないので、暴力行為をしても、本人もその親もあまり重大な問題であると認識しないのだと思います。暴力を繰りかえしても、何の責任も問われないようでは、いわゆる校内暴力はいつまでもはびこると思います。

問題を起こし続けて、どの学校からも放校されるようになれば、さすがに当人もその親も焦ることになります。そういう子供のみ受け付ける刑務所のような学校を作っても良いと思います。こんなところに、人権問題を持ち出す輩は、それこそ暴力を振るわれる側の人権を無視していると思います。

この程度のことは、日本でも実行できるようにしたうえで、さらに、学校を開かれた社会にする方法を導入すべきと思います。

学校も完璧に開かれた社会にすることは無理だとは思いますが、最低限このようなことをできるようにしておくべきです。そうすることによって、教師の責任も明確になります。校内暴力をするからといって、ただ単純に手紙を書いて、さっさと退学させるだけしかしない、無能な教師は、開かれた社会で糾弾されることになると思います。

それにしても、日本はかなり閉じられた社会というか、コミュニティーが多いです。それが、マイナスの現象を生んでしまうことは、昔からあったことです。たとえば、連合赤軍などの過激派はその典型例です。

閉じた社会で、その中だけで、内から個人を拘束・威圧し、外に対しては排他的であり、自衛と攻撃の用意を怠らぬことのできない社会で、最終的には内ゲバで仲間を殺すという凄惨な事件を起こしてしまいました。



閉じた社会は、最終的にはこのようなことになってしまうものです。学校の暴力事件も同じことです。放置した結果が、暴行殺人です。

日本の社会では、ここまでいかなくても、他の社会の常識が通用しない、閉鎖社会が存在しています。そうして、それがたまたま頭をもたげてきて、多くの人々の知るところとなり、大きな社会問題になります。

最近の東芝の不詳事件も同じことです。閉じた社会の中の論理だけで動いて、とんでもないことになってから、社長が陳謝するような体たらくでした。

もっと、歴史を遡れば、大東亜戦争だって同じです、日本軍は中国に進出したのですが、中国で何をするのか、どのようになれば、戦争を終結するのか、ほとんど何も考えないまま誰も責任もとることもなく、いつまでも戦争を続け、挙句の果ては、米英などとも戦をして、それだけにとどまらず、どこまでも戦線を拡大して、とんでもないことになり、敗戦の憂き目を見ました。

このような無責任体制は、当時の軍や政府があまりにも閉じられた社会の中で、誰も責任を取らない状況の中で発生したものです。

戦後も似たようなものです、日本の金融政策は日銀政策決定委員会で決定されますが、その委員が金融政策を間違ったからといって、誰も責任を取ることはありません。おかげて、日本はとんでもないデフレ型不況にみまわれましたが、それでも、日銀も閉じた社会であるため、何の責任も問われることもありません。

それは、財務省も同じことです。これも閉じた社会で、とにかく自分たちの都合で、増税して、特別会計なり複雑な仕組みを構築して、とにかくそこに金を貯めこむということをしました。これも、日本がデフレ型不況を深刻化させ、自殺者が三万人台にまでふくれあがりました。

国でいえば、中国など典型的な閉じた社会です。正当性を欠く、現中国共産党政府が、民主化も、政治と経済の分離も、法治国家化もなおざりにして、自分たちの都合で国を運営しています。そのため、毎年平均 10万件もの暴動が発生しています。無論、基本的人権などないがしろにされています。

結局、閉じた社会は、社会の外側から批判されることもなく、自分たちの社会の都合だけで、動くため無責任体制になるのです。そうして、歯止めがなければ、その無責任体制の行き着く先は、凄惨な殺し合いにまで発展するのです。

さすがに、日本などの場合は、かなり閉じた社会というのは、例外的なので、そこまで行くことは滅多にないですが、ごく一部にはそのような社会も存在して、過激派の凄惨な内ゲバ等にまで発展してしまうのです。

学校などの組織も、閉じた社会のままでは、校内暴力はなくなりません。やはり、一定の決まり事を作成した後に、開かれた社会を目指すべきでしょう。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

【関連記事】

ドイツの教師 校外で煙草吸う生徒目撃しても注意しない理由―【私の論評】何でも学校の管轄とするのはあまりにも無責任!!学校は治外法権ではなく、責任ある社会人の子供が行くところと心得よ!!



【関連図書】

道徳と宗教の二つの源泉 (ちくま学芸文庫)
アンリ ベルクソン
筑摩書房
売り上げランキング: 101,304


精神のエネルギー (平凡社ライブラリー755)
平凡社 (2015-08-27)
売り上げランキング: 59,047


0 件のコメント:

経産省が素案公表「エネルギー基本計画」の読み方 欧米と比較、日本の原子力強化は理にかなっている 国際情勢の変化を反映すべき―【私の論評】エネルギー政策は確実性のある技術を基にし、過去の成功事例を参考にしながら進めるべき

高橋洋一「日本の解き方」 ■ 経産省が素案公表「エネルギー基本計画」の読み方 欧米と比較、日本の原子力強化は理にかなっている 国際情勢の変化を反映すべき まとめ 経済産業省はエネルギー基本計画の素案を公表し、再生可能エネルギーを4割から5割、原子力を2割程度に設定している。 20...