2025年11月3日月曜日

山上裁判が突きつけた現実──祓(はら)いを失った国の末路


まとめ

  • 山上容疑者の「宗教二世の悲劇」は虚構であり、父の自殺や母の破産、兄の病など主要な不幸は統一教会入信以前または本人の自立後に起きているため、宗教との因果関係は薄い。
  • 日本人の「霊性の文化」とは、他人を責めず己を省みる心であり、神道の祓(はらい、祓え)に象徴される内省の倫理が潜在意識に根づいてきたが、現代はそれを失い外に敵を求めるようになっている。
  • マスコミは事実の検証よりも感情を優先し、全国紙が同じ見出しで報道するなど「第二の加害」とも言うべき同調報道を行い、社会全体が山上の誤った因果を共有する結果になった。
  • 事件そのものにも、警備の不備、発砲音や煙、弾道と致命傷説明の矛盾など多くの不審点があるにもかかわらず、報道は「宗教問題」へ論点を固定した。
  • 安倍暗殺は日本人の精神性崩壊の象徴であり、「日本死ね」「安倍政治を許さない」などの言葉の暴力がその前兆で、現在の高市早苗氏へのマスコミ攻撃もその延長線上にある。

安倍晋三元首相が凶弾に倒れてから三年。奈良地裁で続く山上徹也被告の公判は、いまも世論を揺らしている。
検察は計画的な殺人として死刑を求める構えを見せ、弁護側は「母親の信仰に苦しんだ宗教二世の悲劇」として情状酌量を訴える。だが、法廷で明らかになりつつある事実は、マスコミが作り上げた“物語”とはあまりに違う。
本稿では、山上の生い立ちを時系列で整理し、統一教会との関係を冷静に見直した上で、事件を覆う報道の異様さと、日本人が忘れかけた「霊性の文化」の視点からこの事件の本質を考えたい。

1️⃣山上の境遇を時系列で検証する──「宗教二世の悲劇」は虚構である


山上徹也の人生は「宗教に翻弄された悲劇の息子」としてセンセーショナルに語られてきた。だが、事実を時系列で追えば、その構図は根底から崩れる。

父親の自殺は1984年。母親が統一教会に入信する七年前のことであり、当時、彼女が傾倒していたのは別の団体「朝起き会」だった。兄の小児がんも信仰とは無関係の病気である。母親が破産したのは2002年。山上はすでに海上自衛官として自立しており、妹も十九歳。母の破産が家庭を崩壊させたとするのは不自然だ。むしろ子どもが巣立った後に信仰にのめり込み、資金を使い果たした結果の破産だったと見る方が筋が通る。

山上自身の自殺未遂も、本人が語る「兄妹の生活費のため」という説明には無理がある。当時、妹は成人しており、兄も高校を卒業していた。生活を支える必要性は乏しく、むしろ山上自身の精神的な混乱が原因だったと考えられる。
さらに兄の自殺(2015年)を宗教のせいにする根拠もない。教育面の報道にも誤りが多く、「同志社中退」「京大に入れた」という話は事実ではない。母親は息子を名門高校に通わせており、妹も宗教による被害を否定している。

こうして整理すれば、山上家の不幸の多くは統一教会入信以前、あるいは本人が自立した後に起きている。つまり、「宗教が家庭を壊した」という構図は成り立たない。山上は、己の不幸を宗教のせいにし、さらにそれを政治的対象にすり替えた。彼は“被害者”ではなく、誤った因果を信じた“加害者”だったのである。

2️⃣日本人の「霊性の文化」──無意識に受け継がれる心の規律

日本の霊性の文化とは、他人を責めず、まず自らを省みる心の在り方である。古来より我が国では、災いや不運に直面しても、外に原因を求めず、己の内を清めようとしてきた。神道の祓(はらえ)は、悪を他者に転嫁するための儀式ではなく、心を正し、穢れを祓う行為である。

この精神は、多くの日本人が明確に意識しているわけではない。だが、無意識のうちに深く刻み込まれている。
神社の鳥居をくぐるときに自然に一礼し、墓前に立てば静かに手を合わせる。その姿に、我が国の霊性の文化は今も息づいている。善悪を超えて“清め”を尊び、自然との調和を重んじる感覚――それが日本人の魂の奥底にある。


霊性の文化は、特定の宗教を信じることではない。
自然、祖先、社会の秩序と調和して生きようとする心の態度だ。古来の神道においても、悪を罰するより、まず心を整えることが重んじられた。行いを正し、他人を思いやり、争いを避ける。その積み重ねが「和」を生んだ。
しかし、近代以降の合理主義が進む中で、この精神は言葉を失った。だが、それでも日本人の潜在意識の奥には今も息づいている。

この霊性を忘れたとき、人は不幸の原因を外に探し、他者を責め始める。山上の行為は、まさにその典型であった。自らの苦悩を省みず、外に敵を作って憎悪に変える。霊性を失った現代日本の危うさが、そこに凝縮されている。

3️⃣報道の同調と「第二の加害」──そして事件に潜む不可解な闇

本来、事実を冷静に伝えるべきマスコミが、この事件では感情を煽る役割を果たした。
父の自殺、母の破産といった時期の異なる出来事を一括りにし、「宗教二世の悲劇」と報じ続けた。事実の検証より“共感”を優先し、山上の動機を美化した報道があふれたのである。

特に異様だったのは、暗殺の翌日、全国主要紙の一面見出しが軒並み同じ構成だったことだ。
「銃撃」「旧統一教会」「安倍元首相と宗教団体」――この三語が全国の紙面を埋め尽くした。まるで一つの脚本に基づいていたかのように、どの社も同じ語り口で事件を描いた。
異なる編集方針を掲げる新聞が、同じ方向へ一斉に流れる。その同調ぶりは、日本の報道界に根深い“忖度”と“自己検閲”の存在を示していた。

安倍氏暗殺の翌日の主要紙、地方紙新聞見出し

報道が同じ方向を向いた瞬間、社会は思考を止める。
「なぜ守られなかったのか」「なぜ撃たれたのか」という根源的な問いがかき消され、「統一教会と政治」という筋書きだけが残った。
これこそが“第二の加害”である。山上が抱えた誤った因果を、マスコミが国民全体に拡散させたのだ。

さらに事件そのものにも、いくつもの不可解な点が残っている。
SPの動きの遅さ、発砲の間隔、弾道の方向、そして未発見の弾丸。映像では花火のような鈍い音と白煙が映り、黒色火薬の使用をうかがわせるが、警察の説明は「無煙火薬」だった。医療側は「頸部損傷」、警察は「上腕損傷」と説明を変え、致命傷の特定も揺れている。
単独犯が自作の銃でこれほどの威力を再現できたのか――疑問は残る。

だが、マスコミはこれらを深く掘り下げず、「宗教問題」としての枠に押し込めた。結果、事件は「安倍政治の終焉」という政治的物語にすり替えられた。まるで銃弾ではなく、情報の奔流が安倍晋三を葬ったかのようだった。

我が国の霊性の文化は、本来こうした「不可視の悪意」を察する感性を持っていた。
だが現代の日本は、その直観を失い、表面的な物語に酔っている。安倍晋三という政治家の死を、誰がどう利用したのか――そして、本当に山上単独による犯行だったのか。その前提すら疑う勇気を、私たちは取り戻さねばならない。

それこそが、我々が見失った「真実への祓い」の道である。

4️⃣精神の崩壊としての暗殺──「言葉の暴力」が生んだ日本の危機


安倍晋三暗殺事件は、単なる政治テロではない。
それは、日本人の精神が崩れかけていることを示す“鏡”だった。

「日本死ね」――この言葉が流行語大賞に選ばれたとき、私は背筋が凍った。
「安倍政治を許さない」「安倍を叩き切ってやる」「安倍が死んでよかった」。
これらの言葉は、事件の数年前から社会に充満していた“怨嗟の毒”である。
それを、政治的主張の一部として拍手喝采したメディアや知識人がいた。
その瞬間、我々はすでに“言葉の殺人”を始めていたのだ。

安倍の命を奪った銃弾は、冷たい金属ではなく、長年積み重なった憎悪の言葉が形を変えたものだった。
この事件は、一人の男の狂気ではなく、社会全体が育てた“集団の病”である。
日本人が長い歴史の中で培ってきた「祓い」「慎み」「敬い」の心が失われ、
罵倒と正義が混ざり合う“暴言の時代”が生まれてしまった。

この流れは今も続いている。
マスコミが高市早苗氏を標的にし、根拠の薄い疑惑を繰り返し報じる姿は、
まるで“第二の安倍狩り”だ。
彼女が女性であれ保守であれ関係ない。
「憎む相手を作り、集団で叩く」――それが今の日本社会の快楽になっている。
これほど霊性を失った姿があるだろうか。

かつて日本人は、他人の不幸を喜ぶことを恥じとした。
他者を悪しざまに罵れば、自分の魂が穢れると知っていた。
だが今や、言葉の刃を振るう者が“正義”の顔をしている。
これこそ、日本人の精神性崩壊の危機である。

安倍暗殺事件は、その頂点だった。
山上が引き金を引く前に、すでに我々は「祓い」を忘れ、
言葉で互いを撃ち合う国になっていたのだ。

霊性を取り戻さねば、この国は再び誰かを“正義”の名のもとに殺すだろう。
安倍晋三の死を無駄にしないために、我々が向き合うべき敵は他人ではない。
それは、我々自身の心の荒廃である。

そして、この言葉は決して「リベラル・左派」などにだけ向けられたものではない。
自らを「保守」と呼ぶ人々が、これを他人事として切り捨てるなら、それこそが霊性を失った証である。
「霊性の文化」とは、信条や立場の違いを超えて、己の内に潜む驕りと憎悪を祓い清める力のことであり、
それを欠けば、右も左も同じく“正義”という名の暴力に呑まれる。

保守であれリベラル・左派であれ、真の危機は思想の違いではない。
我々一人ひとりが、言葉の刃で他者を断罪し、自らの心を荒らしてゆくことこそが、この国を蝕む病である。
「霊性を取り戻す」とは、信念を捨てることではなく、信念を祓い清めてもう一度“祈りの国”を思い出すことなのだ。

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