デモの参加者にも広がり始めた焦りと無力感「脱原発」意識の二極化現象に覚える違和感の正体
大飯原発の再稼働を機に、「脱原発デモ」が再び盛り上がっている。だがその一方で、世間では「脱原発」への意識が二極化し、一部でトーンダウンの兆しも見える。昨年、生存の危機に晒された日本人の意識が変化している背景には、何があるのか。
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当然、既存の労働・政治団体には、しっかりした主張を展開している団体も多い。しかし、一般参加者については、「原発について専門的な知識があるわけではない。でも、わからないからこそ怖いし、もっと知りたいと思う」(前出のEさん)という人がほとんどだ。
だからこそ、今のデモが「運動のプロ」ではない幅広い層を集めることに繋がっている一方、素人であるがゆえに政策への反映プロセスがわからず、ジレンマに陥っている側面もある。
繰り返し述べるが、原発問題については様々な意見があり、まだまだ議論を深めなければならない。国民の不満や疑問と正面から向き合うことを政府が避け続けていれば、火に油を注ぐことになりかねないことだけは、理解しておく必要があるだろう。
【私の論評】生存の危機を身近に感じることのなかったニッポン人!!絶対などということがあり得ないと悟っていた日本人?
上の記事、生存の危機に晒された日本人の意識が変化しているということを述べていますが、どのように変化しているのかを述べてはいないと思います。この日本の変化は、いくつもありますが、上の記事の内容は不十分です。不十分であるがゆえに、無力感など十分に説明できないでいます。これだと、以前
似たような記事をこのブログに掲載しましたが、そちらのほうが理解しやすいと思います。
ニッポン人の多くは、今回の震災が発生して、原発事故が発生して、はじめて、絶対安全などということは到底あり得ないということを悟ったと思います。震災が起こって間髪を入れず、各地を津波が襲う動画がテレビで多く映しだされました。津波に直接襲われた人は、もとよりそうではない人にもこのことを直感的に悟ったことでしょう。そうして、次の日は、炎に包まれる多くの地方都市が放映されました。
そうして、極めつけは、しばらくたって津波の水がひいた震災地の惨状です。現在の日本人は、ほとんどの人が爆撃の経験はないですが、それにしても、テレビなどでその映像を見たことのある人は大勢いることでしょう。そうです、多くの被災地がまるで爆撃を受けたかのように、建物などが、跡形もなく消え去っていました。
それから、少ししてから、あの原発事故です。原発の建屋が吹き飛んだり、原発を冷やすための放水作業などが映され、しばらくは考える暇がないほど、次々といろいろなことがありました。
そうして、まもなく、原発反対運動が盛り上がりを見せるようになりました。そうして、私自身はといえば、この時点では、情報が少ないことや、いわゆる理論武装のようなものもしようがなかったのですが、最初から原発全廃、原発反対という考えは頭をよぎりもしませんでした。ただし、すぐに全廃ということはなくても、時間が随分かかったとしても、危険な原発はいずれ廃止したほうが良いとか、そこまでいかなくとも、減らしたほうが良いとは思いました。
なぜなら、すぐに全廃などすれば、日本の社会の隅々まで入り込んで、いわゆるユビキタスの代表のようにいわれている、電気が、なくなれば、経済が停滞するし、それに社会が混乱することは目にみえていたからです。だから、全廃など叫んでデモをする人々を目にしたときは、なんて愚かなことをするのだろうと思いました。
それから、いろいろ、考えてみましたが、結局自分も原発の電気を使っていて、いわゆる安全神話は、心底信じてはいなかったものの、やはり、そんなに危険はないだろうと考えていたことに思いが至りました。そうして、安全神話を流布した、自民党政権や、民主党政権に対する怒りの感情が目覚めました。そうして、現在進行形で、原発事故への対応の悪さがはっきりしてきた民主党政権や、東電などにも怒りを感じました。そうとはいいながら、東電にばかり、非難の矛先が向かうことに疑問を感じました。
いずれにせよ、原発事故によって、完璧に安全神話が崩れたことは間違いありません。多くの人が、信じていたことが、そうではなかったこと、さらに、原発だけではなく、いくら、日本か戦争などのない安全な国であると思っていても、地震や津波などで、思ってもみないほどの甚大な被害にあい、それによって、多くの人々がなくなるということもあり得るのだということに思いいたったと思います。これは、誰もが認めると思います。
そうして、何事にも、絶対安全とか、確実とか、絶対正しいとか、絶対間違いであるなどということはあり得ないということを意識的か無意識であるか別にして、悟ったものと思います。これほどの惨事に見舞われて、そう悟ることができない人は、右、左とか、上、下などの思想の違いとか、立場を乗り越えてほとんどいないと思います。
そこにきて、反原発運動のうねりです。上の記事とは、裏腹に現実には、最高にデモ参加者が、増えたときでも、おそらく数万人であろうと言われています。この人達というか、少なくとも、このデモを主導する側の人たちは、原発を廃炉にすることが絶対の善である、疑問の余地がないほど何が何でも絶対正しい主張していると思います。とにかく放射能は、怖いし、原発は危険だし、何が何でも反原発は正しいと主張しています。
しかしながら、良く考えてみて下さい。少し前まで、日本は絶対安全、原発は絶対安全という神話を完璧ではないまでも、多くの人達が、かなり信じていたわけです。しかし、それが、現実に脆くも崩れたわけです。
だから、多くの人達が、原発全廃が絶対に正しいなどとは信じられなくなっていると思います。危険だから、危ないからといって、すぐにも廃止してしまえば、それが、絶対善であると単純に信じてしまう人など、意識している意識していないは別にして、潜在意識の中では、絶対ということは信用しなくなっています。
そうして、私は、およそ、いかなる社会現象においても、それが、社会現象である限り、どのようなことも絶対などということはあり得ないと思います。絶対安全、絶対安心などということは、永遠にないと思います。そうして、この平和日本に長く生きて、そのことを半分忘れかけていたことに気づきました。
一番典型的なのは、「家を出るときは、今生の別れ」ということを忘れてしまったということです。こんな当たり前のことを久しく忘れていたように思います。そうして、一度挨拶をしたら、後は、絶対に振返らないということも、。私は、子供の頃からそのように躾けられていましたので、社会人になってからも、それは、実行していました。しかし、最近は、少し曖昧になっていました。震災以来、このことに気付き愕然としたものです。
あの震災の時に、「家を出るときは、今生の別れ」になった人々が大勢いました。そのことを語っていた人が多く実際に、テレビで放映されていました。しかし、これは、震災、津波があろうがなかろうが、真実です。一旦家を出たからには、外で何が起こるかなどは、分かりません。あるいは、家にとどまっている家人にだって何が起こるかなどということはわかりません。だからこそ、普段から、思い残すことがないように、古の人々は、「家をでるときは、今生の別れ」と言ったのです。そうし、別れ際に、思いを残さないように、一歩家を出たら決して振り返らないようにと戒めたのです。
私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、日々このような緊張の中で生きているのです。私を含めて、多くの人がその事実を忘れていたか、見ないようにしてきたに過ぎません。だから、政府が正しいとか、間違いとか、原発の安全を司る組織がどうのこうのという前に、原発を推進するにしても、廃止するにしても、この世で何が絶対に正しいのだなどということはあり得ないということです。
だからこそ、原発廃止絶対善などもあり得ないということに多くの人々が気づきつつあるのです。何事においても、絶対善を主張する人間がいたとしても、もう誰も簡単には信じないと思います。最初は、騙されても長い間には、騙されなくなってくると思います。社会現象は、何事も、相対的なのです。原発絶対廃止が絶対善などではあり得ないことは、以前このブログで掲載したことがありますので、それについては、
当該ブログをご覧いただくこととして、ここには、詳細を記載しません。
私は、社会事象を考えるときは、いわゆる絶対正しいとか、絶対間違いという呪縛から逃れるべきであり、そこから、新たな良い社会が生まれていくものと確信しています。そう思うのは、私だけでしょうか?皆さんは、どうお考えになりますか?
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