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海江田万里 |
番組終了後、記者団に対し、線量計なしで作業した日時は確かでないとしたうえで、「勇気のある人たちという話として聞いた。今はそんなことやっていない。決して勧められることではない」と語った。
労働安全衛生法では、原発で働く作業員らの健康管理に関連し、緊急作業時に作業員は被曝(ひばく)線量の測定装置を身につけて線量を計るよう義務づけられている。作業員らが被曝線量の測定装置をつけずに作業をしていたのなら、法違反にあたる。厚生労働省は、多くの作業員に線量計を持たせずに作業をさせたとして5月30日付で東電に対し、労働安全衛生法違反だとして是正勧告している。
【私の論評】称賛の仕方、間違っていないか?
この話本当なんでしょうか?本当だとしたら、勘違いもはなはだしいです。しかし、海江田さん、以前にもこれに匹敵するようなとんでもない、失言というが罵声をはいたこともあるようなので、おそらく事実なのでしょう。
その罵声に関しては、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、そうではない方のために、以下に過去の新聞記事をコピペしておきます。
石原都知事、消防隊への圧力に抗議=原発放水「速やかにしないと処分」
東京都の石原慎太郎知事は21日午後、首相官邸で菅直人首相と会い、福島第1原発での放水作業をめぐり、政府関係者から東京消防庁ハイパーレスキュー隊幹部に対して「速やかにやらなければ処分する」との圧力的発言があったとして、抗議した。石原氏によると、首相は「陳謝します。大変申し訳ない」と述べた。
石原氏は会談後、記者団に「現場の事情を無視して、(放水作業を)速やかにやれ(と指示があった)。やらなければ処分する、ということを上から言ってはいけない」と強調。さらに、「担当大臣か何か知らないが、恐らく上から来るのだろう。そんなばかなことを言ったら戦が戦にならない。絶対言わせないでください」と首相に申し入れたことを明らかにした。
また、同隊が使用した放水車の連続放水能力は4時間が限度だったが、政府側の指示で7時間連続で放水したため、石原氏は「完全に壊れた」と説明した。
一方、枝野幸男官房長官は同日午後の記者会見で「これから調査する」と述べるにとどめた。上の記事の、石原都知事が、「担当大臣か何か知らないが」と語っている、担当大臣とは、もちろん、海江田大臣のことです。
この苦言を呈した、石原都知事は、原発放水を敢行した、消防隊員を以下のようにねぎらっています。
どちらが、正しいやり方なのかといえば、無論、石原さんのほうでしょう。これに対して、異論を挟むひとは、どこか、感覚がおかしい人と言わざるをえないと思います。
しかし、海江田さんの勘違いとは、言っても、上記の記事のように、線量計をつけないで、労働安全衛生法に反するからなどと、無粋なことをいうつもりはありません。
放水を敢行した消防隊員の中にも、本当は「嫌」だと思いながら、この業務に従事した方もいらっしなるかもしれません。人間であれば、当然のことです。誰もがスーパーマンのようなわけにはいきません。怖いと思った人もいるでしょう。しかし、放水に参加したということでは、皆同じです。だから、そんなことは、区別することなく、石原さんのように、等しく参加したすべての人の労をねぎらうのが当然のことです。
海江田さんも、この放水に関しては、命令ではなく、お願いというスタイルをとるべきでした。それが、平均的な日本人の社会一般通念というものです。ご存じのように、石原さんも、若い時には、作家出身ということもあって、会社づとめもしたことがなく、そのまま政治家になったこともあって世間知らずで、いわゆる仰天発言というものもありましたが、長い間、公職についたせいか、最近では随分まともになったと思います。しかし、作家であったということもあり、時流を見る目はあり、同じ仰天発言でも、従来から筋は通っていたと思います。
一方海江田さんは、参議院議員・経済評論家の野末陳平秘書を経て、自身も経済評論家として独立。テレビ、ラジオ、雑誌などで税金や経済を解説する論客として幅広く活躍しました。バブル経済で財テクブームが到来すると、一般向けの財テク指南書を多く出版しました。また、1989年4月~1991年3月まで「TXNニュース THIS EVENING」の土曜メインキャスターを務めたこともあります。
海江田さんも、いわゆる会社勤めなどしたことがなく、いわゆる世間知らずなところがあります。それに、石原都知事と比較すれば、まだ、若いということがあります。また、石原さんのような、時流を見る目がなく、石原さんが仰天発言をしても、筋が通っているのに、海江田さんの仰天発言は、脈絡がありません。困ったものです。
民主党の閣僚などは、左翼出身者が多く、まともな会社勤めもしたことがないため、こうした一般常識に欠けたり、社会性の乏しい人が多いです。躾ができていないということです。というより、古から継承されてきた、日本人の美意識などからは、分断されています。だから、いざというとき、どのように振舞って良いのかわからず、海江田さんのような発言をしてしまう人が多く見受けられます。
現在福島原発で働いている人にも様々なタイプの人がいます。それこそ、強い義務感から、被災当初にこのブログにも紹介したように、"Fukushima 50"と世界中から讃えられた人々もいます。しかし、今では、全国から募集しているようですから、今では、お金欲しさのため、短期的に働く人もいると思います。また、線量計をつけないで作業をした人もいますが、この中にも、海江田さんが言うように、「線量計をつけて入ると(線量が)上がって法律では働けなくなるから、線量計を置いて入った人」もいたと思います。しかし、そうではない人もいたと思います。聴いたところによれば、最初の頃は線量計そのものの数が足りなかったという事実がありました。
しかし、線量計どうであろうと、責任感があろうがなかろうが、福島原発で働いた人々は、事実として、危険な場所で働いていたわけですから、まずは、これらの人々に対しては、別け隔てなく、たたえたり、賞賛するのが、人の上に立つ者の勤めです。まともな組織であれば、そうするのが普通です。それから、どうするのかというのは、それこそ、人事の問題です。
でも、そんなことは、まともな組織の中では、当たり前のことで、誰も口に出すものもいません。そんなことも意に介さず、線量計をつけなかった人のみを称賛するとはいったいどのような了見なのでしょうか。私には、理解できません。これは、政府とか、経産省とかの組織のだけの話ではありません。国レベルの話でもあると思います。
私は、このような話に触れたとき、必ず思い浮かべることがあります。それは、坂口安吾の『特攻隊に捧ぐ』という文章です。この文章比較的短いことと、青空文庫にも掲載されていることから、著作権の問題もないとおもいますので、以下にその全文を掲載します。その前に、特攻へのレクイエムという動画を掲載します。
特攻隊に捧ぐ
数百万の血をささげたこの戦争に、我々の心を真に高めてくれるような本当の美談が少いということは、なんとしても切ないことだ。それは一に軍部の指導方針が、その根本に於(おい)て、たとえば「お母さん」と叫んで死ぬ兵隊に、是が非でも「天皇陛下万歳」と叫ばせようというような非人間的なものであるから、真に人間の魂に訴える美しい話が乏しいのは仕方がないことであろう。
けれども敗戦のあげくが、軍の積悪があばかれるのは当然として、戦争にからまる何事をも悪い方へ悪い方へと解釈するのは決して健全なことではない。
たとえば戦争中は勇躍護国の花と散った特攻隊員が、敗戦後は専(もっぱ)ら「死にたくない」特攻隊員で、近頃では殉国の特攻隊員など一向にはやらなくなってしまったが、こう一方的にかたよるのは、いつの世にも排すべきで、自己自らを愚弄(ぐろう)することにほかならない。もとより死にたくないのは人の本能で、自殺ですら多くは生きるためのあがきの変形であり、死にたい兵隊のあろう筈(はず)はないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。
私はだいたい、戦法としても特攻隊というものが好きであった。人は特攻隊を残酷だというが、残酷なのは戦争自体で、戦争となった以上はあらゆる智能(ちのう)方策を傾けて戦う以外に仕方がない。特攻隊よりも遥(はるか)にみじめに、あの平野、あの海辺、あのジャングルに、まるで泥人形のようにバタバタ死んだ何百万の兵隊があるのだ。戦争は呪(のろ)うべし、憎むべし。再び犯すべからず。その戦争の中で、然(しか)し、特攻隊はともかく可憐(かれん)な花であったと私は思う。
戦法としても、日本としては上乗のものだった。ケタの違う工業力でまともに戦える筈はないので、追いつめられて窮余の策でやるような無計画なことをせず、戦争の始めから、航空工業を特攻専門にきりかえ、重爆などは作らぬやり方で片道飛行機専門に組織を立てて立案すれば、工業力の劣勢を相当おぎなうことが出来たと思う。人の子を死へ馳(か)りたてることは怖(おそ)るべき罪悪であるが、これも戦争である以上は、死ぬるは同じ、やむを得ぬ。日本軍の作戦の幼稚さは言語同断で、工業力と作戦との結び方すら組織的に計画されてはおらず、有力なる新兵器もなく、ともかく最も独創的な新兵器といえば、それが特攻隊であった。特攻隊は兵隊ではなく、兵器である。工業力をおぎなうための最も簡便な工程の操縦器であり計器であった。
私は文学者であり、生れついての懐疑家であり、人間を人性を死に至るまで疑いつづける者であるが、然し、特攻隊員の心情だけは疑らぬ方がいいと思っている。なぜなら、疑ったところで、タカが知れており、分りきっているからだ。要するに、死にたくない本能との格闘、それだけのことだ。疑るな。そッとしておけ。そして、卑怯(ひきょう)
だの女々しいだの、又はあべこべに人間的であったなどと言うなかれ。
彼らは自ら爆弾となって敵艦にぶつかった。否(いな)、その大部分が途中に射ち落されてしまったであろうけれども、敵艦に突入したその何機かを彼等全部の栄誉ある姿と見てやりたい。母も思ったであろう。恋人のまぼろしも見たであろう。自ら飛び散る火の粉となり、火の粉の中に彼等の二十何歳かの悲しい歴史が花咲き消えた。彼等は基地では酒飲みで、ゴロツキで、バクチ打ちで、女たらしであったかも知れぬ。やむを得ぬ。死へ向って歩むのだもの、聖人ならぬ二十前後の若者が、酒をのまずにいられようか。せめても女と時のまの火を遊ばずにいられようか。ゴロツキで、バクチ打ちで、死を怖れ、生に恋々とし、世の誰よりも恋々とし、けれども彼等は愛国の詩人であった。いのちを人にささげる者を詩人という。唄(うた)う必要はないのである。詩人純粋なりといえ、迷わずにいのちをささげ得る筈はない。そんな化物はあり得ない。その迷う姿をあばいて何になるのさ何かの役に立つのかね?
我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の偽懣(ぎまん)とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。
私は無償の行為というものを最高の人の姿と見るのであるが、日本流にはまぎれもなく例の滅私奉公で、戦争中は合言葉に至極簡単に言いすてていたが、こんなことが百万人の一人もできるものではないのである。他のためにいのちをすてる、戦争は凡人を駈(か)って至極簡単に奇蹟きせきを行わせた。
私は然しいささか美に惑溺(わくでき)しているのである。そして根柢(こんてい)的な過失を犯している。私はそれに気付いているのだ。戦争が奇蹟を行ったという表現は憎むべき偽懣の言葉で、奇蹟の正体は、国のためにいのちを捨てることを「強要した」というところにある。奇蹟でもなんでもない。無理強いに強要されたのだ。これは戦争の性格だ。その性格に自由はない。かりに作戦の許す最大限の自由を許したにしても、戦争に真実の自由はなく、所詮(しょせん)兵隊は人間ではなく人形なのだ。
人間が戦争を呪うのは当然だ。呪わぬ者は人間ではない。否応なく、いのちを強要される。私は無償の行為と云(い)ったが、それが至高の人の姿であるにしても多くの人はむしろ平凡を愛しており、小さな家庭の小さな平和を愛しているのだ。かかる人々を強要して体当りをさせる。暴力の極であり、私とて、最大の怒りをもってこれを呪うものである。そして恐らく大部分の兵隊が戦争を呪ったにきまっている。
けれども私は「強要せられた」ことを一応忘れる考え方も必要だと思っている。なぜなら彼等は強要せられた、人間ではなく人形として否応(いやおう)なく強要せられた。だが、その次に始まったのは彼個人の凄絶(せいぜつ)な死との格闘、人間の苦悩で、強要によって起りはしたが、燃焼はそれ自体であり、強要と切り離して、それ自体として見ることも可能だという考えである。否、私はむしろ切り離して、それ自体として見ることが正当で、格闘のあげくの殉国の情熱を最大の讃美を以(もっ)て敬愛したいと思うのだ。
強要せられたる結果とは云え、凡人も亦(また)かかる崇高な偉業を成就(じょうじゅ)しうるということは、大きな希望ではないか。大いなる光ではないか。平和なる時代に於て、かかる人の子の至高の苦悩と情熱が花咲きうるという希望は日本を世界を明るくする。ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。美しいものの真実の発芽は必死にまもり育てねばならぬ。
私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に讃美する。その人間の懊悩(おうのう)苦悶(くもん)とかくて国のため人のためにささげられたいのちに対して。先ごろ浅草の本願寺だかで浮浪者の救護に挺身(ていしん)し、浮浪者の敬慕を一身にあつめて救護所の所長におされていた学生が発疹(はっしん)チフスのために殉職したという話をきいた。
私のごとく卑小な大人が蛇足する言葉は不要であろう。私の卑小さにも拘(かかわ)らず偉大なる魂は実在する。私はそれを信じうるだけで幸せだと思う。
青年諸君よ、この戦争は馬鹿(ばか)げた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。
要求せられた「殉国の情熱」を、自発的な、人間自らの生き方の中に見出(みいだ)すことが不可能であろうか。それを思う私が間違っているのであろうか。無論、特攻隊と、今回の消防隊による放水の敢行と、原発という危険な職場で働く人々との間には、かなり落差があると思いますが、どちらの場合も、重い、軽いの差は、あったとしても、命の危険をおかして、任務を遂行するという点では共通点があります。
そうして、私は、坂口安吾の上記の文章に対して、すべてを認めるというわけではありませんが、特に、「我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか」という安吾の趣旨には大賛成であり、その価値を大いに認めるものです。私は、坂口のこの趣旨から、特攻隊の若者の心情を大切にし、日本人であるからには、永遠語り継ぎ、賛美し続けるべきと思います。それに、放水を敢行した消防隊員、危険な福島原発で危険な作業を続ける人々をおも、同じように賛美すべきものと思います。
こんなに切羽つまた、特殊な状況ではないにしても、ごく一般のサラリーマンだって、家庭の主婦だって、お客のため、会社のため、家族のため、仲間のため、地域のためと、何か、普通ではないもっと高い次元の為、大義のため、何かを犠牲にしている人はいくらでもいます。そういう無数のこうした人々を愛おしいと思う、その愛おしさを、必至で愛し、守ろうとするのは、日本人一般が抱く普通の感情であり、まともな組織では、それを奨励します。
どんな動機であれ、社会の機関である組織の顧客に貢献する人、組織そのものに貢献する人、組織の使命を遂行する人には、等しく賞賛します。それが、個人主義を旨とはしない、日本の伝統文化です。また、亡くなった人に対しては、どんな悪いことをした人でさえ、決して鞭打つようなことをせず、仏様になったとするのも、日本の伝統文化です。
このようなこと理解できないからこそ、海江田さんの発言は脈絡が亡くなるのだと思います。それに、多くの民主党の閣僚なども、もこのようなことを理解できないから、軽率だし、頭が悪く見えるのだと思います。
こうした日本人の古からの美意識すら理解できない、民主党には、もう先がないです。
ここで、私がこの種の記事を書いたときの、お決まりの文章を以下に掲載して本日のブログの締めとします。
現在の政権など、歴史の悠久の流れの中に咲いた一時の徒花に過ぎません。1,000年に一度の震災も、悠久の時の流れを経てきた我が国の歴史からみれば、ほんの一時のことに過ぎません。天皇制をはじめとする私たち日本人の日本の伝統文化、それに勤勉で実直な国民性は、古から今に至るまで、継承されてきましたが、これからも悠久の歴史の中に燦然として輝き続けるどころか、さらに輝きを増すことでしょう。そうして、こうした勤勉と実直さを強く継承してきた東日本の人々も近いうちに、復興をなしとげ、悠久の歴史の中で共に燦然と輝くことになることでしょう。
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