2015年9月25日金曜日

反安保の急先鋒となったあの憲法学者の「いかがわしさ」を明かそう ~わずか2年前は「解釈改憲論者」。だから彼らを信用できない!―【私の論評】虚実皮膜の間も成り立たない180度時代に逆行した転換(゚д゚)!

反安保の急先鋒となったあの憲法学者の「いかがわしさ」を明かそう ~わずか2年前は「解釈改憲論者」。だから彼らを信用できない!

長谷川幸洋氏 写真はブログ管理人挿入 以下同じ

ほんの2年前まで、「解釈変更容認論者」だった!

安全保障関連法案(現在は可決成立)をめぐる議論について、先週のコラム(http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/45392)で「野党や反対派は反省せよ」と書いたら、予想以上の反響をいただいた。多くは私の意見に賛成だった。今回はその続きを書こう。

いただいた反響のツイッターを見ていたら、たまたま日本報道検証機構代表で弁護士でもある楊井人文(やないひとふみ)氏が執筆した記事(http://bylines.news.yahoo.co.jp/yanaihitofumi/20150923-00049770/)を見つけた。記事は慶応義塾大学の小林節・名誉教授の言説に言及している。

小林節・慶応義塾大学名誉教授

小林教授は安保関連法案に反対した代表的な憲法学者として著名である。反対派が法案違憲論で盛り上がったのは、反対派の一人として小林教授が国会で意見陳述したのも大いに寄与している。

ところが、楊井氏の記事を読んでびっくりした。小林教授は、ほんの2年前まで集団的自衛権についてバリバリの解釈変更容認論者だったのだ。これは単に私が知らなかっただけで、ネットの世界ではとっくに知られていた事実でもあった。

まさに安倍政権が想定したケース

まず2006年11月11日の産経新聞「正論」欄で、教授は次のように書いていた。

「法令解釈というものは、解釈権を有する者(この場合は政府)が、その責任において、条文の文言とその立法趣旨の許容限度内で行う『選択』である以上、時代状況の変化の中で、説得力のある理由が明示される限り、変更されてよいものであるし、これまでもそうであった」

「だから世界史の現実と東アジアの情勢の中で、わが国の存続と安全にとって日米同盟の強化が不可欠である、と政府が考えるならば、その責任において、上述の2例のような場合に、仮にわが国に対する直接的な攻撃がなかったとしても、それをわが国が座視すれば日米同盟が損なわれることが明白である以上、仮に形式上は集団的自衛活動になろうとも、わが国の存続に『不可欠』な軍事行動は、それを許容する憲法9条に違反するものではあるまい」(http://sakura4987.exblog.jp/4527878/

ここで「上述の2例」とは「公海上でわが国の自衛艦と並走している米国の艦艇が他国から攻撃された場合に、自衛艦が米艦を支援したら、それは集団的自衛権になってしまう」というケースと、「わが国の上空を飛んで米国に向かう他国のミサイルをわが国が撃ち落としたとしたら、それも集団的自衛になってしまう」というケースだ。

まさに安倍政権が想定したケースである。

小林教授はそういう場合に「政府が法令解釈を変更してもいいし、これまでもそうだった」と主張し、かつ「政府が不可欠と考えれば、集団的自衛権に基づく軍事行動も9条に違反しない」とも言っている。小林教授が国会やマスコミで展開してきた反対論とは、まったく正反対なのだ。

賛成派の立場からみれば、まったくその通り、お説ごもっともとしか言いようがない。

これは9年前のコラムだったが、つい2年前の13年7月26日に公開されたダイヤモンド・オンラインのインタビュー記事(http://diamond.jp/articles/-/39334?page=9)でも、次のように主張している。「集団的自衛権の考え方については、どうですか」との質問に教授はこう答えた。

「先にも述べた通り、政府は自国の自衛権の存在を認めています。そうなると、自衛権を持つ独立主権国家が『個別的自衛権』と『集団的自衛権』の両方を持っていると考えるのは、国際法の常識です」

「政府は憲法の立法趣旨に照らして、集団的自衛権を自らの解釈で自制していますが、このままだと日本は、他国に攻められたときに自分たちだけで自衛しなくてはいけません。

しかし、『襲われたら同盟国が報復にゆく』というメッセージを打ち出せる集団的自衛権は、他国の侵略を牽制する意味においてもメリットがあります。だから、改めて『日本は集団的自衛権を持っている』と解釈を変更するべきでしょう」

ここでは明確に「憲法解釈を変更すべきだ」と主張している。インタビューはやや長文だが、確認したい方はぜひ原文を参照してほしい。

これなら素人のほうが健全!

インタビューには後日談もある。14年5月26日の参院憲法審査会で和田政宗参院議員(当時、みんなの党)が「最近では、先生は安倍政権が目指している憲法の解釈改憲は大変、危険だと述べている」と発言の変化を指摘したうえで、あらためて集団的自衛権についてどう考えているのか、真意を質した。(https://www.youtube.com/watch?v=VqtRN8TEu7M&feature=youtu.be&t=9m30s

すると小林教授は、

「いまのネットの記事、私が言ったとは、インタビューを受けたんですが、とうてい信じられない。確認のうえ削除します。もちろん私も人間ですから、議論の中で過去35年、変わってきたので、縦で見れば、私の発言に矛盾はありうると思います。宗教じゃないですからね。日々、議論の中で私は変わってきていると思います」

と述べて、堂々と否定したのだ。

9年前に本人が執筆した記事と合わせて考えれば、小林教授はもともと「集団的自衛権は許容できるし、政府は解釈を変更すべきだ」と考えていたとみて間違いない。それが、いつからか知らないが(2年程度の間に)、180度正反対の論者になったのだ。

ついでに言えば、教授は国会でインタビュー記事を「確認して削除する」と発言しているが、現在も削除されていない。「正論」コラムも国会の録画も同様だ。それはそうだ。本人が意見を変えるのは自由だが、だからといって新聞や雑誌の記事、国会の証言録を後から削除できるわけがない。

そんなことをすれば、自由で独立したジャーナリズムと国会の自殺行為である。明白な間違いでもあるなら別だが、記事は新聞や雑誌のものだ。もしも間違った考えを言ったなら、責任は教授自身にある。教授はそんな言論や報道の自由について、いったいどう考えているのだろうか。まるでお分かりになっていないのではないか。

私は小林教授とテレビの『朝まで生テレビ!』で何度かご一緒したことがある。あるときは教授が私に「もっと勉強してから出てこい」という趣旨のご発言をされたので、私は「『素人』の代表として、このスタジオに座っている。勉強してから出てこいなどと言われたら発言できない」と反論した。

そんな専門家である小林教授はたった2年で考え方を180度変えて、国会やマスコミで平然と発言できる学者だったのだ。これだから、私は「専門家なる人々」を心の底から信用できない。素人のほうがよほど健全である。

「なかったことにする」つもりですか?

かつて賛成していながら反対に意見を変えたのは、小林教授だけではない。実は民主党の岡田克也代表もそうだ。それは国会論議であきらかになった。

自民党の佐藤正久参院議員は9月14日の参院平和安全法制特別委員会で、岡田代表が「いまの憲法はすべての集団的自衛権を認めていないとは言い切っておらず、集団的自衛権の中身を具体的に考えることで十分、整合性を持って説明できる」と03年5月の読売新聞上で発言していたことを指摘した。

さらに、自民党の平沢勝栄衆院議員は、15年6月22日の衆院平和安全法制特別委員会で、参考人の西修駒沢大学名誉教授に対する質疑を通じて、枝野幹事長が13年10月号の文藝春秋誌上で「個別的自衛権か集団的自衛権かという二元論で語ること自体がおかしな話です。そんな議論を行っているのは日本の政治や学者くらいでしょう」と書いていることをあきらかにした。

枝野幹事長はカタログハウスのサイトで「私はこう考える」と題して、こう説明している(https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/140104/index1.html)。

「日本近海の公海上で、日本を守るために展開している米海軍が攻撃された時に助けに行けるのかについて、他国の軍隊が公海上で攻撃されたという面で捉えれば、行使が認められていない集団的自衛権のように見えます。

でも、わが国を防衛するために展開している艦船だという点に着目すれば、日米安保条約に基づいて自衛隊と同じ任務を負っているのだから、個別的自衛権として行使することができます」

これはまさに、小林教授が2年前のインタビューで「集団的自衛権になってしまう」としたケースである。枝野幹事長と小林教授はいま反対の立場で共通しているが、実は小林教授が「枝野解釈」を否定していたのだ。

小林教授と岡田代表に共通しているのは、程度の差こそあれ、集団的自衛権について当初は容認していた姿勢を後になって修正し、否定する。ところが「転向」を外に向けて説明しない点である。

意見を変えてはいけないとは言わないが、少なくとも小林教授や岡田代表はなぜ変えたのか、本人が説明すべきではないか。私はこれほど重要な問題で、小林教授のように正反対に意見を変えておきながら「私が言ったとはとうてい信じられない」と国会で居直る姿勢には、それこそ信じられない思いがする。

発言自体を「なかったことにする」姿勢は政治やジャーナリズムの世界だったら、完全にアウトだ。学者の世界ではそれが通用するのだろうか。そんな学者のいかがわしさを明白な証拠をもって世間に示したのは、間違いなく小林教授の功績である。

この記事の詳細は、こちらから(゚д゚)!

【私の論評】虚実皮膜の間も成り立たない180度時代に逆行した転換(゚д゚)!

小林節氏の安全保障に関する考え方が、180度転換したことは、以前にもネットで読んだことがあります。しかし、あまり前後関係や背景などは、十分に記載されていなかったため、本日までは掲載しませんでした。しかし、上記の記事は、明確にそれらが示されているので、掲載させていただくことにしました。

上の長谷川幸洋氏の記事を読んでいて思ったのは、立場を180度転換する事自体は、悪いこととは全く思わないのですが、それには条件があるということです。

本日は、それについて掲載して行きたいと思います。

会社で、経営に関わったことのある方なら、時によって180度立場を変えるということもあり得ることは、よくご存知のことと思います。

朝令暮改などということばがあります。この言葉の意味は、「朝に命令を出して夕方それを変えること。法令が出てもすぐあとから改められて、あてにならないこと」です。



この言葉は、ネガティブなイメージがありますが、私自身は肯定的にも捉えています。会社経営をしていると、長期経営計画や、年度計画、短い場合は、月次計画、週次計画、日時計画などがあります。

しかし、私たちは、社会に生きていて、日々社会現象を相手にしています。社会現象は、非常に複雑なものですから、計画をたてたにしても、計画通りに事が運ばなかったり、最初計画をたてたときとは、状況が異なってしまう場合もおうおうにしてあります。

だから、そんな場合は、そもそも元の計画のミッションの部分に着目して、そのミッションを達成して、成果をあげるためには、元のままの計画ではうまく行かない場合には、計画を変更します。そうして、その計画の変更の理由は、周りの人にも伝えて、理解しもらい、其の上で変更します。

無論、計画の変更に対して、おうおうにして反対する人もいます。そのような場合は、説明はしますが、それでも従業員は納得しない場合もありますが、原則として、経営者として、変えるものは変えます。

社会に生きている私達、社会に存立している企業にとって、何事も絶対などということはあり得ません。この絶対ということはないということで、私が良く思い出すのは、「虚実皮膜の間」という言葉です。



これは、原典は詳しくは知りませんが、もともとは芸は実と虚の境の微妙なところにあることを指し。事実と虚構との微妙な境界に芸術の真実があるとする論です。江戸時代、近松門左衛門が唱えたとされる芸術論だそうです。

そこから発展して、現在では、「虚実」はうそとまこと。虚構と事実。「皮膜」は皮膚と粘膜。転じて、区別できないほどの微妙な違いのたとえとされています。「膜」は「にく」とも読みます。

たとえば、会社の中で職位が何であれ、私たちは、組織の中で一人ひとりが独立していなければなりません。自分の足で立っていなければなりません。自分の考えを持たなければなりません。しかし会社組織には、多数決という考え方がないことも事実です。責任範囲の狭い人と、責任の範囲の広い人の考え方が最終的に異なった場合、どんなに反対者が多くても、責任範囲の広い人である職位の高い人の意見が優先するのは言うまでもありません。

ただし、だからといって組織人として、自分の意見がないということも許されるものではありません。だから、上司を信じることは良いのですが、上司に頼りすぎるのも良くありません。また、部下をみる場合には、性善説でみる場合と、性悪説で見る場合とを臨機応変に変えていかなければなりません。性悪説でのみ部下と接すれば、そこには信頼関係がなくなります。そのような見方だけをする上司には、部下は誰もついていきません。

かといって、性善説だけで見れば、管理上のリスクが常について回ることになります。時と場合によって、臨機応変に変えなければなりません。片方の見方しかできないようであれば、管理者失格です。管理者や経営者の立場においては、いずれの立場からでも見られるようにしておかなければなりません。



だから、組織人は、いつもこれらのバランスを図っていく必要があります。そうして、虚実皮膜の間という言葉どおりに、場合によっては性悪説、性善説の間を揺れ動きつつ、その場、その場で判断をしていく必要があります。どんな場合にも、絶対善、絶対悪もないわけで、このバランスをとるという意味合いもこめて、私は「虚実皮膜の間」という言葉を座右の銘としています。

だから、180度転換というこは、会社の中では当然あり得る話です。会社の中では、多数決原理など成り立ちません。特に危機に瀕したときなどそうです。船が沈みそうなときに、乗客と乗組員が話あいをしていては、犠牲者が増すばかりです。だから、航海法などでは、船が危機に至ったときの船長の権限を明確に定めています。それと同じことです。そうでなけば、会社が成り立ちません。

それにしても、これは、あくまで会社の中の話です。社会人たるもの、立場を180度変えても良いですが、変えた場合には、説明責任は果たすべきです。特に安全保障に関するような重要な事柄については、立場を変えれば、説明責任は十分に果たすべきです。

こうしたことから、小林節氏は、立場を180度変えたというのなら、説明責任を果たすべきでした。民主党もそうです。このブログでは、岡田代表や枝野氏のみとどまらず、民主党自体が集団的自衛権の行使を認めていた時期があることも掲載したことがあります。であれば、民主党も説明責任を十分果たすべきでした。

それにしても、安全保障に関してはまさに、「虚実皮膜の間」という考え方が、良く成り立つと思います。第二次世界大戦直前の、イギリスの首相はチェンバレンは、ミュンヘン会議で、対独宥和政策をとり、ドイツのチェコスロバキアのズデーテン地方の併合を許容しました。

チェンバレン(左)とヒトラー(右)

これで、チェンパレンは戦争を回避できたと考え、会議からイギリスに帰ったところ、空港で大勢の市民から「戦争を回避した偉大な首相」ということで、大歓迎を受けました。

しかし、その後どうなったかといえば、戦争は回避されることなく、ドイツはその後ポーランド、フランス、ソ連などに侵略して、第二次世界大戦を招いてしまいました。

チェンバレンは、ドイツに宥和政策などとるべきではありませんでした。ドイツの、ズデーテン地方の併合に関しては、絶対に認めない、併合を続けるなら、武力の行使も辞さないことをヒトラーに明確に伝えるべきでした。

そうして、他国などとも協力して、ドイツがあくまでも併合を続けるならば、武力も行使して徹底抗戦すべきでした。

このように、「安全保障」は自国だけのことを考えていても成就することはできません。相手の出方によって、柔軟に変えていかなけばなりません。まさに、「虚実皮膜の間」であり、チェンバレンの対応は、ヒトラー登場前には正しかったでしょうが、登場後は完璧に間違えでした。

日本の安全保障の環境も、10年ほど以前とは全く異なります。すでに、オバマはアメリカは「世界の警察官」をやめることを宣言しています。中国は、まだ今の水準では、軍事的にはあまり脅威ではありませんが、それでも、毎年軍備を拡張していますし、核兵器は日本に照準をあてています。

最近では、北朝鮮も核開発に成功し、大陸間弾道弾の開発にも成功したようです。それにし、拉致問題は未だ解決していません。拉致問題は、日本にとって大きな安全保障上の問題です。

安保法制も時代に即して変えていくのが当然のことです。ちなみに、小林節氏の従来の安保観は、まさに現在の日本に即したものだと思います。

以下に、小林節氏の2年前よりも以前の安保観を以下に整理しておきます。
法令解釈というものは、解釈権を有する者(この場合は政府)が、その責任において、条文の文言とその立法趣旨の許容限度内で行う『選択』である以上、時代状況の変化の中で、説得力のある理由が明示される限り、変更されてよいものであるし、これまでもそうであった。
だから世界史の現実と東アジアの情勢の中で、わが国の存続と安全にとって日米同盟の強化が不可欠である、と政府が考えるならば、その責任において、上述の2例のような場合に、仮にわが国に対する直接的な攻撃がなかったとしても、それをわが国が座視すれば日米同盟が損なわれることが明白である以上、仮に形式上は集団的自衛活動になろうとも、わが国の存続に『不可欠』な軍事行動は、それを許容する憲法9条に違反するものではあるまい 
政府が不可欠と考えれば、集団的自衛権に基づく軍事行動も9条に違反しない。
まさしく、小林節氏の以前の安保観は、現在の日本に即したものです。最近の、小林氏は、完璧に時代に逆行しているようにしか思えません。

まさに、「虚実皮膜の間」も成り立たない180度時代に逆行した転換だと思います。

どうして、このようなことになってしまうのでしょうか。民主党の転換は、簡単に理解できます。彼らは、安倍政権に対峙して、少しでも選挙に有利になるため、安倍政権にネガティブイメージをつけることが狙いです。

小林節氏の転換はなかなか理解できませんが、やはり彼が、日本の憲法学の主流派に属しており、過去の小林氏の言舌は、小林氏自身の本心であり、最近の転換は、主流派憲法学界に配慮したものだと思います。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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