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ウェブばかり見ていることは読書のかわりになるか?:(lifhacking.jpより)
この連載のテーマは「知的生活」です。間違えてはいけないのは、これは「学問ばかりする生活」というわけでも「高尚なことだけする生活」ではないという点です。
私がこの言葉に触れたのは、渡部昇一氏の「続・知的生活の方法」(現在絶版?)を読んだのがきっかけでした。35年ほど前に書かれた本書はベストセラーとなった前著「
知的生活の方法」とともに、オリジナルな発想を楽しむ生活について具体的で示唆に富む内容になっています。
まだパーソナルコンピュータ革命前夜に書かれた本と言うこともあって、ここで書かれているのは簡単にいえば、1. 書籍をたくさん読み、オリジナルな発想を育むのが「知的生活」、2. そのために時間・場所・金銭的な自由をいかに確保するか?、この2点です。
当時40代だった渡部氏が、学者として安定した頃にのびのびと書いたのではないかという軽やかさが文章にはあって、憧れのおもむくままに本を読みたい! もっと学びたい! という生活を実現させることが「知的生活」なのだというメッセージが私にはとても魅力的でした。
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ところで、「クラウド時代」の今この二つの点のうち最初の点、「読書」はどうなるのでしょう? 本を読む価値はいまでもいささかも減じていないと思いますが、それでも大量に存在するウェブの情報を読むのに忙しくてなかなか本まで手が回らないという人も多いのではないでしょうか?
実際、ウェブばかり見ていることは、読書のかわりになるのでしょうか?
ウェブは読書のかわりに「なる」
本を書くようになって感じるのは、本は常に動いている世の中に対するその時点でのスナップショットでしかないという点です。特に技術書はこの傾向が強いのはいうまでもないでしょう。先日刊行した「
できるポケット Google+」は印刷所に入る日まで修正が行われましたが、それでもGoogle+ページが登場して早くも現実とはずれが生じ始めています。
書籍になるよりも速く、世界のニュースや新しい情報についていち早く伝えているのはニュースサイトであったりブログであったりします。しかも、芸術についてなら画像や動画もふくめて紹介することができますので書籍よりも当を得た解説ができることも見逃せません(電子書籍がんばれー [棒読み])。
少なくとも以下については信頼できるチャンネルを RSS などで構築しておく意味はあるわけです。
- 最新のニュースに対する評価や評論を下せるサイトを複数。できれば対立的な視点で紹介してくれるとなおよし
- 最新の音楽、アートシーンなどについて紹介してくれるサイト、ブログのなかから、自分にとって気になるものをピックアップ
- 日常で一番使うツールなどのアップデート情報を仕入れることができるブログ。自分が探さなくても、その人をフォローすればOK、というもの
この3つについては、もはや書籍どころか雑誌さえもいらないことが多いわけで、週末の2時間くらいをかけてこの方面で RSS を増強しておけば、何十時間という新聞・雑誌・書籍で手に入れる情報をウェブで代替できます。
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こんなこと、このページを読んでいる人には言うまでもないですね。でも残りがあるのです。
ウェブは読書のかわりに「ならない」
もちろんウェブで読めないものもあります。小説がそうですし、多くの漫画もそうですし、過去の書籍も膨大な価値をたたえてページが開かれるのを待っています。
でもそれ以上に、「ウェブには書かれない」内容があります。たとえば、いしたにまさきさんの「
ネットで成功しているのは〈やめない人たち〉である」の文体は、いつも読んでいる
みたいもん!とよく似ていますが、あきらかに書籍だからこそ触れた内容、題材が大量に含まれます。
ブログを読んでいたからといって、書籍の結論にはたどり着かないのです。
これは自分で本を作るようになってよく理解できるようになったのですが、こうしてブログ記事として書いている文章と、本にするときでは意識がとても異なります。
ブログは自分のサイトなので、読者に読んでいただいているという意識は共通しているのですが我が家というか、テーマの選び方や文体で多少わがままに振る舞えます。書籍では一般的な読者を相手にするので表現の角がとれますし、しかも分量や話題のバランスを常に配慮します。バランスがとれていないと、編集からツッコミがくるわけです。
この二つの差に、実は価値がある
最近よく意識するのが、このブログと書籍との間にとても価値の高い領域があるという点です。ここはブログですので、あまり学問的な厳密さなど気にせずえいやっと図化すると、こんな感じです。
特定のクラスターにむけて書いた速報性の高いメディアを仮にブログとすると、書籍はその反対側、一般的な読者にむけてもうすこし長い時間スケールでの内容をまとめます。この「書籍にしかかけないもの」を「永続性」と仮にしておきましょう。
すると、一般的で速報性の高い「ニュース」の反対側、特定読者にむけた永続性の高い論評の部分が空欄になります。実はここに、大きな価値があるのです。
ここには、ブログの側と書籍の側のどちらからでもアプローチできます。速報的な記事のなかに10年先の未来を予見することを書く人、あるいは、まだ自分でそのニーズを意識していない読者を開拓する書籍、両方ともいつまでも読んでいたいものですし、自分で書きたいといつも思っているものです。
ウェブは読書のかわりに「なる」「ならない」という質問は
実は「ウェブ」と「書籍」のどちらが優位かという話ではなくて、どちらにおいても一番の価値のあるものはその媒体の境界を越えてゆくものだろいうことなのではないかというわけです。
そしてどんなブログや書籍が「越えた」ものかは、
両方にアンテナをはっていないとわかりません。ウェブのコンテンツは書籍という背景を前提にしていることが多いですし、書籍は常にウェブの影に追いつけているとは限らないわけです。
そこで、もうちょっと連載が続いたら、このバランスについても具体的なことを書いていきたいと思います。いずれ、「本やウェブをよむことばかりが知的生活ではない」というあたりにも行き着くはずです。
とりあえずは、ウェブで読むものと書籍で読むもの、それがこのマトリクスで相補的になっているものを探すことを意識することから始めてみましょう。
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今週の書籍
この連載は渡部昇一氏の「知的生活の方法」に触発されてかいているものですので、連載のたびになにか書籍を紹介するのは妥当なことのように思えます。
その人の知的生活が本を中心にしているのであれ、舞台やコンサートに通うことが中心であるのであれ、それを表現しようと思ったら言葉にしなければいかず、どうしてもあたまを使う必要が出てきます。こればかりは仕方がありません。
「考える」というとその人の脳の性能しだいで努力せずに引き出せるものと思われがちですが、実はけっこうメンテナンスが必要だということを教えてくれるのが築山節氏の
「
脳が冴える15の習慣」です。すでにベストセラーなのでご存じのかたも多いと思います。
でも実はこの本、iOS アプリにもなっていて、こちらの方が若干安かったりします。この15の習慣は朝から晩までの一日に実践するべき場所が散らばっているので、いつでも取り出して読めるようにしておくのは便利です。
まだ手に取ったことがないという方は、ぜひ iOS アプリで読んでみてください。
【私の論評】キュレーションが雑誌とゾッキ本にとって変わる?!!
■読書は絶対に必要
渡邊昇一先生の、「知的生活の方法」「続 知的生活の方法」は、両方とも読んだことがあります。まだ、インターネットなど普及していないときの書籍ですが、今でも読み返すと参考になることがあります。
私が、この書籍をはじめて手にしたのは、この書籍が出版されてから、10年以上経過していた、高校か、大学の頃だったと思います。この時代は、かなり本を読み、様々な人の考えを知り、かなり影響を受けましたが、この書籍もその中の一つです。そのとき、思ったのは、自分がもし、この書籍をもっと早く手にとっていれば、自分の考え方も相当変わったのではないかと思い、残念に感じたものです。
また、先生がこの著書を書かれるきっかけともなった、確か、イギリスの文化人のことが掲載されていたと思いますが、この人の著書も、読もう読もうと思って、今だに読んでいない自分がなさけなくもあります。
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渡邊昇一先生 |
渡邊先生のおっしゃる、知的生活とは、著書の中から引用させていただくと以下のようになります。
『頭の回転を活発にし、オリジナルな発想を楽しむ生活のことです。日常生活のさわがしさのなかで、自分の時間をつくり、データを整理し、それをオリジナルな発想に結びつけてゆくには、どんな方法が可能か?読書の技術、カードの使い方、書斎の整え方、散歩の効用、通勤時間の利用法、ワインの飲み方、そして結婚生活……。本書には、平均的日本人に実現可能な、さまざまなヒントとアイデアが、先生自身の体験を通して、ふんだんに示されています。知的生活とは、なによりも内面の充実を求める生活なのです。
知的正直――英語には、「知的正直(インテレクチュアル・オネスティ)」という言葉があります。知的正直というのは簡単に言えば、わからないのにわかったふりをしない、ということにつきるにのです。ほんとうにわかったつもりでいたのに、それがまちがいだった、ということはあります。それはあてずっぽうのまちがいとは違うから、そういうまちがいなら、まちがうたびに確実に進歩します。しかし傍から見ていたのでは、あてずっぽうでまちがえたのか、ほんとうにそうだと確信しながらまちがったのか、その辺の区別はつかないのです。その区別がつくのは、自分だけということになります。そこで「己れに対して忠実なれ」という、シェイクスピアの忠告が生きてくるのです』。
私がこの書籍で特に印象深かったことといえば、情報収集魔のような青年の話です。あの時代ですから、情報源が限られていますが、そうした中にあって、とにかく、ありとあらゆる情報を集めて整理してあり、その努力の有様は尋常ではありませんでした。しかし、その青年は勘違いしていて、結局努力して集めている情報が何の役にもたっていないという話です。
その頃は、情報を集めること自体が大変な時代だったと思います。なにせ、初版は、1976年ですから、インターネットはおろか、パソコン通信すらなかった時代です。とはいいながら、都内の各省庁や、図書館などを歩き回れば、結構の情報が手に入れることはできました。しかし、都内に在住していなければ、なかなか情報は手に入りませんでした。地方都市などにいれば、手に入る情報など、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、伝聞などによるものだけに限定されていて絶望的といっても良いくらいの状況だったと思います。だから、そのころは、東京などの大都市に住むということは、それだけでも価値あることだったと思います。
そんな時代を背景としながらも、渡邊先生のこの著書で主張されていることは、納得できるところが多く、特に「知的正直」という言葉には感銘を受けました。そうして、この書籍を読んで思うには、私たちは、この時代からみればはるかに情報を収集するには、良い環境にあることは、間違いないのに、この時代の人々と比較して、私たちは、知的なのか、あるいは、創造的なのかと思ってしまいます。現在のこのような書籍といえば、どうしても、技術的なことが優先させるきらいがありますが、そういった中で、この書籍は、そのような書籍からは一線を画した、基本的なものの考え方を示唆しているということで、今でも参考になり、私の座右の書であることは今でも変わりありません。
さて、『知的生活の方法』の話がつい懐かしく長くなってしまいましたが、そろそろ、本題に入ります。
上の記事の作者は、いずれ掲載することとは思いますが、上を見ていて、結局『ウェブは読書のかわりに「なる」「ならない」』という結論を出しています。私もそう思います。確かに、ウェブ上の情報は、たとえば、何かを体系的に学びたいと思った場合には、あまり役に立ちません。たとえば、マクロ経済学を学ぼうとして、Webの情報だけみていたら、とんでもないことになると思います。特に、日本国内だと、政治家や、マスコミなどとても、マクロ経済などまともにわかってっていとは思えませんし、日本の学者には、経済学者を名乗りながら、全くマクロ経済などと関係ない者も多いですから、きっと、読めば読むほど、わけがわからなくなるでしょう。
そんなときには、やはりまともな、「マクロ経済学」の書籍を一冊購入して、ゆっくり読むのが一番良いことだと思います。これが、頭に入っている状態で、Webの情報を見れば、その情報が意味していることや、マクロ経済的には、正しいのか、間違いかも良く理解できるはずです。
私は、このようなテキストで定評のあるものを一度読んでみる価値は十分あると思います。日本では、残念ながら、経済に関しては、高校までは、「政治経済」として多少は教えるのですが、それは、あくまで多少の範囲なので、マクロ経済の意味するところまではあまり教えていません。
だから、もし、経済に興味がある人で、経済学部(それもまともなところであり○経などは論外)などにいかなかった人は、是非一度政界的に定評のあるものを読んでみるべきと思います。そうして、細かなことは忘れても良いですが、経済のマクロ的な見方と、ミクロ的な見方の違いは知っておくべきと思います。
この違いを知った上で、Web上の経済記事を読めば、その意味するとこはかなり理解できるようになると思います。あの、ノーベル経済学賞を受賞したボール・クルーグマン氏は、「マクロ経済学への批判は、多いが、今でも、もちろんマクロ経済学で教えるところは、現実の経済にあてはまっているし、これを適用できることはたくさんある」としています。「一番困るのは、医学上の問題に関しては、テレビ番組などでも、医師を登場させ、専門的見解もなからず視聴者に提供するにもかかわらず、経済はそうではないことだ」としています。
そうして、「何かわけのわからない人が大勢登場して、ミクロ経済の話を述べていたかと思うと、突然その内容をマクロ経済の話に転 992;して、はちゃめちゃな論議をしたりするのに、それがとがめられることもなく、そのまま放映されてしまう」と嘆いていました。この話で、最近思い出すのが、IMFの女性理事長です。
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IMF専務理事ラガルド仏経済相 |
IMFで、女性が専務理事になるのは、初めてのことだそうです。このラガルド専務理事を、ニュースゼロのコメンテーターがインタービューしたときに、この専務理事はとんでもないことをアドバイスしていました。「日本は、当座の苦しみにたえ増税すべき」などと答えていて、それに大して、コメンテーターも何も突っ込みも入れていませんでした。本当に愚かだと思います。クルーグマンなら、このようなアドバイスは絶対にしないことでしょう。なぜなら、マクロ経済におけるデフレの対処の基本の基本は、「財政出動と、金融緩和」の二本柱だからです。そうして、日本には、対外的に借金はないどころか、多額の貸付を行っているからです。明らかに、間違ったアドバイスです。クルーグマンのようなまともな経済学者ならとてもできないアドバイスです。
このようなアドバイスをする経済相は、一体フランス国内ではどのような経済対策を行うのでしょうか?本当に理解しがたいです。最近、EUは、ギリシャや、スペイン、イタリアなどの財政問題で、困難な局面にあたっています。このような経済相のフランスも先行きは危ういのではないかと思ってしまいます。金融危機にあっても、ほとんどその影響を受けなかったカナダ首相のほうが、余程経済通です。ちなみに、菅さんが総理大臣だったとにきに、カナダでG20が開催されました。そのときに、主催国として各国に
財政再建をすべきという要請を出しています。ただし、その中で、日本は特殊事情があるので、例外とされていました。
無論、これは、カナダ首相が、日本は、カナダと同様に、国債を購入がほとんど国内で賄われていること、しかも、日本は世界最大の金融資産を他国に貸し付けている国であること、そうして、デフレの最中にあることを考慮したものです。マクロ経済を知り、日本の特殊事情を知っていれば、こうなるのは、当たり前です。
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カナダといえば、美人政治家の写真がフォトショップで修正されて掲載という事件ありしまた |
日本国外でもこの有様です。日本国内はもっと酷いです。民主党の閣僚など全員マクロ経済など全くわかりません。こと経済に関しては、案愚と行っても良い程度です。それに、マスコミも酷いものです。それに、政府の御用学者たちも酷いものです。まさに、日本は、クルーグマンが言っていたような、経済音痴の集まりのような国です。これらの人は、おそらく、ウエブや、あるいは、それに近いようような断片的な情報にしかあたっていないのだと思います。
このような愚かな人にならないためにも、やはり、一冊まともなマクロ経済に関する書籍は、一冊、できれば、数冊読んでおく必要があります。だから、読書は絶対に必要です。ネットのフローの情報だけではかえって、混乱してしまいます。これは、たまたま経済の分野の例をあげたのですが、他の事例でも同じことと思います。自分の専門分野は、もとより、議論などするときに、ある程度専門的なところに踏み込まざるをえないような場合、それに関するまともな書籍や、定評のある解説書(特にその分野が社会にどのような影響を与える可能性があるかを解説したもの)など少なくとも1冊や、できれば、数冊くらい読まないで議論すれば、まともなことは話せません。断片的なことや、ただの四迷いごとをいい、多くの人を惑わすだけになります。
■キュレーションが雑誌と、ゾッキ本を駆逐する!!
それから、キュレーションのことに話を移しますが、最近ネットで良くキュレーションという言葉が飛び飼っています。キュレーションとは、「キュレーション」とは、昨年ごろからよく使われるようになった言葉です。もともとは博物館や美術館の学芸員を「キュレーター」と呼ぶところから、ある視点のもとで「情報を収集、分類し、共有する」ことをキュレーションというようになったようです。失礼ながら、ひところ、学芸員など、私自身は、全くかび臭く世界で一番なりたくない職業であるなどと、思っていたことがありますが、たとえば、ニューヨーク博物館のキュレーターなど次々と新しい企画を立案し、お客をたくさん集客しているなどのことを知り認識を改めました。
この背景としては、インターネットに無秩序に爆発的に増大していく情報の流通があります。ニュースサイトや個人のブログ、ツイッターのつぶやきなど、日々流れる情報やニュースを、個人がバラバラに検索して探すのではなく、まとめて一覧で見たい、あるいは自分なりのまとめを見せたい、というニーズの高まりが、キュレーションが注目される背景にあります。
インターネット上の情報をまとめて見せる場としては、以前から「2ちゃんねる」のまとめや「はてなブックマーク」などがありましたが、最近ではNAVER社の「NAVERまとめ」が話題になっています。あるテーマにそった情報を個人がインターネット上で集め、リンク集を簡単に作れるようになっています。例えばその時々のニュースに関するリンク集は、その情報を探しているユーザーにとっては便利であり、1次情報ではなくても有益なコンテンツとなります。つまり、インターネット上で何らかの情報発信をしたい個人にとって、ハードルの高いホームページやブログを運営しなくても、手軽に情報発信することができるのです。「NAVERまとめ」では個人が広告収入を得られる仕組みにもなっていいます。しかし、利用者が増大しているところを見ると、たとえ金銭的収入がなくても、キュレートすること自体が個人の自己表現欲求を十分に満たしているのではないかと考えられます。
考えてみると、書籍だって、すべてがオリジナルの新しいコンテンツを含んでいるものなど、珍しいくらいです。既存の諸説だって、ごく一部を除いては、大部分がキュレーションの産物であると考えられます。雑誌などもその典型です。
そうなると、ウエブでのキュレーションがどんどん行われるようになれば、既存のキュレーションとしての、書籍や、雑誌は廃れる運命にあると思います。このキュレーション効果は絶大です。たとえば、iPadアプリとして、「Flipboard」というものがありますが、これは、twitterや、facebookの内容など、画像を含めた、ビジュアル系の雑誌のように掲示します。それだけなのですが、それでも、従来の見せ方とは異なるため、まるで、自分専用の雑誌のような感じで、これらを見ることができます。掲載される情報も、種々様々ですが、それを提供するのは、自分のフォロワーや、友達ということなので、自分が全く興味のわかないようなことはほとんどないです。
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flipboardを読む女性 |
機械的にキュレーションしただけでも、このような効果が生まれるわけですから、さらに、内容まで、キュレーションするようになったら、とてつもないことかおきそうです。キュレーションでも、それになりに価値のあるキュレーションなら書籍でも、雑誌でも売れるでしょうが、ゾッキ本や、雑誌でも、キュレーションの質の低いものは、売れなくなっていくと思います。
サイトで様々な事柄に関す、キュレーションが無料もしくは、有料であっても、自分にとって有用なものであれば、出し惜しみせずに、利用するユーザーはいくらでもいると思います。また、自分がある特定分野に詳しいとか、興味を持っていれば、そういう人がキュレーションをするようになります。そうなれば、既存の雑誌や、書籍など、しっかりとしたコンセプトにもとづいて、それなりの価値を主張できないものは残ることができないと思います。そう、思うのは、私だけでしょうか?これはいずれ、書籍や雑誌だけではなく、映像、音楽でも同じようなことがおこるに違いありません。
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