2011年11月28日月曜日

「家政婦のミタ」の視聴率がキムタクをあっさり抜き去ったわけ - マーケットが見える!人のココロをつかむセオリー―【私の論評】新たなストーリーとコンテクストによる父性と日本こそが、時代感覚にあっている?!



「家政婦のミタ」の視聴率がキムタクをあっさり抜き去ったわけ - マーケットが見える!人のココロをつかむセオリー:(ダイヤモンド・オンライン)


家政婦のミタより
「南極大陸」「家政婦のミタ」という二つのドラマの視聴率の“明暗”を分けた原因は何か。話題のマーケティング企業CEOである藤田康人氏が、世相と視聴者の指向変化からマスメディアの転換期を検証します。

さて、詳細は、ダイヤモンド・オンラインを御覧いただくものとして、結論部分がなければ、論評しようもないので、以下に掲載しておきます。
閉塞感が強く、政治も経済も混迷を極める今の日本においては、夢と希望を熱く語るドラマである「南極大陸」よりも、自分の身近にも起こりそうな、リアリティがあり、かつセンセーショナルなテーマを扱った「家政婦のミタ」のほうが多くの人々の興味関心を引き付けているのです。 
とくに今の若い世代は、高度成長時代やバブル期の日本が熱気にあふれていた時代を経験することなく成長してきました。そんな彼らにとっては、将来への夢を熱く語る「南極大陸」の主人公たちの姿が、もしかしたら、非現実的で嘘っぽく見えてしまうのかもしれません。
それよりも不倫、自殺、いじめなどある意味“どぎつい”テーマに正面から取り組み、ターミネーターのようにクールな松嶋が演じる「家政婦のミタ」のキワモノ感が、この時代にはフィットしているのでしょう。 
価値観が多様化した現代社会においては、以前のような統一的なマス文化が形成されにくく、マスメディアに頼ることなく、個人がいつでも自分の必要な情報を得ることができるようになった結果、多くの人々が一つの話題を共有するのはかえって難しくなりました。 
デジタルマーケティングの時代を迎えて、新しいメディアや、テクノロジー、デバイス(情報機器)の登場が話題に上ることが多い最近のマーケティングの業界でも、やはり人の心を動かすのは時代の感覚に合ったストーリーと、コンテクスト(文脈)を持ったコンテンツであることが改めて見直されてきています。 
そのコンテクスト(文脈)とは何なのか? どうしたらそれを見つけられるのか?

【私の論評】新たなストーリーとコンテクストによる父性と日本こそが、時代感覚にあっている?!

南極大陸をみていて、非常に違和感を覚えるのは、私だけでしょうか?このドラマを見ていて、いわゆる韓国くささを感じてしまうのは、私だけでしょうか?時代背景からいって、絶対にありえないことが、このドラマにはあります。このドラマの舞台となっているのは、昭和30年代の日本です。戦争には、負けたとはいえ、まだまだ、戦中や戦前の価値観が幅を利かせていた時代です。


この時代の男たちの価値観として、多少のことがあったとしても、人前で、完全オープンに感情を出しまくり、泣いたり、わめいたりはしないということです。上の記事でも、非現実的で嘘っぽく見えてしまうという部分は、このあたりではないかと思います。

とにかく、「南極大陸」では、感情の浮き沈みが激しく、まるで、韓国ドラマの主人公のような男たちばかりです。現実には、あのようなことはなかったでしょう。随分前に、高倉健さん主演の歴史上の事実としては、同じ背景の「南極物語」という映画がありましたが、あの映画での高倉健さんは、ドラマの中で、ひたすら耐えていて、涙を流すとか、激昂して叫ぶなどということありませんでした。最後の最後で生き残ったタロとジロに対面した時には、さすがに感極まって涙ぐむシーンは、ありましたが、あくまでも涙ぐむというものでした。

ただし、心の綾を示すようなシーンはいくつかありました。それが、共感を呼べるものだったと思います。私は、最近の日本人は、日本人らしくなく、ニッポン人とも呼びたくなる人も多く、それこそ、現実世界においては、「南極大陸」にでてくる、男たちと同じように、過酷な環境において、泣いてしまったり、激昂したりということはあると思います。

しかし、価値観としては、未だに、完璧に我を忘れて、感情の赴くままは、激昂したり、人前を全くはばからず、ワンワン泣いたりという所業は、なじまないものだと思います。しかしながら、現実世界と、理想とには、落差というものがあります。テレビの世界の中まで、現実世界と似た同じ世界になってしまえば、テレビの中の虚構の世界の価値も落ちていまうのではないかと思います。だから、あのドラマ、どうしても作り物、作為的なものに見えてしまうのだと思います。


そうして、どんなときでも、泣きっ面はみせず、もくもくと勤めを果たすという、寡黙な高倉健さんのようなキャラクター、これすなわち、今ではすっかり、姿を消してしまったようにもみえる、"父性"ともいえるものではないかと思います。

"父性"といえば、以前のこのブログに掲載した「家政婦のミタ」で、あのドラマは"父性"のクライシス描いていると掲載しました。詳細は、その内容をみていただくものとして、私は、NHKの朝連ドラの「カーネーション」との対比で、以下のような結論を掲載しています。
最近では、そのこと(父性の権威)がさっぱり理解できない、未熟な大人になりきれていない大人が増えています。この二つのドラマは、アプローチは違いますが、こうしたことに対する警鐘でもあると思います。特に、「家政婦のミタ」のほうは、松嶋奈々子のようなキャラクターを登場させることにより、友達関係である親子がいかに危険で異様でグロテスクなものかを、説教じみた演出で提示するのではなく、誰にでも直感的に理解できる独自の手法で、明確に提示できたということで、秀逸だと思います。
今の日本、確かに"母性"に関しても欠如している面がありますが、、"父性"のほうは危機的なくらい欠如していると思います。欠如しているからこそ、こうしたものへの憧れや、ノスタルジーを感じるのが、今の時代感覚なのではないかと思います。そうして、「家政婦のミタ」では、その"父性"のクライシスが、誰でも身近に思えるような斬新な手法をとっています。だからこそ、"父性"のかけらも感じさせない、男たちが、泣き叫び、何のてらいもなく、人前で涙を流す「南極大陸」は、製作に巨費を投じ、有名キャラクターを配置しても、「家政婦のミタ」に及ばないのだと思います。

それから"父性"というと、今の日本人にとっては、何か縁遠いかけ離れたもののようにみえますが、あのカーネーションでは、主人公の父親が、ある意味、だらしなく、小心者で、理不尽で、本当に商売の才覚のない、一介の小市民なのですが、時代背景もあって、何とか、"父性"の権威をたもっていて、人々に安心観を与えるのだと思います。あの親父ができるなら、自分のだんなもできると、朝ドラを見る、家庭の主婦にも安心感を与えているのだと思います。


私は、このことを考え合わせると、時代のストーリーのキーワードは、「父性」と「日本」なのではないかと思います。ただし、「父性」だからといって、押し付けがましくただ単純に昔の融通のきかない頑固親父を表現するのではなく、創意工夫が必要なのだと思います。それが、時代が求めている、ストーリーとコンテクストなのだと思います。さて、上の記事には、続きがあるようですが、これについて、どのような結論を出すのでしょうか?結論がでたら、また、このブログに掲載して、私なりの分析をしてみたいと思います。

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2011年11月27日日曜日

ウェブばかり見ていることは読書のかわりになるか?―【私の論評】キュレーションが雑誌とゾッキ本にとって変わる?!!

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ウェブばかり見ていることは読書のかわりになるか?:(lifhacking.jpより)
Intellectual life

この連載のテーマは「知的生活」です。間違えてはいけないのは、これは「学問ばかりする生活」というわけでも「高尚なことだけする生活」ではないという点です。

私がこの言葉に触れたのは、渡部昇一氏の「続・知的生活の方法」(現在絶版?)を読んだのがきっかけでした。35年ほど前に書かれた本書はベストセラーとなった前著「知的生活の方法」とともに、オリジナルな発想を楽しむ生活について具体的で示唆に富む内容になっています。

まだパーソナルコンピュータ革命前夜に書かれた本と言うこともあって、ここで書かれているのは簡単にいえば、1. 書籍をたくさん読み、オリジナルな発想を育むのが「知的生活」、2. そのために時間・場所・金銭的な自由をいかに確保するか?、この2点です。

当時40代だった渡部氏が、学者として安定した頃にのびのびと書いたのではないかという軽やかさが文章にはあって、憧れのおもむくままに本を読みたい! もっと学びたい! という生活を実現させることが「知的生活」なのだというメッセージが私にはとても魅力的でした。

ブログ管理人挿入画像
ところで、「クラウド時代」の今この二つの点のうち最初の点、「読書」はどうなるのでしょう? 本を読む価値はいまでもいささかも減じていないと思いますが、それでも大量に存在するウェブの情報を読むのに忙しくてなかなか本まで手が回らないという人も多いのではないでしょうか?

実際、ウェブばかり見ていることは、読書のかわりになるのでしょうか?

  ウェブは読書のかわりに「なる」

本を書くようになって感じるのは、本は常に動いている世の中に対するその時点でのスナップショットでしかないという点です。特に技術書はこの傾向が強いのはいうまでもないでしょう。先日刊行した「できるポケット Google+」は印刷所に入る日まで修正が行われましたが、それでもGoogle+ページが登場して早くも現実とはずれが生じ始めています。

書籍になるよりも速く、世界のニュースや新しい情報についていち早く伝えているのはニュースサイトであったりブログであったりします。しかも、芸術についてなら画像や動画もふくめて紹介することができますので書籍よりも当を得た解説ができることも見逃せません(電子書籍がんばれー [棒読み])。

少なくとも以下については信頼できるチャンネルを RSS などで構築しておく意味はあるわけです。

  • 最新のニュースに対する評価や評論を下せるサイトを複数。できれば対立的な視点で紹介してくれるとなおよし

  • 最新の音楽、アートシーンなどについて紹介してくれるサイト、ブログのなかから、自分にとって気になるものをピックアップ

  • 日常で一番使うツールなどのアップデート情報を仕入れることができるブログ。自分が探さなくても、その人をフォローすればOK、というもの

この3つについては、もはや書籍どころか雑誌さえもいらないことが多いわけで、週末の2時間くらいをかけてこの方面で RSS を増強しておけば、何十時間という新聞・雑誌・書籍で手に入れる情報をウェブで代替できます。

ブログ管理人挿入画像

こんなこと、このページを読んでいる人には言うまでもないですね。でも残りがあるのです。

ウェブは読書のかわりに「ならない」


もちろんウェブで読めないものもあります。小説がそうですし、多くの漫画もそうですし、過去の書籍も膨大な価値をたたえてページが開かれるのを待っています。

でもそれ以上に、「ウェブには書かれない」内容があります。たとえば、いしたにまさきさんの「ネットで成功しているのは〈やめない人たち〉である」の文体は、いつも読んでいるみたいもん!とよく似ていますが、あきらかに書籍だからこそ触れた内容、題材が大量に含まれます。ブログを読んでいたからといって、書籍の結論にはたどり着かないのです。

これは自分で本を作るようになってよく理解できるようになったのですが、こうしてブログ記事として書いている文章と、本にするときでは意識がとても異なります。

ブログは自分のサイトなので、読者に読んでいただいているという意識は共通しているのですが我が家というか、テーマの選び方や文体で多少わがままに振る舞えます。書籍では一般的な読者を相手にするので表現の角がとれますし、しかも分量や話題のバランスを常に配慮します。バランスがとれていないと、編集からツッコミがくるわけです。

この二つの差に、実は価値がある


最近よく意識するのが、このブログと書籍との間にとても価値の高い領域があるという点です。ここはブログですので、あまり学問的な厳密さなど気にせずえいやっと図化すると、こんな感じです。

Media

特定のクラスターにむけて書いた速報性の高いメディアを仮にブログとすると、書籍はその反対側、一般的な読者にむけてもうすこし長い時間スケールでの内容をまとめます。この「書籍にしかかけないもの」を「永続性」と仮にしておきましょう。

すると、一般的で速報性の高い「ニュース」の反対側、特定読者にむけた永続性の高い論評の部分が空欄になります。実はここに、大きな価値があるのです。

ここには、ブログの側と書籍の側のどちらからでもアプローチできます。速報的な記事のなかに10年先の未来を予見することを書く人、あるいは、まだ自分でそのニーズを意識していない読者を開拓する書籍、両方ともいつまでも読んでいたいものですし、自分で書きたいといつも思っているものです。

ウェブは読書のかわりに「なる」「ならない」という質問は実は「ウェブ」と「書籍」のどちらが優位かという話ではなくて、どちらにおいても一番の価値のあるものはその媒体の境界を越えてゆくものだろいうことなのではないかというわけです。

そしてどんなブログや書籍が「越えた」ものかは、両方にアンテナをはっていないとわかりません。ウェブのコンテンツは書籍という背景を前提にしていることが多いですし、書籍は常にウェブの影に追いつけているとは限らないわけです。

そこで、もうちょっと連載が続いたら、このバランスについても具体的なことを書いていきたいと思います。いずれ、「本やウェブをよむことばかりが知的生活ではない」というあたりにも行き着くはずです。

とりあえずは、ウェブで読むものと書籍で読むもの、それがこのマトリクスで相補的になっているものを探すことを意識することから始めてみましょう。

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Brain
この連載は渡部昇一氏の「知的生活の方法」に触発されてかいているものですので、連載のたびになにか書籍を紹介するのは妥当なことのように思えます。

その人の知的生活が本を中心にしているのであれ、舞台やコンサートに通うことが中心であるのであれ、それを表現しようと思ったら言葉にしなければいかず、どうしてもあたまを使う必要が出てきます。こればかりは仕方がありません。

「考える」というとその人の脳の性能しだいで努力せずに引き出せるものと思われがちですが、実はけっこうメンテナンスが必要だということを教えてくれるのが築山節氏の

脳が冴える15の習慣」です。すでにベストセラーなのでご存じのかたも多いと思います。

でも実はこの本、iOS アプリにもなっていて、こちらの方が若干安かったりします。この15の習慣は朝から晩までの一日に実践するべき場所が散らばっているので、いつでも取り出して読めるようにしておくのは便利です。

まだ手に取ったことがないという方は、ぜひ iOS アプリで読んでみてください。


【私の論評】キュレーションが雑誌とゾッキ本にとって変わる?!!

■読書は絶対に必要
渡邊昇一先生の、「知的生活の方法」「続 知的生活の方法」は、両方とも読んだことがあります。まだ、インターネットなど普及していないときの書籍ですが、今でも読み返すと参考になることがあります。  私が、この書籍をはじめて手にしたのは、この書籍が出版されてから、10年以上経過していた、高校か、大学の頃だったと思います。この時代は、かなり本を読み、様々な人の考えを知り、かなり影響を受けましたが、この書籍もその中の一つです。そのとき、思ったのは、自分がもし、この書籍をもっと早く手にとっていれば、自分の考え方も相当変わったのではないかと思い、残念に感じたものです。  また、先生がこの著書を書かれるきっかけともなった、確か、イギリスの文化人のことが掲載されていたと思いますが、この人の著書も、読もう読もうと思って、今だに読んでいない自分がなさけなくもあります。

渡邊昇一先生
渡邊先生のおっしゃる、知的生活とは、著書の中から引用させていただくと以下のようになります。

『頭の回転を活発にし、オリジナルな発想を楽しむ生活のことです。日常生活のさわがしさのなかで、自分の時間をつくり、データを整理し、それをオリジナルな発想に結びつけてゆくには、どんな方法が可能か?読書の技術、カードの使い方、書斎の整え方、散歩の効用、通勤時間の利用法、ワインの飲み方、そして結婚生活……。本書には、平均的日本人に実現可能な、さまざまなヒントとアイデアが、先生自身の体験を通して、ふんだんに示されています。知的生活とは、なによりも内面の充実を求める生活なのです。

 知的正直――英語には、「知的正直(インテレクチュアル・オネスティ)」という言葉があります。知的正直というのは簡単に言えば、わからないのにわかったふりをしない、ということにつきるにのです。ほんとうにわかったつもりでいたのに、それがまちがいだった、ということはあります。それはあてずっぽうのまちがいとは違うから、そういうまちがいなら、まちがうたびに確実に進歩します。しかし傍から見ていたのでは、あてずっぽうでまちがえたのか、ほんとうにそうだと確信しながらまちがったのか、その辺の区別はつかないのです。その区別がつくのは、自分だけということになります。そこで「己れに対して忠実なれ」という、シェイクスピアの忠告が生きてくるのです』。

私がこの書籍で特に印象深かったことといえば、情報収集魔のような青年の話です。あの時代ですから、情報源が限られていますが、そうした中にあって、とにかく、ありとあらゆる情報を集めて整理してあり、その努力の有様は尋常ではありませんでした。しかし、その青年は勘違いしていて、結局努力して集めている情報が何の役にもたっていないという話です。

その頃は、情報を集めること自体が大変な時代だったと思います。なにせ、初版は、1976年ですから、インターネットはおろか、パソコン通信すらなかった時代です。とはいいながら、都内の各省庁や、図書館などを歩き回れば、結構の情報が手に入れることはできました。しかし、都内に在住していなければ、なかなか情報は手に入りませんでした。地方都市などにいれば、手に入る情報など、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、伝聞などによるものだけに限定されていて絶望的といっても良いくらいの状況だったと思います。だから、そのころは、東京などの大都市に住むということは、それだけでも価値あることだったと思います。

そんな時代を背景としながらも、渡邊先生のこの著書で主張されていることは、納得できるところが多く、特に「知的正直」という言葉には感銘を受けました。そうして、この書籍を読んで思うには、私たちは、この時代からみればはるかに情報を収集するには、良い環境にあることは、間違いないのに、この時代の人々と比較して、私たちは、知的なのか、あるいは、創造的なのかと思ってしまいます。現在のこのような書籍といえば、どうしても、技術的なことが優先させるきらいがありますが、そういった中で、この書籍は、そのような書籍からは一線を画した、基本的なものの考え方を示唆しているということで、今でも参考になり、私の座右の書であることは今でも変わりありません。

さて、『知的生活の方法』の話がつい懐かしく長くなってしまいましたが、そろそろ、本題に入ります。

上の記事の作者は、いずれ掲載することとは思いますが、上を見ていて、結局『ウェブは読書のかわりに「なる」「ならない」』という結論を出しています。私もそう思います。確かに、ウェブ上の情報は、たとえば、何かを体系的に学びたいと思った場合には、あまり役に立ちません。たとえば、マクロ経済学を学ぼうとして、Webの情報だけみていたら、とんでもないことになると思います。特に、日本国内だと、政治家や、マスコミなどとても、マクロ経済などまともにわかってっていとは思えませんし、日本の学者には、経済学者を名乗りながら、全くマクロ経済などと関係ない者も多いですから、きっと、読めば読むほど、わけがわからなくなるでしょう。

そんなときには、やはりまともな、「マクロ経済学」の書籍を一冊購入して、ゆっくり読むのが一番良いことだと思います。これが、頭に入っている状態で、Webの情報を見れば、その情報が意味していることや、マクロ経済的には、正しいのか、間違いかも良く理解できるはずです。


私は、このようなテキストで定評のあるものを一度読んでみる価値は十分あると思います。日本では、残念ながら、経済に関しては、高校までは、「政治経済」として多少は教えるのですが、それは、あくまで多少の範囲なので、マクロ経済の意味するところまではあまり教えていません。

だから、もし、経済に興味がある人で、経済学部(それもまともなところであり○経などは論外)などにいかなかった人は、是非一度政界的に定評のあるものを読んでみるべきと思います。そうして、細かなことは忘れても良いですが、経済のマクロ的な見方と、ミクロ的な見方の違いは知っておくべきと思います。

この違いを知った上で、Web上の経済記事を読めば、その意味するとこはかなり理解できるようになると思います。あの、ノーベル経済学賞を受賞したボール・クルーグマン氏は、「マクロ経済学への批判は、多いが、今でも、もちろんマクロ経済学で教えるところは、現実の経済にあてはまっているし、これを適用できることはたくさんある」としています。「一番困るのは、医学上の問題に関しては、テレビ番組などでも、医師を登場させ、専門的見解もなからず視聴者に提供するにもかかわらず、経済はそうではないことだ」としています。

そうして、「何かわけのわからない人が大勢登場して、ミクロ経済の話を述べていたかと思うと、突然その内容をマクロ経済の話に転 992;して、はちゃめちゃな論議をしたりするのに、それがとがめられることもなく、そのまま放映されてしまう」と嘆いていました。この話で、最近思い出すのが、IMFの女性理事長です。

IMF専務理事ラガルド仏経済相
IMFで、女性が専務理事になるのは、初めてのことだそうです。このラガルド専務理事を、ニュースゼロのコメンテーターがインタービューしたときに、この専務理事はとんでもないことをアドバイスしていました。「日本は、当座の苦しみにたえ増税すべき」などと答えていて、それに大して、コメンテーターも何も突っ込みも入れていませんでした。本当に愚かだと思います。クルーグマンなら、このようなアドバイスは絶対にしないことでしょう。なぜなら、マクロ経済におけるデフレの対処の基本の基本は、「財政出動と、金融緩和」の二本柱だからです。そうして、日本には、対外的に借金はないどころか、多額の貸付を行っているからです。明らかに、間違ったアドバイスです。クルーグマンのようなまともな経済学者ならとてもできないアドバイスです。

このようなアドバイスをする経済相は、一体フランス国内ではどのような経済対策を行うのでしょうか?本当に理解しがたいです。最近、EUは、ギリシャや、スペイン、イタリアなどの財政問題で、困難な局面にあたっています。このような経済相のフランスも先行きは危ういのではないかと思ってしまいます。金融危機にあっても、ほとんどその影響を受けなかったカナダ首相のほうが、余程経済通です。ちなみに、菅さんが総理大臣だったとにきに、カナダでG20が開催されました。そのときに、主催国として各国に財政再建をすべきという要請を出しています。ただし、その中で、日本は特殊事情があるので、例外とされていました。

無論、これは、カナダ首相が、日本は、カナダと同様に、国債を購入がほとんど国内で賄われていること、しかも、日本は世界最大の金融資産を他国に貸し付けている国であること、そうして、デフレの最中にあることを考慮したものです。マクロ経済を知り、日本の特殊事情を知っていれば、こうなるのは、当たり前です。
カナダといえば、美人政治家の写真がフォトショップで修正されて掲載という事件ありしまた

日本国外でもこの有様です。日本国内はもっと酷いです。民主党の閣僚など全員マクロ経済など全くわかりません。こと経済に関しては、案愚と行っても良い程度です。それに、マスコミも酷いものです。それに、政府の御用学者たちも酷いものです。まさに、日本は、クルーグマンが言っていたような、経済音痴の集まりのような国です。これらの人は、おそらく、ウエブや、あるいは、それに近いようような断片的な情報にしかあたっていないのだと思います。

このような愚かな人にならないためにも、やはり、一冊まともなマクロ経済に関する書籍は、一冊、できれば、数冊読んでおく必要があります。だから、読書は絶対に必要です。ネットのフローの情報だけではかえって、混乱してしまいます。これは、たまたま経済の分野の例をあげたのですが、他の事例でも同じことと思います。自分の専門分野は、もとより、議論などするときに、ある程度専門的なところに踏み込まざるをえないような場合、それに関するまともな書籍や、定評のある解説書(特にその分野が社会にどのような影響を与える可能性があるかを解説したもの)など少なくとも1冊や、できれば、数冊くらい読まないで議論すれば、まともなことは話せません。断片的なことや、ただの四迷いごとをいい、多くの人を惑わすだけになります。

■キュレーションが雑誌と、ゾッキ本を駆逐する!!
それから、キュレーションのことに話を移しますが、最近ネットで良くキュレーションという言葉が飛び飼っています。キュレーションとは、「キュレーション」とは、昨年ごろからよく使われるようになった言葉です。もともとは博物館や美術館の学芸員を「キュレーター」と呼ぶところから、ある視点のもとで「情報を収集、分類し、共有する」ことをキュレーションというようになったようです。失礼ながら、ひところ、学芸員など、私自身は、全くかび臭く世界で一番なりたくない職業であるなどと、思っていたことがありますが、たとえば、ニューヨーク博物館のキュレーターなど次々と新しい企画を立案し、お客をたくさん集客しているなどのことを知り認識を改めました。

この背景としては、インターネットに無秩序に爆発的に増大していく情報の流通があります。ニュースサイトや個人のブログ、ツイッターのつぶやきなど、日々流れる情報やニュースを、個人がバラバラに検索して探すのではなく、まとめて一覧で見たい、あるいは自分なりのまとめを見せたい、というニーズの高まりが、キュレーションが注目される背景にあります。

インターネット上の情報をまとめて見せる場としては、以前から「2ちゃんねる」のまとめや「はてなブックマーク」などがありましたが、最近ではNAVER社の「NAVERまとめ」が話題になっています。あるテーマにそった情報を個人がインターネット上で集め、リンク集を簡単に作れるようになっています。例えばその時々のニュースに関するリンク集は、その情報を探しているユーザーにとっては便利であり、1次情報ではなくても有益なコンテンツとなります。つまり、インターネット上で何らかの情報発信をしたい個人にとって、ハードルの高いホームページやブログを運営しなくても、手軽に情報発信することができるのです。「NAVERまとめ」では個人が広告収入を得られる仕組みにもなっていいます。しかし、利用者が増大しているところを見ると、たとえ金銭的収入がなくても、キュレートすること自体が個人の自己表現欲求を十分に満たしているのではないかと考えられます。

考えてみると、書籍だって、すべてがオリジナルの新しいコンテンツを含んでいるものなど、珍しいくらいです。既存の諸説だって、ごく一部を除いては、大部分がキュレーションの産物であると考えられます。雑誌などもその典型です。

そうなると、ウエブでのキュレーションがどんどん行われるようになれば、既存のキュレーションとしての、書籍や、雑誌は廃れる運命にあると思います。このキュレーション効果は絶大です。たとえば、iPadアプリとして、「Flipboard」というものがありますが、これは、twitterや、facebookの内容など、画像を含めた、ビジュアル系の雑誌のように掲示します。それだけなのですが、それでも、従来の見せ方とは異なるため、まるで、自分専用の雑誌のような感じで、これらを見ることができます。掲載される情報も、種々様々ですが、それを提供するのは、自分のフォロワーや、友達ということなので、自分が全く興味のわかないようなことはほとんどないです。

flipboardを読む女性
機械的にキュレーションしただけでも、このような効果が生まれるわけですから、さらに、内容まで、キュレーションするようになったら、とてつもないことかおきそうです。キュレーションでも、それになりに価値のあるキュレーションなら書籍でも、雑誌でも売れるでしょうが、ゾッキ本や、雑誌でも、キュレーションの質の低いものは、売れなくなっていくと思います。

サイトで様々な事柄に関す、キュレーションが無料もしくは、有料であっても、自分にとって有用なものであれば、出し惜しみせずに、利用するユーザーはいくらでもいると思います。また、自分がある特定分野に詳しいとか、興味を持っていれば、そういう人がキュレーションをするようになります。そうなれば、既存の雑誌や、書籍など、しっかりとしたコンセプトにもとづいて、それなりの価値を主張できないものは残ることができないと思います。そう、思うのは、私だけでしょうか?これはいずれ、書籍や雑誌だけではなく、映像、音楽でも同じようなことがおこるに違いありません。

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2011年11月26日土曜日

2012年ソーシャルメディアにおける7つのトレンド ~2011年の振り返りとともに~―【私の論評】来年は、さらにソーシャル・メディアが加速する!!

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  2012年ソーシャルメディアにおける7つのトレンド ~2011年の振り返りとともに~:(INFOBAHNより)
年末になってくると、「来年の○○大予測」といったレポートをよく見かけますね。

今年も残すところ1か月ちょっとということで、ソシエタでもソーシャルメディアの1年間のトレンドを振り返りつつ、来年の動向について考察を加えていきたいと思います。

network


2011年ソーシャルメディアにおけるトレンド振り返り

2010年末に予想された2011年ソーシャルメディアのトレンドを振り返ってみましょう。アメリカのメディア、Social Media Explorerの予測を参考にしてみます。


2011年のソーシャルメディアにおける5つのトレンド

①消費者によるコンテンツキュレーション

②ロケーション系サービス

③ゲーミフィケーション、ソーシャルゲーム

④QRコード

⑤ソーシャル・コマース

①消費者によるコンテンツキュレーションは、例えば「NAVERまとめ」や「Togetter」が良い事例ではないでしょうか。TwitterやFacebookのように、ストリームで絶え間なく流れていく情報に対して、本当に価値のある情報をキュレーションすることの必要性が高まっている、というのは2011年のトレンドして確かにあったと思います。弊社代表の小林もコンテンツキュレーションのトレンドについて、現代ビジネスに寄稿しています。


【ブログ管理人注釈】キュレイターは、従来、博物館やその他の収集品を管理する職業(学芸員)を指す。ソーシャルメディアでは、キュレイターはインタレストグラフを管理する。関連するコンテンツをウェブで見つけ、まとめ、そして、共有することで、重要な情報を社会に蓄積していく。一方的に流される情報だけではな、ストックとしての有用な情報を創造するのが、キュレイターの役割である。
②ロケーション系サービスに関しては、foursquareやGowallaといったアプリによってチェックインすることが主流でしたが、2011年6月にリクルートのRecoCheckがロケーションベースのクーポン、口コミ情報の提供を開始したり、Facebookがロケーションベースのクーポンを開始した、ということもありましたね。Infobahnによる新作アプリ“digimo”も、詳細はもうすぐ明らかになりますが、ロケーション機能×ゲーミフィケーションを活用したアプリとなっています。乞うご期待!

ロケーション系サービス
【ブログ管理人注釈】ロケーション系サービスの例としては、大手量販店と提携し、リアルな店舗や商品にチェックインを行うことでポイントがたまり、クーポンや特別ギフトをもらえるアプリなどがある。アプリを起動したままリアル店舗に入店するだけでチェックインが可能で、Mahableなどの有名Techメディアで2011年を代表するアプリTop10に入るなど注目を浴びている。日本では、本年は、観光地でのロケーション系サービスなどが提供されるようになった。
③ゲーミフィケーションとソーシャルゲームは、いうまでもなく2011年の大きなトレンドとなりました。ソシエタでも、なぜマーケティングにゲーミフィケーションが必要か、その重要性を説明してきました。一方で、バッジやポイントをとりあえず付けてみる、失敗したゲーミフィケーションの事例も見られるようになってきた一年であったと感じています。


Google+に追加されたゲーム
④QRコードはどうでしょうか。早くからガラケーが発達していた日本においてはQRコードは目新しいものではない、と感じる人も多いでしょう。「QRってあれでしょ、白黒の模様を読み込むとサイトに飛べるってやつでしょ」というのが一般的な理解かもしれませんが、ここ最近見られるQRコードの活用に関しては、白黒の地味な模様とは限りませんし、サイトに飛ぶだけではなく表現の幅も非常に広いです。最近、ソシエタで紹介した、QRコードを活用して音声メッセージをクリスマスギフトに添付するプロモーションなどをみても、海外ではクリエイティブなQRコードの活用がトレンドになりつつある、といってよいでしょう。

QRコードを読みとることにより、プレゼンターのメッセージが聴ける

⑤ソーシャル・コマースは、2012年のトレンド予測でも挙げられているので、後ほどコメントします。


2012年ソーシャルメディアにおけるトレンド予測

アイルランドのメディア、Simply Zestyにて、2012年に現れてくるであろうトレンドが予測されています。


2012年のソーシャルメディアにおけるトレンド7つ

①テレビのソーシャル化

②デフォルトでソーシャルに

③ソーシャル・コマースの成長

④ブランドによるコンテンツを用いたプロモーション

⑤ソーシャル・サーチ(検索)の進歩

⑥タブレット普及による電子書籍の加速

⑦Facebookは依然として強い

②デフォルトでソーシャルに、④ブランドによるコンテンツを用いたプロモーション、⑥タブレット普及による電子書籍の加速、⑦Facebookは依然として強い、といったあたりは、現在の延長戦上に理解できる気がします。最近、mixiの利用者数の集計方法の変化により、国内SNSシェアにおけるFacebookの勢いが明らかになりましたが、この傾向は2012年度も続くと考えられます。

個人的にどうなるのか特に面白いと感じているのは、①テレビのソーシャル化、③ソーシャル・コマースの成長、⑤ソーシャル・サーチ(検索)の進歩あたりです。

まず、①テレビのソーシャル化は注目したいところです。現在、Huluの登場によりタブレット端末で映画をみる人が増えてきたり、スマートフォンで動画を視聴する機会が増えるなど、いままで別々だった端末の機能の境界線が曖昧になってきています。テレビのソーシャル化が、2012年内にどこまで普及しうるかはさておき、企業の顧客へのアプローチにインパクトを与えることは間違いないでしょう。このトレンドには注目していきたいと思います。

【ブログ管理人注釈】テレビのソーシャル化の事例としては、ニワンゴは、ソニーの液晶テレビ向けアプリ「アプリキャスト版ニコニコ実況アプリ」の提供を2011年6月下旬に開始したことがあげられる。
ニコニコ実況は放送中の番組に関する視聴者のつぶやきを、放送局別に表示するネットサービスである。今回提供するアプリは液晶テレビ「ブラビア」に搭載されている「アプリキャスト」向けで、2008年以降に発売されたアプリキャスト対応テレビを使って無料で利用できる。
アプリを使うと、テレビ番組の右側にニコニコ実況に投稿されたコメントが時系列に順次表示されていく。アプリはパソコンや携帯電話機から投稿されたコメントを表示するだけで、テレビからコメント投稿はできない。

次に、③ソーシャル・コマースです。2011年のトレンド予測にも入っていましたが、実際に多くの企業にてソーシャルコマースが導入されてきました。

コンサルティング会社Booz&Companyの報告書によると、ソーシャルコマースは2015年までにグローバルで300億ドルの市場規模になると予測されています。まだまだ発展途上ですが、昨年に引き続き注目していくべきトレンドだと考えます。


ソーシャル・コマースのイメージ

最後に、⑤ソーシャル・サーチ(検索)の進歩は、不確定な要素は多いものの注目すべき分野だと思います。Googleは+1ボタンやGoogle+の導入でソーシャルな情報を重視する姿勢をみせていますし、Twitterはソーシャル・サーチのスタートアップJulpanを買収しています。ソーシャル・サーチにおけるブレイクスルーは、ソーシャルメディア全体に大きな影響を与えうるため、2012年注目していきたい分野です。

【ブログ管理人注釈】ソーシャル・サーチに関する定義は、はっきりしていないが、ここでは「ソーシャルプラットフォームとの親和性が高い拡張機能を兼ね備え、そこから収集されるユーザー個人の属性情報を解析し、検索結果を個人別にカスタマイズする検索システム」とする。
以下に従来の検索システムと、ソーシャル・サーチの違いを掲載する。 
■従来の検索システム 

■ソーシャル・サーチ
 

この1年間だけでも大きな変化があったソーシャルメディアの状況ですが、2012年もワクワクするトレンドが多く今から楽しみです!


[Social Media Explorer]

[Simply Zesty]


Social Media Account Planners

大出卓史



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【私の論評】来年は、さらにソーシャル・メディアが加速する!!



■ソーシャルTV
年の瀬も迫っています。もう、上記のような記事が出回る頃になりました。私も、それを意識して
上の記事を掲載しました。私自身は、上に付け加えるほど、ソーシャル・メディアに詳しいわけではありませんが、やはり、気になるのは、ソーシャルTVの動きと、ソーシャル・コマースの進展です。

特に、アップルTVの動向は、注目だと思います。アップルTVでは、以下のような新しい動きがあります。私は、アップルのことですから、来年発売されるAppleTVは、何らかの形で、ソーシャル化が図られているのではと期待しています。

2012年式Apple TVはシャープ製のアモルファスTFTを採用

Apple TVが「2010年モデル」として値下げ販売中...まさかジョブズ遺産の「iTV」なる新製品の前触れ?



現在、テレビのソーシャル化は非常に遅れています。かつて、あのライブドアの経営者であった、堀江氏は、あのフジテレビの買収騒動の頃にテレビのソーシャル化に関して、テレビの中で実演していたことがあります。

そのテレビの中で、堀江氏は、テレビとパソコンを用意したセットの中で、「たとえば、テレビで放送をしている、その内容についての意見をあらかじめ、サイト上にテレビの視聴者が意見を述べられるようにしておく、さらにその意見についての他の意見などが述べられようにしていく、こんなことがまだできていない。いろいろなテレビ局にこのような、申し出をしても、どこも受けてくれなかった。だから、私は、テレビ会社を買収してこのようなことを実践していきたい」と述べていました。これは、とりもなおさず、テレビのソーシャル化だと思います。彼の犯罪などは全く別の次元の話しとして、この指摘そのものは正しかったと思います。

ホリエモンがフジテレビの株式を買収したときに

提携したときだ

フジテレビ社長のいやそうな顔

あれから、年月がたち、ある程度はこのようなことは、実現されていますが、現実には、テレビ報道は、まだまだ変わっていないというのが実情のようです。おそらく、テレビ局側には、そのような備えが未だできていないのだと思います。

視聴者から、多数の意見が寄せられて、その多くが公開され、公開された意見にまた意見がつくというソーシャルな現象にどう対応して良いのかわからないとのだと思います。しかし、私はいつまでも、このようなソーシャル化に対応できない既存テレビ局には将来がないと思っています。

いずれ、テレビは、インターネットと不可分に結びつき、既存のテレビ局以外が、様々なメディアが、テレビ番組をオンディマンドや、ライブで放映することになるでしょう。もう、その動きは、止められません。

そうして、テレビは番組放映と、視聴者、番組製作者、放送主体さらには、テレビ番組への支援者(従来のCMの提供会社など)が集まって評価をしたり、意見を交換するソーシャル・プラットフォームになると思います。そうして、これらは、従来のようなマスメディアではなく、もっと細分化された、ものになっていくと思います。

そうして、上記の記事の①消費者によるコンテンツキュレーションで掲載した、consumers、curators、creators、Eliteという区分が曖昧になっていくと思います。従来のテレビであれば、消費者はあくまで消費者であって、それより上の段階は、すべて放送局が担っていました。この構造は今でもそのままです。ところが、curatorsが放送する側の人間だげではなく、視聴者の中からもでてきているというのが、現状だと思います。

しかし、ソーシャルTVではその構造が崩れます。ソーシャルTVがただ、テレビを一方的に放送するのではなく、ソーシャル・プラットフォーム化すれば、プロの番組制作者だけではなく、一般ユーザーも意見を述べるにとどまるだけではなく、どのような番組が必要とされているのかとい情報や、コンテンツまで提供できるようになります。いまだと、iPhoneでも、高画質の動画を撮影できるわけですから、ユーザーの提供するコンテンツをYouTubeのように提供するだけではなく、様々なことが考えられようになります。編集なども、容易になりました。また、live配信も本当に容易になりました。

既存のテレビでは、これらを生かすことはできないでしょうが、ソーシャルTVなら、それが可能になります。また、従来のようなテレビや、映画のようなものも配信することも可能です。来年は、このようなテレビの可能性が多くの人々に認識される年となることでしょう。

■ソーシャルコマース

ソーシャルコマースとは、一言でいってしまえばソーシャルメディアを使って多く人々にコミュニケーションをとっていただき、購入するのを助ける小売業のことです。そういう意味では従来のEコマースサービスにTwitterやFacebook等からリンクを貼っただけのものから、forsquareを使ってリアルな店舗にご来店いただき商品を購入していただくものまで広く含まれるものと思います。

インターネットは情報を「空間」と「時間」を飛び越えさせる技術です。私たちは遠く世界のどこかで起きた出来事を即座に知ることができ、そしてそれに至った原因も、Googleで検索すれば過去に遡って知ることができます。昔は、夢のようなことでしたが、今ではこれが当たり前になりました。ただし、従来のインターネットは、情報を交換することが主たる目的で、コミュニケーションをすることは、副次的なものでした。だかこそ、インターネットの世界は、バーチャルな世界であり、リアルの社会とははっきり区分されていました。

コミュニケーションと情報は異なりますが両者は相互依存の関係にあります。情報とは形式であり単なる記号でもあります。記号はそれ自体には意味がなく、人がその記号に意味を与えてはじめて意味がうまれます。人がコミュニケーションを通して情報に「意味づけ」を行います。たとえば、ある会社が決算を発表したとします、これは情報に過ぎません。

決算の数字は単なる記号であり、それ自体には意味がありません。この数字が良いのか悪いのかを判断するのは情報の受け手です。そこでコミュニケーションが必要となります。コミュニケーションによって情報に「意味づけ」を行わなければならないのです。従来の、インターネットは、こうした意味づけは、副次的なものにすぎませんでした。

しかし、今では、そこにソーシャルが加わることにより、自分の友人や職場の同僚、時には憧れの有名人やスターと一緒になって「私はこう思う」と議論や意見を交わすことができるようになりました。

今では、ソーシャル・メディアにより、インターネットにより、「空間」と「時間」の概念を無くしながらも、そこにリアルタイムに「感情」が共有できるようになりました。そうして、多くの人がその情報に対してより共感しやすい環境、つまり、コミュニケーションがしやすい環境が整ったのです。

この「共感」によりモノの価値を何倍にもさせることができます。たとえば目の前に同じような、2枚のピザがあったとします。1枚がが2000円で、もう1枚が2500円だった場合、普通なら2000円の方を買うでしょう。



しかし、2500円のピザの方は東日本大震災に売上が全額寄付されるとしたらどうでしょう。2500円のピザを選ぶ人もきっと多くいることでしょう。

私たちは東日本大震災で何が起きたかを知っている。苦しんでいる人達の気持ちや、その人達の力になりたいという気持ちに共感できるからこそ2500円のをピザを選ぶのですソーシャルコマースは、こうした共感を呼ぶストーリーを伝え、人々の購入を助けることです。

たまたま、震災の例をあげましたが、それ以外にも、友人が「いいね!」や「+」をしていたから買ってみるとか、Twitter上で話題になっていたから買ってみたとか、そうしたソーシャルメディア上での共有体験がストーリーとなり、共感を呼び、モノの購入へと人を動かすのがソーシャルコマースです。

そして、そのストーリーはまたその友人から友人へとソーシャルメディアを介して国内や、世界中に伝わっていくことになります。

ソーシャル・メディアの登場により、インターネットの社会は、匿名から実名にかわり、リアルな友人関係や個人の趣味・関心が文書だけではなく、画像・動画・音声、さらには、リアルタイムでのそれなども交えて可視化されることでお互いの顔が見えるコミュニケーションがとれるようになりました。
そして、それを利用したソーシャルコマースがf-commerce(=facebook commerce)です。そうして、Google+によるソーシャル・コマースです。海外ではFacebookをはじめとしたソーシャルメディアとの連携により、売り手や買い手の顔が見えて、より共感を生みやすいソーシャルコマースサービスが次々と生まれています。日本でも、これからどんどん生まれていくと思います。そうして、来年は、おそらく、その姿がはっきりとしてきて、多くの人々に認識される年となることでしょう。

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2011年11月25日金曜日

Google+が企業向けSNSを制することができる5つの理由―【私の論評】水道の蛇口戦略はFacebookが先鞭をつけるか?


http://journal.mycom.co.jp/articles/2011/11/24/gogole/index.html

【私の論評】水道の蛇口戦略はFacebookが先鞭をつけるか?

さて、上の記事では、企業対象では、Google+が有利としています。私も、そう思いますし、それどころか、このままでは、個人ユースでも、Google+のほうが有利ではないかと思っているくらいです。

なぜなら、Google+には、サークル機能があるからです。これによって、Google+は、それこそ、Facebookのようにも使えるし、twitterのように使えるし、さらに、他の用途にもかなり使いやすくなっているからです。

しかし、ここにきて伏兵ともいえるような、思ってもみなかったたことをFacebookがやろうとしています。その内容を以下に掲載します。

世界最大のSNSフェースブックがスマートフォン「Buffy」の開発を計画している件で、1台あたりのコストが700ドルになる見込みだといいますが、無料で配布することが計画されているといいます。



米サイト、ビジネスインサイダーによると、事情を知るフェースブック幹部ら2人の談話として、より多くの人に手に取ってもらうことを最優先課題しているといいます。そのために、契約を無くす方法も模索されているのだといいます。

収益モデルは広告などを検討しているそうです。 1台あたりの製造コストなどを含めた総合コストは700ドルになるといい、決して安くはありません。アマゾンのキンドルファイアは210ドルと想定されるなど他社比較では割高となります。

製造に関しては、以前報道されたように台湾メーカーHTCの他に、韓国のサムスンも協力する見込みだといいいます。

こうなると、Facebooは、顧客に多数の自社に最適化した端末を所有してもらい、様々なことができるうよになるわけです。それも、かなり多くの顧客が所有することが予想できます。無論、キャリアと提携して、通信料からいくぶんかの手数料をもらうようになるのだと思います。

そうして、広告も掲載するのだと思います。そうなると、棲み分けができてくるかもしれません。個人ユースでの大多数は、Facebookを企業ユースの大部分は、Google+になるかもしれません。

それにしても、やはり、個人ユーザーが多くなければ、企業ユースだって、あまり役にはたたないです。 なにせ、たとえば、facebookや、Google+ページを作成したとしても、個人ユースのユーザーが多くいなければ、あまり意味がなくなるからです。 そうなると、facebookのほうが、これからは有利になるかもしれません。いや、Gooleだって負けていないと思います。



おそらく、ほぼ無料か、無料に近いGoogleフォンや、アンドロイド端末を出してくると思います。多くのユーザーがすでにパソコンを持っていることを利用して、以下のような製品を無料で配布するかもしれません。

 USBメモリ型、たった21グラムのAndroid端末「Cotton Candy」

こいつで、家で眠っているパソコンが最新アンドロイド端末に変身!!
とにかく、私が以前からこのブログで掲載してきた「水道の蛇口戦略(要するにユーザーに端末を無料もしくは、それに近い価格で提供する戦略のこと)」に対してFacebookが先鞭をつけることになりそうです。


そうして、これから、Facebookと、Google+そうして、わすれてはならないAppleの三つ巴のユーザー獲得競争が始まるのだと思います。今のところ、Facbookのスマホがどのようになっていくのか、さらには、GoogleやAppleの対抗措置はどうなるのかはっきりしませんが、この関連で何か動きがあれば、追跡して、掲載させていただきますので、よろしくお願いします。

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2011年11月24日木曜日

日本のネット社会は実名化するのか―【私の論評】いつまでも、匿名を前提としていては、身の丈にあった情報からは断絶されるだけ!!

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『facebook』の利用者が世界で8億人を超え、世界で3番目の人口を誇る“国家”となったことは記憶に新しい。

海外では「孫と会う為にfacebookが必要」と言われるほど、生活ツールの一部として根付いている同SNSは、日本での登録者数も1000万人を超えさらなる増加が確実視されている。

しかしながら『facebook』が日本ナンバー1のSNSとして今後君臨するのか否かについては否... 続きを読む

■著者データ

ガジェ通ウェブライター

ウェブサイト: http://getnews.jp/anews

TwitterID: anewsjp


【私の論評】いつまでも、匿名を前提としていては、身の丈にあった情報からは断絶されるだけ!!
上の記事での結論は以下のようなものです。


「日本のネット社会は実名化するのか、その答えは「Yes」である。

日本の“右にならえ”文化が、自分だけ実名化していない事に対する後ろめたさに繋げるからである。

しかし、日本の“匿名ネット文化”も決して廃れることはないだろう」

匿名ネット文化の象徴「2ch」
私もこの意見には概ね賛成です。ただし、上の記事では、「匿名ネット文化」も決して廃れることはないだろうとしていまが、ここは完璧には賛成しかねます。私は、廃れながらも、必要悪としして細々と存続し続けると見ています。右にならえというのもおかしな言い方だと思います。

それは、現実世界の、いわゆる闇の世界があるのと同じことだと思います。経済でいえば、アングラ経済があるのと同じだと思います。世の中には、さまざまな理由から、自分の素性を明かしたくない人が少なからず存在すると思います。現実世界でもそういう人たちは、全く名を名乗らないか、一部にしか明かしていないと思います。そういう人たちは、ネットであろうと、なかろうといつでも、匿名だと思います。

過去においては、たとえば、パソコン通信とか、インターネットも黎明期の時には、ネットなど一部の人のもので、何をするのも、ほんど実名でした。それで、別に不都合も何もありませんでした。それが、ネットの人口が中途半端に増えてくるに従い、日本では、なぜか匿名が当たり前のようになってきました。

しかし、これだけSNSが発達したり、当たり前に多くの人が使うようなれば、また、事情も異なってくると思います。そうです。ネットや、SNSが実社会と変わらないように使われくるようになれば、ネットでの書き込みも、また、自然の流れで、実名になるのが当然の成り行きのように思います。

実社会ではまずみなくなったOLの土下座
特に、ネットのみでの付き合いというのも、実社会の付き合いと同じどころか、こちらの方が多いくらいになってくれば、実名が前提になってくるのは当然のことと思います。その頃になれば、匿名サイトなど、実社会ではまずみなくなったOLの土下座のように稀有な存在になるかもしれません。

ちなみ、ネットでの匿名性について、このブログに以前も書いたことがありますので、それを以下に掲載しておきます。

どんな世界でも、それが、現実世界であろうと、バーチャルの世界であろうと、まともな付き合いをするのであれば、自分の素性や、考えや、嗜好など表にださなければ、できない事だと思います。それが、表に出ると困るというのなら、ソーシャルメディアは一切使うべきではありません。 
人とと関わっていく中で、自分と他の人との考えや趣味・嗜好が異なったり、相反するのは当たり前であって、それを避けて通っていては、もともと人間関係など構築できません。その違いを乗り越えて、妥協点を見出すというのが、人間関係というものです。どうしても、自己を偽らないと他者との付き合いが出来ない人は、すでに自分の精神が崩壊しているとみなすべきです。 
そうして、インターネットの匿名性が、日本で新たなイノベーションが起こらないことの背景にあるのではないかということも掲載しました。その内容を以下にコピペします。 
 日本のように、あまりに匿名性ばかりにこだわっていては、まともな付き合いもできないし、有用な情報も入ってこないということになります。それに、Facebookの中で行われているようなビジネスチャンスをつかむこともできないと思います。ビジネスチャンスまでいかなくても、SNSのなかにいろいろと転がっている機会など、受けることも提供することもできなくなります。そうして、ただのバーチャルワールドの中で時間つぶしにすぎなくなると思います。 
日本では、いわゆる技術的なイノベーションは世界トップクラスですが、社会的イノベーションについては今一歩というところがあります。だからこそ、最近では、日本ではアップルがひきおこしたようなな社会的イノベーションもあまり見かけなくなったのだと思います。私は、その原因の一つとして、上記のような匿名性による弊害もあるのではないかと危惧しています。
   
特に、最近では、このブログでもたびたび掲載してきた、ドラッカーの言葉でもある、「新しい技術は、自ら属する産業の外からやってくる」ということが、顕著になってきています。そうなると、SNSから入ってくる情報は、さらに重要性を増してくると思います。実社会や、SNSで親しくつきあっているさまざまな分野の人から、自分の身の丈にあった情報が入ってくる可能性が従来にも増して高まっています。

たとえば、自らが製薬業界に属していたとして、一昔前までは、製薬業界では、化学、生化学、薬学のことを知っていれば、知識としては十分でした、しかし、すでにこの分野での大きな成果が生物学特にバイオテクノロジーの分野からあがってくるようになりました。

これは、単にバイオテクノロジーに限らず、宇宙工学、医学、公衆衛生学の分野からも、製薬業に寄与する何か革新的な技術ができあがっててくるかもしれません。しかし製薬会社の役員や管理者がの、いつ製薬業に寄与する新技術がでてくるかもしないとして、すべての分野を学ぶわけにはいかないと思います。特に、全く専門外の分野に関しては、その分野の基本的なテキストなど読んでも、何も意味を持たないかもしれません。

そんなときに、SNSの中にそのような分野に詳しい人がいて、しかも、その人が自分のことを良く知っていて、自分にあわせた形で、新技術のことをわかりやすく解説して、しかも、自分の仕事とどうかかわりあってくるのかを教えてくれたら、これは、すばらしいことだと思います。また、自分の専門分野のことに関しては、SNSの中でも、同じ専門の人が専門家の立場で情報を交換できたら、その分野に関する一般の素人の人と話すよりは、よほど良いと思います。私は、このような情報を従来から身の丈にあった情報と呼んでいます。

今の世の中、新聞、テレビ、雑誌、書籍、インターネットと情報は、氾濫しています。しかし、いわゆる身の丈にあった情報は、意外に少ないです。自分の専門外のことを基本からさかのぼって、学べるような情報、あるいは、自分の専門分野の最先端の情報などは少ないです。そのような情報が入ってくる確率が高いのが、SNSです。
現代では、「身の丈にあった情報」が重要
今のところは、まだまだ黎明期の状態ではありますが、いずれ、SNSは、社会の中で重要な役割を担っていくと思います。私は、そうした中にあって、いつまでも完全匿名性を前提としていては、こうした身の丈にあった情報には出会えません。

そうして、このことを裏付けるような研究結果があります。

ミラノ大学の研究者と共同で行われた『Facebook』の調査で、これまで人々は「六次の隔たり」でつながっているとされてきたのに対し、Facebookユーザーの場合は「四次の隔たり」であることがわかった。 
「六次の隔たり」とは、人は自分の知り合いを6人以上介すると世界中の人々と間接的な知り合いになれるという仮説で、「多くの人数からなる世界」が「比較的少ない人数」を介して繋がるスモール・ワールド(世間は狭い)現象の一例とされる]Facebookがイタリアのミラノ大学の学術研究者と共同で行った調査で、一般の人々は「六次の隔たり」でつながっているとされてきたが、Facebookユーザーの場合は「四次の隔たり」でつながっていることがわかったのだ。
六次の隔たり
 これに関する詳細は、Wired.jpの『Facebookで「狭くなった」世界を実証』をご覧になってください。要するに、たとえば、オバマ大統領に何か直接伝えたいと思った場合、友達の友達の友達などをたどっていけは、6人目でオバマ大統領に到達するというものです。これが、facebookでは、4人で到達するというわけです。他のサイトで調べたところ、本当には4人より若干少なめの、正確には3.9人だそうです。

ちなみに、この調査を実施した時期には、Google+はあまり広まっていなかったそうです。無論、Google+でも、このような効果はすでにある程度あるだろうし、これからユーザーが増えるに従い、このような効果もfacebookと同じようにでてくると思います。

この結果、まさしく、私のいう「身の丈にあった情報」の交換に、SNSは効果があることを実証していると思います。いつまでも、匿名にこだわっている人は、このような「身の丈にあった情報」を交換する機会みすみすを失っているのではないかと思います。匿名ネット文化では、4次どころか、6次の隔たりよりも、さらに隔たりは大きいと思います。皆さんは、どう思われますか?

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2011年11月23日水曜日

【日本共産党 しんぶん赤旗】きょうの潮流―【私の論評】何を血迷っているのかさっぱり理解できないこの潮流?!!ネット上ではお笑いネタに過ぎない、この感性?



「男なら男らしくしろ」「女房、子どもを泣かすのか」。東京のある教師は、卒業式の「君が代」斉唱時に立てと強いる校長から、何度も脅されました。

胸中をかけ巡る怒り、無力感。ついに起き上がれなくなって入院しますが、医師にも迫られます。起立するか。辞めるか。相談にかけこんだ先が、精神科医の野田正彰さんです。野田さんのもとに、同様の相談が相次ぎました。

「君が代」の伴奏を強いられた音楽教師は、ストレスのあまり胃から出血し緊急入院。動脈の8カ所で止血を施すほどの重症でした。良心の自由と強制の間で苦しむ心の危機を、「君が代症候群」とよぶ野田さん。大阪の教育基本条例案に反対するアピールの、よびかけ人でもあります。

条例案は、橋下知事が求める「独裁」の教育版です。翻訳家の池田香代子さんは当初、条例案を「ばかばかしい」とみなしていたそうです。が、心のどこかにおりのようにひっかかる。とある機会に全文を読み、正体を知ります。


条例の7割を「問題教師」の排除に割く。上意下達と監視の義務づけ。首長や議会は民意の代表だからと、政治が教育に乗り出す…。ドイツとかかわりの深い池田さんは、省みます。かつて多くの人が“あんなばかばかしい連中が政権などとれるはずがない”と高をくくり、ナチスの政権とりを助けた。同じく自分も条例案を軽くみていた、と。


昨年春から、橋下流のやり方を「ハシズム」とよんでいた池田さん。もちろん、アピールのよびかけ人です。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-11-20/2011112001_06_0.html

【私の論評】何を血迷っているのかさっぱり理解できないこの潮流?!!ネット上ではお笑いネタに過ぎない、この感性?

上の内容は、『今日の潮流』という共産党のサイトに掲載されていたエッセイです。私は、共産党のサイトに掲載されているものは、客観的なデータ以外はこのブログでも、掲載したことがありませんが、本日は思わず、掲載してしまいました。

そうして、この話私自身どう考えても、まともではないし、お笑い種にしかならないと思ってしまいました。いまどき、こんな論調で、納得する化石みないな人なんているんでしょうか?

そう思って、サイトをみてみたら、痛いニュースという2chのまとめサイトにも掲載されていて、2chの内容や、それを読んだ人たちのコメントが掲載されています。

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1678411.html

このサイトでの他の人々の反応も似たようなもので、私の感覚はとくにおかしくもなんともない、当たり前のものだと思いました。

それにしても、「君が代症候群」なんて、こんなの病気といえるのでしょうか?自分の国の国家の伴奏を演奏することが病気の原因なんて、責任転嫁もはなはだしいといわざるをえません。最近、こういう新しいタイプの欝が流行っていることを昨日のNHKのクローズアップでも報道していました。

何でも、会社で些細な当たり前のようなことで、特に厳しくもなく普通に上司にしかられて、欝状態になり、会社に出ずに、何日か家にいるにもかかわらず、夜になると、友人と飲みにいって、ワイワイやるという症状だそうです。

欝病の症状は、一度欝状態になれば、どんな場合でも、欝に陥っている場合は、欝状態が続き、飲みに行って、ワイワイするなどということはあり得ないものでした。しかし、最近は、そうではない新種の鬱病があるそうです。

しかし、私自身は、これは、本当に病気なのかどうか疑わしいと思っています。この番組の中では、この種の患者は、たいてい責任の所在は、自分にない思っており、どんなことでも、人のせいだとするようです。この考え方は、従来の方法なかなか直らなようで、患者同士のグループディスカッションをさせるそうです。そうして、他の患者から自分自身に責任があることを指摘されて、はじめて気付くということが多いそうです。

最近は、親や学校の先生が子供を叱ることが少なくなったったためでしょうか、いわゆるガラスの神経を持った若者が多いといわれています。このガラスの神経を持った若者の、行き着く先が、新種の鬱病なのかもしれません。

「君が代」の伴奏を強いられた音楽教師は、ストレスのあまり胃から出血し緊急入院。動脈の8カ所で止血を施すほどの重症などとして、さらに、良心の自由と強制の間で苦しむ心の危機を、「君が代症候群」などとして、病気扱いするのは完全な間違いであり、異常であり、異様なことだと思います。はっきりいわせていただければ、滑稽でさえあります。

この馬鹿教師の新型鬱病を治療するには、生半可なことではすまないと思います。あの、時計仕掛けのオレンジにでてきた、主人公のアレックスの暴力的な性向を直すための治療を施したらいかがでしょうか?

そうです。拘束服をつけさせ、椅子に固定して、目も強制的に開けた状態で、目が乾燥しないように、点眼しつつ、君が代の曲を流し、画面には、日章旗がたなびく動画を流し続けるとか・・・・・・・・。

時計仕掛けのオレンジで治療を受けるアレックス
新型欝病の高校教師の洗脳にもちいるべき動画?

この映画、ファンもかなり多いようですから、ご覧になった方もいると思います。私は、このアレックスを自分のアバターとして、使用していたこともあるくらいですから、当然この映画は何度もみていますし、DVDもっています。初めて見たときのインパクトはすごかったです。確か、高校生の時分にみたと思います。

詳しくは、この映画をみていただくに限りますが、この映画では、とにかく、乱暴もので暴力は振るうわ、強姦はするはの、アレックスのこの性向を直すための治療が施されます。そうして、いろいろ、経緯はあるものの、最終的にアレックスはもとの性向に戻ってしまうところで、この映画は終わります。


この結論から、映画監督であるスタンリー・キューブリックがいいたかったことは、結局人間は、こうした暴力的な側面などがなければ、人間ではなくなってしまうということだと思います。私自身も、層思います。無論、暴力的側面を悪い方向に使えば、大変なことになってしまいますが、良い方向に使えば、より人間らしく生きられると思います。

上の記事があまりにも馬鹿馬鹿しいので、「時計仕掛けのオレンジ」の例まで出してしまいましたが、ここまで書いて、はたと気付いたことがあります。

そうです、上の音楽教師は、戦後60年間のアメリカによる日本の弱体化政策、さらには、左翼による弱体化政策の一環として、アレックスのように洗脳を受けたのではないかということです。無論、上記のように、映画や音響でではなく、言葉や、文章や、その他で、結果としてアレックスのような洗脳を受けたのだと思います。

そういう意味あいでは、教師も犠牲者なのかもしれません。終戦後が、これだけ時間が経過しているにもかかわらず、本当にバーチャルリアリティーのようなおかしな状態が続いています。このバーチャルから決別した人にとっては、悪影響を受けることも少ないですが、それに浸っている人は、だんだん精神が病んでくるのは当たり前のことかもしれません。しかし、子供なら別として、大人ならば、自分の精神と、肉体はまずは、自分で守るように心がけるべきと思います。

それにしても、左翼の連中は、歴史的事実もゆがめてしまいます。そもそも、歴史を知りません。知ろうともしていません。

橋下さんをヒトラーになぞらえるとは、噴飯ものです。上のコラムを書いた人は、歴史に学ばないから、ヒトラーの本質も判っていないと思います。確かにナチスドイツのヒトラーならびに幹部は、ユダヤ人の大量殺戮をしたということで、犯罪者です。

しかし、ドイツが戦争に突入することに踏み切らせたのは、第一次世界大戦の戦勝国でもあります。これらの国々は、第一次世界大戦で蒙った被害に関して、ドイツに対して法外な賠償金を請求しました。これは、ドイツ人からすれば、第一次世界大戦など、国同士のパワーオブバランスによる争いの一環であるに過ぎないものであり、法外で理不尽なものと写りました。これが、ナチスドイツを台頭させる大きな原因にもなっています。


それに、ヒトラーが権力を獲得するまでの権力闘争は、すざまじいものがあります。それこそ、政敵を葬った長いナイフの夜とか、有力ユダヤ人を葬った水晶の夜といわれた、大量虐殺があったことなども知らないのだと思います。こんな人間を橋下さんと比較するなど、とても正気の沙汰とは思えません。これは、橋下さんに対する立派な、侮辱であり、名誉毀損だと思います。

上の高校教師やコラムニストのように、歪んだ頭では、こんなことも理解できず、そうして、日本の歴史も知らず、全く見当違いのことで、ガラスの神経がすぐに壊れてしまうのでしょう。共産党いっとき、派遣問題などの高まりで、プロレタリア作家の小林多喜二の『蟹工船』などが、若者に売れるようになり、多少人気が上向いたこともあったようですが、上のような化石のようなコラムを掲載するようでは、もう、焼きがまわっています。今の若者には、ドン引きされるだけでしよう。

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【日本の議論】日の丸裁断による民主党旗問題 国旗の侮辱行為への罰則は是か非か-国旗への侮辱行為は当然罰則でしょう!!



『一方的な乱暴判決』 日の丸・君が代訴訟 原告、怒りあらわ―これから嫌な時代がやってくるのか?



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2011年11月22日火曜日

「制限」が創造性を高める理由―【私の論評】企業経営では制限は創造性を高めているが、行政がそうならないのはどうしてか?


水泳の足ヒレを付けて100mハードル走。19.278秒が世界記録だそうです。
パズルなどを解いているときに「障害物」があったほうが、物事を大局的に眺める傾向が高まり、発想が拡大するという研究結果が発表された。

人間の創造性に関してはたくさんのパラドックスがあるが、そのなかのひとつは、制限があるほど創造性が高まるらしいということだろう。われわれは、想像力は完全に自由な状態を必要とすると思いがちだが、実際の創造的プロセスは、厳密な約束事や形式上の条件と深く絡み合ったものなのだ。

・・・・・・・・・<中略>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

詩の形式がいつまでも廃れない理由を説明している。ソネットという形式があるおかげで、より大局的な思考が行われ、平凡な連想を超えた、オリジナルな詩が生み出されるのだ。きっかり3音節で韻を踏んでいる言葉を見つけたり、弱強格に合う形容詞を思いついたりしなければならないおかげで、詩人はありとあらゆる予想外の連想に出合うことができる。

ポール・ヴァレリーが言っていたように、「芸術が固有に備える制限によって、その想像が鈍ってしまうのではなく刺激される時、人は詩人となる」。彼らは、束縛に進んで入りこむことによって、拘束を超えているのだ。

更新:読者の「DW」は、チェスタトンの素晴らしい警句を教えてくれた。「芸術は制限のなかにある。絵画において、もっとも美しい部分は枠だ」



【私の論評】企業経営では制限は創造性を高めているが、行政がそうならないのはどうしてか?
上の記事では、詩を例としてあげていましたが、私が真っ先に考えたのは、企業経営でした。ご存知のように、企業経営で必要な資源は、ヒト・モノ・カネそうして情報です。そうして、どの経営者も、これらの資源を十分にありあまるほど使ってできる人はそうそういるものではありません。そうして、それは、従業員も同じことです。

限られた人員、限られた資金で、事業を継続させたり、新規事業をたちあげたりします。有り余る資源を投入してできることなどまず、ほとんどないといって良いと思います。そうして、特に民間営利企業の場合は、最初から経済的な大きな制約があります。そうです。すばらしいことを成し遂げたとしても、利益が出なければ、何をやっても結局は評価されないのです。これは、大きな障害です。

ジョブスにも制約はあったろう
また、有り余る資源を用いて、事をなすというなら、誰でもできます。そうではないから、高い評価を得ることができるのだと思います。大枚をはたいて、企業買収して事業を展開したというだけなら、何の評価も受けません。だから、経営はアートでもあるといわれるのかもしれません。

これと同じようなことで、ドラッカーが面白いことを言っていたことを思い出します。ドラッカーは、政治の役割について、天候にたとえて、政治ができることは、「気象を変えることはできるが、天気は変えることはできない」というものです。政治が扱う対象を地球の天候だとすれば、低気圧や高気圧や、前線などの気象のような大きな事象を変えることはできるが、東京の本日の天気のような、天気を変えることはできないということです。

気象は変えられても天気は変えられない
これは、なかなか良いたとえだと思います。そうして、このことの事例として、エリザベス朝の大蔵省(日本の政治システムはもともとは、イギリスを範として導入されたため、かつてのイギリスには日本の大蔵省と同じ省があった)の構成人員は、大臣を含めて、十数人しかいなかったということをあげていました。

大蔵省の人員が、わずか10数名であったということは、今の時代と比較すると全く考えられないことですが、それは、事実です。これは、何も大蔵省に限らず、他の省でも同じようなものです。人員が限られているという制約があったため、エリザベス朝の大蔵省は、瑣末な要請があったとしても、即座に「NO」といって、本質的な仕事にのみ集中しました。そうして、当時の日の出の勢いであった大英帝国財政を支えたのです。

そうです。もともとは、政府の仕事は、いわゆる基盤(インフラ)を整備することであって、本来その基盤の上で実務をするのが、民間営利企業であり、民間非営利企業なのです。ちなみに、当時のイギリスでは、いわゆる社会福祉的な仕事は、全国にある市町村のNPO(非営利団体)が一手に引き受けていました。

ちなみにエリザベス朝のイギリスといえば、いまのイギリスとは比べようもなく、先進的で革新的でした。統治していたのも、イギリス本土だけではなく、全世界の植民地を支配していました。こんな大国の財務をわずか、十数人の大蔵省が一手に引き受けていたのです。これでは、確かに今の政府のような瑣末なことを引き受けている余裕などありません。

大英帝国最大版図
しかし、最近のイギリスの政府はどうかといえば、当時と比較にならないほどの人員を抱えています。そうなると、人員には障害はないので、上の記事でも指摘していた、いわゆる大局的にものみれなくなるのではないかと思います。

無論、今からエリザベス朝の大蔵省にもどることはできないでしょうが、私たちは、ありあまる人員で政務をこなすことが決して良いことばかりではないことを認識すべきと思います。

まさに、上の記事で語っているようように、人手にも時間にも制約があるからこそ、エリザベス朝の大蔵省は、瑣末なことはせずに、大局的にものをとらえて、対処することができたのだと思います。そうして、ご存知のように、その任を十分に果たすことができたのだと思います。

最近のイギリスはといえば、いわゆる、STUPID諸国の仲間入りをしてしまうほどの体たらくです。それでも、サッチャーのときには、大きな改革を行い、ブレアのときには、いわゆる働くための福祉(対象者にお金を提供することを中心にすえるのではなく、働けるように助ける福祉)に切り替えたり、また、エリザベス朝のように社会福祉にNPOが大きな役割を果たすように、NPOがイギリスの社会福祉にしめる役割を明確に位置づけをした法律を制定したりしています。

翻って日本はどうなのでしょうか。今日本は、20年間にもおよぶデフレから未だに脱却できないでいます。デフレは、人間の体にたとえれば、癌のようなものです。まさしく、経済の癌です。これは、何をするにも、大きな障害です。デフレである限りにおいては、いくら、雇用対策をしても、その場しのぎの対処療法にすぎません。景気も良くはなりません。何をやっても、何かを良くしようと思えば、何かが駄目になるというモグラ叩きになってしまいます。今の日本の最大の障害は、数多くありますが、こと国内に限っていえば、デフレが最大の障害です。その他は、これに比較すれば、瑣末なことだと思います。

デフレ日本で普通に見られるようになった光景
こういう障害があればこそ、政治家は、創造性を発揮して、これを解決していくのが筋ですし、優れた起業家が、創造性を発揮して困難をのりこえていくように、粉骨砕身すべきと思います。しかし、そうではありません。多少の例外はあれ自民党政権時代もおおむねそうでしたが、民主党政権になってからますます酷くなったと思います。何の疑問も、おそれも感じることなくデフレの最中に、増税まっしぐらに突き進もうとしています。

こうした政治家の馬鹿さ加減を長期間にわたって見せつけられると、上の記事で言っているところの、制限や障害があるから、創造性は高められるというのは、間違いではないかと思ってしまいます。それは、間違いであり、「制限や、障害」があると知覚できるセンスがあるかないかで、創造性は決まってしまうのではないかと思います。


そうして、これは、何も政治家だけてにあてはまるのではないと思います。今日の企業は、過去と同じことを繰り返せば、いずれ潰れます。変化をしないことのほうが、変化をすることよりも、余程大きなリスクとなり障害となります。しかし、多くの人は、変化を厭います。変化しないことのほうを好むようです。これも、やはり、政治家のように「制限や障害」があると知覚できるセンスがないということと同じではないかと思います。皆さんは、どう思われますか?

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