三笠宮妃百合子さまと、そのお孫さまである三笠宮家の瑶子さま |
三笠宮崇仁親王妃百合子殿下が、15日午前6時32分、東京都中央区の聖路加国際病院にて薨去された。享年101歳である。百合子殿下は、昭和16年のご結婚以来、三笠宮家を支えられ、内助の功を発揮された。皇室で最高齢であった百合子殿下の薨去により、皇室の方々は計16方となった。
百合子殿下は、平成11年に虚血性心疾患のための手術を受け、19年には大腸がんの摘出手術を行われた。晩年は三笠宮邸で静かに過ごされ、家族の成長を楽しみにされていたが、今年3月に脳梗塞と誤嚥性肺炎で入院された。大正12年に誕生され、昭和16年に三笠宮さまとご結婚、3男2女をもうけられた。
百合子殿下は、国際親善に努められ、多くの国際行事にご出席された。また、「恩賜財団母子愛育会」の総裁として、母子の健康を守る活動に尽力され、生け花の普及にも貢献された。
百合子殿下は、平成11年に虚血性心疾患のための手術を受け、19年には大腸がんの摘出手術を行われた。晩年は三笠宮邸で静かに過ごされ、家族の成長を楽しみにされていたが、今年3月に脳梗塞と誤嚥性肺炎で入院された。大正12年に誕生され、昭和16年に三笠宮さまとご結婚、3男2女をもうけられた。
百合子殿下は、国際親善に努められ、多くの国際行事にご出席された。また、「恩賜財団母子愛育会」の総裁として、母子の健康を守る活動に尽力され、生け花の普及にも貢献された。
三笠宮崇仁親王と百合子さま |
「もう少し、もう少し頑張れば...」
1945年8月、東京・目黒の高木家の庭で、一人の女性が懸命に防空壕を掘っていた。三笠宮妃百合子殿下である。その手には、軍人であった夫・崇仁親王から贈られた軍用シャベルが握られていた。
空襲警報のサイレンが鳴り響く中、百合子殿下は近所の子どもたちを守るため、自ら率先して防空壕を広げる作業に従事していた。戦火の中で見せた殿下の姿は、後に近所の住民たちによって「まるで実の母のように私たちを守ってくださった」と語り継がれることになる。
大正12年6月4日、高木正得子爵の次女として生を受けた百合子殿下。その生涯は、日本の激動の歴史と共にあった。幼少期から文学や音楽に親しみ、特にショパンのピアノ曲を愛した殿下は、戦時中、傷病兵の慰問に赴いた際、自らピアノを弾いて兵士たちを励ました。ある元傷病兵は後年、こう証言している。
銀座のバーでカクテル競技に参加する三笠宮と百合子様(1949年) |
「殿下のピアノの音色は、私たちの心の傷を癒してくれました。あの音色は今でも忘れられません」
昭和16年、三笠宮崇仁親王との結婚を機に皇族となった百合子殿下。しかし、その心には常に庶民への深い理解があった。
特筆すべきは、戦後の混乱期における殿下の行動だ。昭和21年、食糧難に苦しむ東京の下町を訪れた際、殿下は自らの配給米を地域の子どもたちに分け与えた。この出来事を目撃した元町内会長の証言が残されている。
「殿下は『私よりも子どもたちのために』とおっしゃって、大切な配給米を差し出されたのです。その姿に、私たちは心から感動しました」
その後の全国行脚でも、百合子殿下の温かな人柄は各地に深い印象を残していく。
昭和30年代、博多祇園山笠で見せた殿下の姿は象徴的だった。当時の写真には、博多っ子たちと同じ目線で山笠を見上げる殿下の横顔が写っている。「お殿様」ではなく、同じ祭りの参加者として溶け込む姿に、地元の人々は心を打たれた。
子どもたちと写真に納まる三笠宮妃百合子さま。右から寛仁親王、桂宮、高円宮、百合子さま、千容子さん=1955年10月31日 |
北海道では、開拓農家との心温まる出会いがあった。1970年代のある訪問時、一人の農家の女性が自慢の大根を差し出すと、殿下は「私も家庭菜園をしているのですよ」と笑顔で応じ、農作業の苦労を分かち合った。その農家の方は、50年経った今でもその時の殿下との会話を大切な思い出として語り継いでいる。
「恩賜財団母子愛育会」の総裁としての活動も特筆に値する。特に印象的なのは、1960年代の沖縄訪問だ。当時はまだ米軍統治下にあった沖縄で、殿下は基地の中の母子施設を訪れ、現地の母親たちと涙ながらに抱き合った。その光景を目にした米軍将校は、後に「あの時初めて、日本の皇室の本当の力を理解した」と語っている。
2014年の崇仁親王の薨去後も、百合子殿下は地域との絆を大切にされ続けた。最晩年まで、子どもたちや地域の人々との触れ合いを何よりも大切にされた殿下。
その生涯は、まさに昭和から平成、そして令和へと続く日本の歴史そのものであり、民衆に寄り添い続けた慈愛の象徴であった。殿下の温かな眼差しは、今も多くの人々の心の中で輝き続けている。
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