太平洋戦争末期の昭和20年3月10日未明、アメリカのB29爆撃機による大空襲で東京は下町を中心に壊滅的な被害を受け、およそ10万人が犠牲となりました。
この大空襲から78年となる10日、墨田区の東京都慰霊堂で、秋篠宮ご夫妻も参列されて慰霊の法要が行われました。
そして、東京都の小池知事、それに遺族の代表などおよそ100人が焼香を行い、犠牲になった人たちに祈りをささげました。
法要のあと遺族の代表として参列した五関愛子さん(79)は「大空襲で義理の兄と姉の3人を亡くしました。戦争は人が人を殺すことなので、そういったことは避けて世界中が平和に過ごせる世の中になってほしい」と話していました。
また、祖父母たちを失った齋藤明さん(60)は「私は直接、戦争を知らない世代だが、今の安らかな生活があるのは、犠牲になった人たちがいたからだと思っている。このことを自覚して次の世代に伝えていきたい」と話していました。
【私の論評】B29は無敵ではない!日本本土を爆撃した搭乗員に甚大な被害が(゚д゚)!
まずは、東京大空襲でなくなった東京都民、日米の将兵の方々のご冥福をお祈りします。日本では、東京大空襲については今ではあまり語られなくなりましたが、この記憶は、正しく伝承し続けるべきでしょう。
東京大空襲などで、爆撃任務にあたったB29ですが、戦争末期の日本は、7000~9000メートルの高高度を大挙して押し寄せるB29に手も足も出せなかった-という話が横行しているが、現実はそうではありませんでした。
東京大空襲においては、米軍は焼夷弾(現在で言うナパーム)弾を大量に使用したため、木造建築の多かった当時の東京では大きな火災が発生して甚大な被害を被ることになりました。
ところが、この東京大空襲時にも、B29は被害を被っています。東京大空襲は米軍任務番号40号、1945年3月9日(爆撃は翌10日未明まで)の東京市街地に対する夜間無差別爆撃では、B-29が325機出撃し損失が14機、内訳は日本軍の対空火器での撃墜2機、事故1機、その他4機(3機が燃料切れ墜落、1機不明)、7機が原因未確認とされています。
原因未確認の7機はすべて連絡のないまま行方不明となった機ですが、この日に出撃して無事帰還したB-29搭乗員からは、東京上空で7機のB-29がおそらく撃墜されたという報告があり、さらに行方不明の1機については銚子岬の上空で4本の探照灯に捉えられて、大小の対空火器の集中砲火で撃墜されたという詳細な報告があったのにもかかわらず、米軍は原因未確認の損失とされました。
この日に日本軍により撃墜されたと判定されたのは、東京上空で対空火器で撃墜された1機と、対空火器による損傷で不時着水して搭乗員全員が救助された1機の合計2機のみに留まりました。当時の米軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはよほどの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にありました。
戦争末期の日本は、B29に手も足も出せなかったというまことしやかな説が横行していますが、現実はそうではなかったのです。帝都上空では、B29爆撃機の大編隊に、飛行第244戦隊が立ちはだかったのです。日本軍の高射砲も最大で1万9千メートルまで弾丸を飛ばすことができたとされています。
この部隊に44年11月、24歳の小林照彦大尉が戦隊長として着任しました。小林氏は後に、B29爆撃機10機を含む、敵機12機を撃墜した「本土防空戦のエース」となりました。同隊は翌12月、B29の大編隊を迎え撃ち、6機撃墜・2機撃破の大戦果を上げました。
この部隊に44年11月、24歳の小林照彦大尉が戦隊長として着任しました。小林氏は後に、B29爆撃機10機を含む、敵機12機を撃墜した「本土防空戦のエース」となりました。同隊は翌12月、B29の大編隊を迎え撃ち、6機撃墜・2機撃破の大戦果を上げました。
操縦席側面にB-29を模った撃墜マークを多数描いた陸軍飛行第244戦隊の三式戦闘機「飛燕」 |
このとき、四宮徹中尉は、B29への体当たり攻撃で片翼をもぎ取られながらも無事帰還しました。中野松美伍長は、B29の真上に張り付く“馬乗り”の姿勢で、B29の胴体をプロペラで切り裂いて撃墜し、生還しました。板垣政雄伍長も、最後尾を飛んでいたB29に体当たりして帰還しました。
この日の武勲により、空対空特別攻撃隊は「震天制空隊」と命名されました。その名の通り、B29の乗員を恐怖に陥れる一方、日本国民の戦意を高揚させました。
B29は11人の搭乗員を乗せています。そのため、1人乗りの「飛燕」が体当たりして撃墜すれば、11倍の敵と刺し違うことになります。当時言われていた「一人十殺」は単なる掛け声ではなかったのです。
先の戦争におけるB29の被害機数はあまり知られていません。軍事評論家の井上和彦氏によれば、本土空襲に来た米第20空軍ののべ出撃機数は3万3004機でそのうち、何と、陸海軍の本土防空部隊によって485機が撃墜され、2707機が撃破されていたのです。
上表のとおり1945年1月までの日本軍戦闘機によるB-29への迎撃は執拗であり、特に京浜地区の防衛を担う立川陸軍飛行場や調布陸軍飛行場に配備されていた二式戦「鍾馗」・三式戦「飛燕」、海軍厚木基地・横須賀基地に配備されていた雷電はB-29撃墜にとって有効な存在で、爆撃後背後から襲い、一度に十数機を被撃墜・不時着の憂き目に合わせたこともしばしばでした。
日本軍戦闘機の装備の中で、B-29搭乗員に恐れられたのが三号爆弾であり、B-29搭乗員は炸裂後の爆煙の形状から白リン弾と誤認し、三号爆弾を「いやな白リン爆雷」と呼んで、空中で爆発すると凄まじい効果があったと回想しています。
第三三二海軍航空隊に所属し零戦52型でB-29を迎撃した中島又雄中尉によれば、三号爆弾は命中させるのは非常に困難でしたが、なかには7機のB-29を撃墜した搭乗員もいたといいます。撃墜できなくとも、B-29の編隊を乱して、損傷したり落伍したB-29を集中して攻撃できるという効果もありました。
ただ、表中で、1954年の3月以降は、戦闘機そのものは戦争末期に向かい徐々に増えていっているですが、戦闘機の攻撃回数そのものはかなり減っています。これは、ガソリンや弾薬などの物資が不足していたからだと考えられます。
その他の資料でも、B29の被害も甚大だったことがわかります。『B29 日本本土の大爆撃』(サンケイ新聞社出版局)p210「B29のその後」には、米第二十航空軍の死者として、3015人が死傷・行方不明との記載があります。出典・参考図書の記載はありません。
『図説 アメリカ軍の日本焦土作戦』(河出書房新社)p118-119「アメリカ軍が認めたB29の喪失機数は最大四百八十五機」には、中国・ビルマ・インドおよびマリアナからの作戦全般を通じて、第二十航空軍の戦闘搭乗員のうち、戦死または行方不明者は総計3041名、攻撃行動中の戦傷者は332名とあり。なおこの節の記載の出典は第20航空軍がまとめた「日本本土爆撃慨報」です。
『日本上空の米第20航空軍』(大学教育出版)の、p14に戦争末期の5か月間の米軍の損失は搭乗員297組3267人との記載があり。これは米陸軍が1947年に発行した冊子「第20航空軍小史」を邦訳したもので、p41には該当箇所の原文もあります。
なお『戦争の日本史23 アジア・太平洋戦争』(吉川弘文館)p261「戦場における死 特攻作戦の考察」によると、航空特攻を中心とした特攻隊の全戦死者数は陸海軍合計で4160名です。
階級や年齢別の分析もあり。データの出典元である『陸軍と海軍』には、p210「海軍善玉論批判」に特別攻撃隊の戦死者4160名との記載があります。またp229「海軍特攻戦死現役将校の分析」に陸軍1688名、海軍航空特攻2525名、回天特攻89名との記載があります。
米軍のB29日本本土への爆撃隊だけでも、日本の特攻隊の死者は下回りますが、それに匹敵するくらいの3000人以上がなくなっているのです。
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戦後、前出の小林氏や、専任飛行隊長の竹田五郎大尉、B29を5機撃墜・7機撃破した撃墜王、生野文介大尉など、本土防空戦に活躍した面々は、航空自衛隊でも本土防空を担いました。
ちなみに、竹田氏は1976年9月、ソ連のベレンコ中尉が亡命を求めてミグ25で函館空港に飛来したときの北部航空方面隊司令官でした。このとき的確に対処できたのは、かつての本土防空戦の経験からでしょう。
竹田氏はその後 第14代航空幕僚長となり、さらに自衛隊制服組のトップとなる第12代統合幕僚会議議長を務めています。
戦後の日本の空も、飛行第244戦隊の精鋭によって守られていたのでした。
ちなみに、竹田氏は1976年9月、ソ連のベレンコ中尉が亡命を求めてミグ25で函館空港に飛来したときの北部航空方面隊司令官でした。このとき的確に対処できたのは、かつての本土防空戦の経験からでしょう。
竹田氏はその後 第14代航空幕僚長となり、さらに自衛隊制服組のトップとなる第12代統合幕僚会議議長を務めています。
戦後の日本の空も、飛行第244戦隊の精鋭によって守られていたのでした。
日本の当時の果敢な将兵の捨て身の覚悟で、日本を爆撃したB29の搭乗員も決して安全ではなかったのです。少なからぬ将兵がなくなっています。このようなことが、米国を警戒させ、日本が米国に対して二度と立ち上がれないように、様々な縛りをつけたのでしょう、その最たるものが「日本国憲法」でしょう。
戦争の記憶は辛いものですが、正しい記録を伝承すべきです。特に、戦争中には、戦争当事国は、被害や損害を秘密にしてなかなか表には出しません。これを表に出すことは、戦争遂行の上で不利になることもあるからです。
戦時中の大本営発表のことを嘘八百と批判するむきもありますが、これはいずれの国でも戦時中は当然のことです。
しかし、正しい損害の状況などを認識することは、歴史を振り返る上で決して避けてはいけないものだと思います。それを曖昧にすれば、歴史を正しく認識できなくなる可能性もあるからです。
現在戦われているウクライナ戦争でも、ロシアとウクライナが様々な情報を出していますが、これは単純には信じることはできないです。両方とも意図的なプロパガンダである可能性があるからです。
ソ連崩壊後の1990年代に、旧ソ連の情報が公開されましたが、その中には過去の歴史を覆すものもありました。たとえば日本国内ではノモンハン事件は、日本の惨敗であり、小太平洋戦争のようだったなどの説が流布されていますが、これは間違いだったことがわかりました。
実は、ソ連側もかなりの損害を被っており、日本側も損害が多く、日本が勝ったとはいえませんが、どちらかというと日本が辛勝したといえるような資料が見つかったのです。
戦争中はそうするのは無理もないことです。しかし戦争が終わった時点では、差し支えがないと判断された時には、いずれの側も正しい数字を出すべきでしょうし、どのような意図で、戦争を遂行したかも公表すべきでしょう。正しい歴史を残し、後世に伝えるためです。それによって、後世の世代が正しい認識を持てるようにするためです。
そういう観点から、本日は敢えて日本で流布されているB29無敵説を正すためにこの記事を掲載させていただきました。
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