2011年9月13日火曜日

「頭が良い」の定義は変わる。ロジカルシンキングより“メタ思考”―【私の論評】あのドラッカーのマネジメントにでてくる、"真摯さ"の定義を巡って・・・・・・・・・・・・?!

「頭が良い」の定義は変わる。ロジカルシンキングより“メタ思考”



本日は、上の画像とは、一見何も関係ないようにも思える、思考法に関する記事を掲載します。これは、ダイヤモンドオンラインにでていた、興味深い内容のもので、私も、最近、思考方法で考えていたことがあったので、本日は、この記事の要約をまず掲載させていただきます。後で、私自身の論評など掲載させていただきます。
ビジネスパーソンなら、誰しも頭が良くなりたい、と思っている。しかし今日の「頭が良い」とは、一体、何のことだろう? 僕は「メタに考える力」だと思う。それは、「物事を一歩上の次元から見ること」であり、「本質に迫る」ことだ。このメタ思考とは何か?、そのために心がけるべき事は何か?を整理してみた。 
連載もそろそろ大詰めを迎え、ネタに困った僕は、五反田のブックファーストに向かった。最近の出版業界は、付録でもっているといっても過言ではない。 
宝島社の『スッキリ美顔ローラー』は、わずか2日で30万部の重版という記録を成し遂げたというし、結婚情報誌「ゼクシー」の付録には婚姻届がついてくるらしい。 
もはや出版社は、全国15000店もの書店流通網をつかって、文章の“おまけ”がついた「商品」をそのまま売ったほうが儲かるのではないか? ドラッグストアだって、本業の薬品ではなく、実際は食材の安売り販売で儲けているではないか? 
そんなことを考えつつ、ビジネス書のコーナーへ。相変わらず人が多い。ここには、英語の本に並んで、ロジカルシンキングなどの“思考系”の本がずらり。そうか、この分野のニーズは高そうだ。よし、では僕も一つ、「思考力」をテーマにコラムを書こう。5分で「頭の良くなる」(気がする)コラムのはじまりはじまり。 
■頭の良さとは知識や記憶力ではない
ビジネスパーソンなら、誰しも頭が良くなりたい、と思っている。しかし今日の「頭が良い」とは、一体、何のことだろう?知識があること?いや、Wikipediaやgoogle先生に聞けば、大抵のことがわかる今、昔のように「ウルトラクイズ」は流行らない。ハードディスクは外部化され、知識や情報は“つまみぐい”すればいい。記憶力(メモリー)が頭の良さか? 
これも違う。仕事に短期記憶(メモリー)は求められるが、情報の新陳代謝が激しい時代にそれは付加価値にはならない。では頭の良さとは何か?僕は、今日の頭の良さとは、「メタに考える力」だと思う。メタ(抽象的)に考えるとは、物事を一歩上の次元から見ることである。メタ思考の天才がいた。 
あるとき、イギリスのヴィクトリア女王がいよいよ香港の割譲を清の皇帝に迫った。清にはイギリスと戦う余力はない。さて、どうするか? 李鴻章は考えた。 
彼はヴィクトリア女王が派遣した英国大使に向かってこう言った。 「中国には、久久(キュウキュウ)という言葉がある。“永遠”という意味だ。だが、同じキュウキュウという発音で“九九”も指す。そこで香港を、キュウキュウ(永遠に、と同様の言葉である99年間)貸しだそう」ーー。 
久久(永遠)といえば、ヴィクトリア女王の要望に応えているし、九九(99年)の貸し出しであれば、清の最高権力者である西太后のメンツも立つ。彼は中国と英国の要望を同時に満たすことに成功した。 
では、李鴻章はどのように「考えて」この難局を切り抜けたのだろうか?彼は、まず「清」ではなく、その“上位概念”である「中国」のことを考えた。そう考えると清を残すより中国を残すことがより本質的であるとわかる。 
清は風前の灯火にあり戦う余力もないが、中国は100年やそこらでなくならない。そうであれば“99年間、貸し出す”≒“永久に渡す”という解決策はどうだろうか、と考えたのである。そこから、久久(永遠)と九九(99年)を掛け合わせるとんちが生まれた。こうして実際に清は、香港の割譲を逃れ、99年後の1995年に中国に返還されることとなった。 
今日、僕たちが抱える問題は、この李鴻章の問題と似ている。つまり、今日の問題の多くが「対立」をはらんでいる、ということだ。対立とは人が矛盾を望んでいる状態であり、矛盾とは、人がAとBの両者を成り立たせようとして「もがいている」状態である。だから問題解決とは、AとBを両者とも成り立たせるCの発見でなければならない。 
経営者の葛藤もいつもこの矛盾にある。守るべきは「人」か「利益」か、と言うときに、人を切って利益を出すのはある意味簡単だが、両者を同時に満たそうとするから経営者は悩むのである。経営とは要するに「矛盾を統合」する作業である。 
そんな矛盾の統合に、このメタ思考が役に立つ。メタ思考によってより上位から見つめた時に、隠れていた本質的な矛盾を初めて見抜き、その問題が発生している一次元上での“調和”を達成することができるのだ。 
アインシュタインも言うように、 「我々の直面する重要な問題は、その問題を作ったときと同じ考えのレベルでは解決することはできない。」

■物事の本質を押さえると応用可能性が高くなる
メタ思考によって、上位概念を考えるとは、もっと言えば、物事の“本質”に迫ることを意味する。本質には、「普遍性(応用がきくこと)」「不変性(時がたっても変わらないこと)」「単純性(シンプルであること)」という要素があるものだ。 
こういった本質を押さえると応用可能性が高くなる。たとえば、単語の覚え方に「語源」から覚える方法がある。例えば「Sub」の意味は、「下(の)」である。 
ここまでは知っている人も多い。しかし、さらに“本質”を考える人は、実はアルファベット1文字ずつの意味を知っている。 
例えば、“b”や“d”が「何を意味するのか」。“b”は存在や肯定、向上、成長などを意味し、“d”は欠乏や否定を表す。 
だから“b〜”が入っていれば、自然に「ああ、何か肯定的、前向きな意味なんだな」と感じることができるし、“d〜”とくれば「なんとなく、悪い意味が多いぞ」とわかる。
抽象性は高いが、本質的であるからこそ応用が利くのである。頭の良い人は、極めメタ(抽象的)な本質をいくつか押さえており、そこから枝葉末節の問題を難なく解決してしまうものである。

■情報流入を制限し思考量>情報量を意識する
しかし、本質に迫るという作業はたやすいことではない。常に考え続けなければならないからだ。ときには新聞を閉じ、テレビを消し、意識的に情報を遮断する時間が必要だ。
思考力とは筋肉と同じ。フィットネスが大事である。そういう僕自身も20代を通じて、ひたすら考えるということについて考えてきた。その結果、いくつかの「考えるコツ」というものを得たように思う。

■僕が心がけている思考の3つのコツ
思考のコツを三つほど紹介しよう。一つ目は、「すべてのものは有機的なつながりを持っている」という前提に立つことである。「世界は、ひとつである、違うように見えてすべては共通する」という前提にたって考えれば、自然に物事と物事の間の関係が見えてくる。すると物事の上位概念や下位概念、因果関係といったものが明らかになってくるのである。 
二つ目は、「すべては、らせん的に生成・発展している」と考えることである。らせん的に世の中が発展しているという考えは、弁証法の基礎である。すべてがらせん的に発展するという前提に立てば、過去の事象・現在の状態から、次にどの方向に行くか、どういうレベルで上昇・進化するのかを洞察できる。これは未来を推察するための大きな手がかりになる。 
三つ目は、ひたすら考えた後は、「考えるのを止める」ということである。自分自身の経験から究極的に「思考を完全に止めた後に、解が浮かび上がってくる」という状況があった。 
考えに考え、最後に思考を止めたときに、「答えが、自ずから浮かびあがってくる」のだ。それを考えると、本質解は、実は最初から「在る」のではないか、そしてそれに対する「気づき」を得ることの方が重要なのではないか、と思うようになった。 
僕自身はこのような思考の哲学をもって、いつも物事を考えるようにしている。こうした能力は、ちまたで流行っているロジカルシンキング(論理思考)とは異質のものだ。 
そもそも、思考とは、ものごとを抽象的にイメージで捉える力であり、直観や洞察に形を与える作業である。それを糊付けして人に伝えるツールが論理である。だから「論理思考」というものは実は存在しない。 
考えることは、人にとって辛い作業である。ということは、考えるという作業がある種の「意思」であることがわかる。情報の流れに逆らい、自分の頭を使って前提や常識に立ち向かう意思こそが、今の時代に求められるリテラシーだ。ああ、考える意思と努力こそが、日々凝り固まりつづける固定観念への最後の抵抗力となり、世界を自由にする翼なのだなぁ。そんなことを考えながら僕は、ビジネス書のコーナーを後にした。そして、「anan」のセックス特集を手にとって颯爽とレジへと向かった。僕にはこっちの方が必要 
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【私の論評】あのドラッカーのマネジメントにでてくる、"真摯さ"の定義を巡って・・・・・・・・・・・・?!
わたしは、以前このブログにも思考方法について掲載したことがあります。それは、論理的思考、水平的思考、統合的思考という三つの思考方法についてです。

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BOOK REVIEW 『これからの思考の教科書』- ビジネススキルとしての思考法を順を追って学べる良書【続き】―【私の論評】常に革新的であるために、一つの思考方法に凝り固まるな!!糸井重里さんから真摯に学ぼう!!

実は、この二つの記事、いかにも書評の体裁をとっていますが、「私の論評」のところで、述べているのはほんど私の考えです。たまたま、思考に関する書評についてある記事を見つけたので、それを材料として、自分の考えをまとめたという感じてす。

詳細に、ついては、上の記事を読んでいただくものととして、まずは、この記事にも掲載した、この三つの思考法の内容について、以下にコピペしておきます。
ロジカル・シンキング(理論的思考)
物事を広く深く考え、分析し、相手にわかりやすく伝えるために、問題を構造化する思考法のこと。これは、ビジネスの基本です。最低限、この思考法ができない人は、ビジネス・マンとはいえません。特に、新人では、こうした思考法ができない人が多いです。 しかし、こうした思考方法ばかりして、そこから、一歩もはみ出さない人は、発展性がないですし、人間的魅力も感じられませんね。 
しかし、まずは、こうした思考法を身につけるべきです。また、ロジカル・シンキングは、より上位の思考法である、水平思考や、統合思考の基礎なるものです。これができない人に、より上の思考をすることはできません。 
ラテラル・シンキング(水平的思考)
ある問題に対し、今まで行われてきた理論や枠にとらわれずに、全く異なった角度から新しいアイデアを生もうとする思考法のこと。英国のデボノが1967年ころ唱えた。ロジカル・シンキングだけでは、出てくるアイディアは、確実にできるものではあるものの、どうしても月並みなものになってしまいがちです。  
そんなときに、全く見方を変えて、新たなアィデアを出すのがこの考え方です。会社であれば、部長までのクラスの人は、この考え方ができなければ、今の時代は務まりません。 
インテグレーティブ・シンキング(統合的思考)
相克するアイデアや問題事項の対立点を解消することにより、より高次の第三の解答を見つけ出す思考法のこと。さて、理論的思考や、水平思考によって、いろいろなアイディアが浮かんできます。ただし、アイディアがたくさんあるだけでは、実行に移すことはできません。  
それどころか、混乱するだけです。ここで、数多くのアイデアを取捨選択、統合するとともに、実施すべき順番を考える必要があります。また、数多くのアイデアを束ねるだけではなく、一言で言い表したりして、誰にも理解できるようにして、さらに高次元にする必要があります。それが、統合思考です。経営者クラスはここまでできなければなりません。
さて、上の山口さんのいう、メタ思考とは、私の上の分類でいうと、『統合的思考』に当たるものと思います。

それから、私が普段何気なしにやっている思考方法に関して、山口さんの記事で非常に適合するする部分があるので、それも以下に紹介します。

メタ思考によって、上位概念を考えるとは、もっと言えば、物事の“本質”に迫ることを意味する。本質には、「普遍性(応用がきくこと)」「不変性(時がたっても変わらないこと)」「単純性(シンプルであること)」という要素があるものだ。

私自身、たとえば、報告書や企画書などを書くにしても、最終結論はかなりシンプルなものにまとめように心がけています。最近書いた、ものでは、結局最後は、「業務に学習経験曲線効果と、体系的破棄」を盛り込むというシンプルなものでした。 たしか、このようなシンプルなものは、あらゆることに組み込むことができます、応用が広く、社内のいろいろなことに適用できます。

情報流入を制限し思考量>情報量を意識する、ひたすら考えた後は、「考えるのを止める」
このあたりも、身に覚えがあります。企画を考えたりするときには、インターネットで情報を集めたり、本を読んだり、過去の報告書や、企画書を読んだり、外に出かけたり、ひたすら、情報を集めます。そうして、まずは、企画書の章立てを考えたりします。そのときには、大抵、バソコンのマインド・マップソフトを用いて行ないます。このときは、章立てだけではなく、各項目の中身も、キーワードのみ書いて行きます。マインドマップを使うのには、わけがあります、ある項目を上位にもってきたり、あるいは下に下げたりということが簡単にできるからです。

なるべく、章、大項目、小項目まで、キーワードを全部書くつもりでやりますが、どうしても書けないキーワードもありますが、とにかく書けるところは、全部書いてしまいます。そうして、とにかく、章立てが終わってしまったら、キーワードが抜けている場所があっても、まずは、そのままにしておきます。そうして、比較的小さな、内容の報告書などであれば、一晩寝て、次の日にキーワードをも入れて、その次の段階で、報告書を書き始めます。この時には、キーワードも埋まっていますからスラスラ書けます。

しかし、比較的長い内容の報告書、企画書の場合は、場合によっては、1週間も、ほったらかしにしておくこともあります。そうして、これとは、全く別のことをやるようにしています。そうして、1週間くらいして、また、キーワードなどが浮かんできます。場合によっては、この後も調べ物をすることもありますが、それも、かなりスムーズにいって、キーワードを埋め次第、報告書づくりにとりかかると、スムーズに行きます。

そろそろ本題に入りますが、あの経営学の大家ドラッカーは『マネジメン』という書籍の中で、組織の精神に関して、真摯さという言葉を用いて、以下のようなことを書かれています。ちなみに、これは、あの『もしドラ』の作者である、岩崎夏海さんも、『マネジメント』の中で最も感銘を受けた部分であると、独白しているのをテレビで見たことがあります。その部分をコピペします。実は、この「真摯さ」という言葉の中に、「統合的思考ができること」も含まれているのだと思います。
うまくいっている組織には、必ず一人は、直接手をとって助けもせず、一見人付き合いも悪いようにみえるボスがいる。この種のボスは、とっつきにくく気難しく、一見わがままなように見えるにもかかわらず、しばしば誰よりも多くの人を育てる。好かれている者よりもはるかに、尊敬を集める。一流の仕事を要求し、自らにも要求する。基準を高く定め、それを守ることを期待する。何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。真摯さよりも知的な能力を評価したりはしない。このような素質を欠く者は、いかに愛想がよく、助けになり、人づきがいがよかろうと、またいかに有能であって聡明であろうと危険である。そのような者は、職業人としても、社会人としても失格である。 
真摯さを絶対視して、初めてまともな組織といえる。それはまず、人事に関する決定において象徴的に表れる。真摯さは、とってつけるわけにはいかない。すでに身につけていなければならない。ごまかしがきかない。ともに働く者、特に部下に対しては、真摯であるかどうかは二、三週間でわかる。無知や無能、態度の悪さや頼りなさには、寛大たりうる。だが、真摯さの欠如は許されない。
マネジメントにできなけばならないことは、学ぶことができる。しかし、学ぶことのできない資質、後天的に獲得できない資質、初めから身につけていなければならない資質がある。才能ではない、真摯さである。 
実は、真摯さという言葉については、なかなか意味を受け取れず、長い間、腑に落ちていませんでした。しかし、最近、統合的思考について、考える機会があったので、実は、この「真摯さ」という言葉の中に、統合的思考も含まれていること気づきました。以下にそれを掲載します。

真摯さとは、英語で〔マネジメント」読んで、判ったことですが、"intigrity"を翻訳者が意訳したものです。辞書をひいてみると、「清廉、 高潔、完全無欠」などを意味するようです。しかし、これは、単純に「まじめ」あるいは「品行方正」などと受け取るべきではないし、それとは全く異質です。「まじめ」で「品行方正」でありながら、清廉さ、高潔さに欠ける人間はいくらでも存在します。特に、「まじめ」だけの人間は、煮ても焼いても食えないと揶揄されるほどですし、マネジメントとしては相応しくありません。真剣さ度合い、本気さ、という言葉があてはまるものと推察します。能力が低くても、それは、マネジメントとして補うことはいくらでもできます。しかし、真剣さ度合いに欠けるものは、失格です。

また、真摯さという言葉の中には、統合的な考え方ができるかどうかも含まれるのだと思います。統合的な考え方といった場合、私の上記の記事では、アインシュタインが、自らの考えと、過去の先人の理論を一つに纏め上げて、それよりもはるかに上の次元の、相対性理論にまとめあげてしまったことや、糸井重里氏のような、ライターが、あるとあらゆる情報をまとめあげ、最終的に一つのキャッチにするなどの、かなり高級な事ばかり、引き合いだしましたので、自分とは全く無縁と考える人も多かったようてです。実際、購読者の中にも、そのようなコメントをされた方もいました。

しかし、そんなことばかりではありません、たとえば、何か商売をしていれば、たとえ、小さな商売をしていたとしても、クレームはつきものです。では、クレームを100%完璧になくすことは可能でしょうか。どんな場合にも、100%なくせというのなら、その方法は一つだけあります。それは、商売そのものをやめてしまうことです。そうなれば、クレームは絶対に発生しません。でも、これは、本来のあり方ではないはずです。まずは、商売をしていれば、ある程度クレームが発生するのは、当たり前のことです。ただし、その中身や、対処が問題です。

うまく対処すれば、お客様との間に強い信頼関係を築くことだって可能です。クレームをなくすにしても、ただ、クレームをなくせば良いということではなく、目の前のことだけではなく、他に考慮しなければいけないことは多くあります。それを総合的に考えることを統合的思考というのだと思います。

統合的思考の必要性については、他にもいろいろあります。

たとえば、最近、POSなどいろいろなところで使われるようになってきました。最近では、iPhoneや、iPadをPOSにしてしまう、かなり低廉なデバイスとアプリまで登場しています。今日、誰もが使えるようになったPOSでは、いわゆる死に筋商品といって、売れない商品を見出すことが簡単にできます。では、売れないからといって死に筋商品を単純に削り続けていったらどうなるだろうか。いずれ、店頭から商品がすべて消えて、商売ができなくなります。

店で売上があがらないからといって、人を単純に削ったらどうなるでしょうか。人を削れば、サービスが低下して、ますます、売上が減ります。売上が減ったからといって、さらに人を削る。これを何回かやっていれば、やがて、店から従業員がいなくなります。

あるいは、利益を得るために、単純に商品の品質を落としたらどうなるでしょうか。これも、何回か繰り返せば、利益どころか、お客様が離れていくだけに終わることになります。

自分の考えや自分の得た情報だけが、最善と思い込む者はマネジメントとしては失格です。組織という有機体を動かすためには、自分の考えや、巷に流れるさまざまな情報、他の人々の様々な考えを、統合して、一段階上のものにまとめあげる能力が必要です。自分の考えも含めて、いろいろな考えから、選択するだけしかできないというのなら、そもそも、マネジメントは失格です。これは、いわゆる、論理的思考、水平的思考とは別次元の思考方法です。論理的思考、水平的思考に優れたものが統合的思考に優れるとは限らないし、その逆もまた真です。

いずれにせよ、この統合思考もしくは、メタ思考という思考方法マネジメント、それも、特にトップマネジメントにとっては、重要な考え方だと思います。このような考え方のできない人は、上記の事例のような例にあたれば、平気で、店や会社を潰してしまうような意思決定をしてしまうのだと思います。だからこそ、職業人としても、社会人としても失格なのだと思います。

そうして、私は、この思考方法は、前は、高級なものと考えていましたが、そうではないことに気づきました。これは、成年に達するまでは、必ず獲得されていなければならない、考え方だということです。それは、最初から、大企業の経営者のように大規模なものではなく、普段意思決定をするときに、そうできなればならないという意味合いで、これができない人は、マネジメントとして最初から持っていなければならない、"真摯さ"に欠けているということなのだと思います。

そういわれてみれば、そのような人いますよね。いわゆる、"軽い"というやつです。あまりに軽い人は、結局は、一生軽くて、まともに統合的思考や、メタ思考もできずに、そのままでは、一生マネジメントしては失格というわけです。とにかく、小さなことでも、何でも良いのですが、とにかく、まずは、このような考え方をできるのであれば、良いのですが、全くできなければ、いかに愛想がよく、助けになり、人づきがいがよかろうと、またいかに有能であって聡明であろうと危険である。そのような者は、職業人としても、社会人としても失格であるということです。考えてみれば、ドラッカーは凄いことを言っているということです。

髪の毛をしばらくぶりにカットして、軽くなった女?中身が軽いわけではありません
考えてみれば、この能力は、アインシュタイン並のすごいことをする人だけか持っているわけではなく、普通の人だって持っているはずです。そうです、たとえば、断捨離ができる人は、その典型かもしれません。家庭の主婦で、冷蔵庫の中にほとんど余り物がなくて、的確に運用している人も、そうだと思います。考えてみれば、家族に飽きさせないで、日々料理をつくることも、統合的思考がなければできないことです。家庭料理を分析的思考で考えてもそれだけでは無理だと思います。水平的な思考でも、突飛なものはできるかもしれませんが、それだけではどうにもなりません。家庭料理は美味しいだけでは、失格です。政治家など、本来は、統合的思考しなければならないその最たるものですが、最近の政治家はそれができていないというところに問題があるのだと思います。

しかし、このような考え方は、先人たちの中で、必ずそういうことをしてきた人がいるはずであり、若い内にそういう人と接して、早い時期にそのような考え方を学ぶ必要があると思います。しかし、いまは、教育がそうはなっていませんから、若い人が会社に入ってきたら、具体例で、何よりも、これを最初に叩きこむ必要がありそうです。最近の若い人たちに関して、仕事などがあまりできない理由として、良く、コミュニケーション能力が低いといって、片付けている面が多いですが、私は、以前からそうではないと思っていました。むろん、それもあるかもしれませんが、本質は、この統合的思考が全くできないということに原因があるのではないかと思っています。

しかし、会社に入ったばかりの人は、マネジャーではありませんから、マネジャーになるために、このような考え方を身につけなければならないということです。これを身につけることさえできたら、マネジャーにしても良いということです。他の、知識や、社交性など、二の次ということだと思います。TOEIC何百点なんて後からでも良いと思います。これは、本当にそう思います。TOEICだけ、点数が良くて、英語が優秀なだけの人を海外に派遣しても、さしたる、成果はあげられないでしよう。まずは、とにかく、小さなことでも良いから、統合的な考え方ができる人を養成するのが、早道だと思います。このような人は、今は、小さなことかもしれませんが、どんどんそのような思考能力をのばしていけば、将来は、アインシュタインや伊藤重里さんのようになる可能性があるということです。 しかし、そのような考え方ができない人は、いくら頭が良く、聡明で、人づきあいが良くても、その可能性は永遠にないということです。





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