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東京大学名誉教授・平川祐弘
まとめ
- 戦時中の日本政府は「大東亜戦争」の呼称を公式採用したが、戦後の占領軍による「太平洋戦争」呼称が強制されるようになった
- 「太平洋戦争」と「大東亜戦争」両面の存在しているし、 地理的にも太平洋以外での戦闘(ビルマ、マレー、インド洋など)
- 特定の立場に偏らない見方が重要であり、日本の軍部には責任はあるものの、東京裁判や原爆投下により立場が逆転した面は否めない
- 当時の日本は「反帝国主義的帝国主義」と位置づけることができ、デモクラシー対ファシズムという単純な図式の批判はすべきでない
- 皇室のインドネシア訪問では、脱植民地のためインドネシア将兵と共に戦って戦死した日本人将兵の墓に参られ、「大東亜戦争」の側面の公的認知され再評価されている
東京大学名誉教授・平川祐弘氏 |
昭和期の戦争の呼称について、「太平洋戦争」と「大東亜戦争」という二つの名称をめぐる議論が続いている。戦時中の1941年12月12日、日本政府は閣議で「大東亜戦争」を公式名称として採用した。しかし、戦後、占領軍によって「大東亜戦争」の使用が禁止され、「太平洋戦争」の使用が強制された。
筆者は、この戦争には「太平洋戦争」と「大東亜戦争」の両面があり、単一の呼称では全体を捉えきれないと考えている。例えば、日本が英国と戦ったビルマやマレー、インド洋などの戦場は地理的に太平洋とは呼べない。戦争の呼称は単なる言葉の問題ではなく、政治的意味合いを持ち、歴史認識に大きな影響を与える。
筆者は、特定の国や立場に偏ることなく、複眼的な歴史観を持つことの重要性であると考える。東京裁判については「勝者の裁判」であるが、同時に日本軍部の責任もある。特に、原爆投下に関しては重大であり、これによって戦争の善悪の立場が逆転したといえる。
戦後の歴史認識については、デモクラシー対ファシズムという単純な図式ですませられるものではなく、日本を「反帝国主義的帝国主義」の国と位置づけられる。また、「慰安婦」問題や日本軍の残虐行為に関する主張の中には誇張がある。
最近の動向として、天皇皇后両陛下のインドネシア訪問を例に挙げ、日本の脱植民地化への貢献が公的にも認知されつつある。これは、戦後長く抑圧されてきた「大東亜戦争」の側面が再評価されているといえる。
米国の歴史には、通常「太平洋戦争」と呼ばれる第二次世界大戦中の日米戦争とは別に、もう一つの「太平洋戦争」が存在します。これは1846年から1848年にかけて行われたメキシコ・アメリカ戦争を指します。
この戦争は、アメリカ合衆国とメキシコ合衆国の間で行われ、テキサス併合や西部への領土拡張を巡る両国の対立が主な原因でした。1846年5月に始まり、1848年2月まで続いたこの戦争は、アメリカの勝利に終わりました。その結果、グアダルーペ・イダルゴ条約が締結され、アメリカはカリフォルニアやニューメキシコなど、現在の南西部の大部分を獲得することとなりました。
筆者は、この戦争には「太平洋戦争」と「大東亜戦争」の両面があり、単一の呼称では全体を捉えきれないと考えている。例えば、日本が英国と戦ったビルマやマレー、インド洋などの戦場は地理的に太平洋とは呼べない。戦争の呼称は単なる言葉の問題ではなく、政治的意味合いを持ち、歴史認識に大きな影響を与える。
筆者は、特定の国や立場に偏ることなく、複眼的な歴史観を持つことの重要性であると考える。東京裁判については「勝者の裁判」であるが、同時に日本軍部の責任もある。特に、原爆投下に関しては重大であり、これによって戦争の善悪の立場が逆転したといえる。
戦後の歴史認識については、デモクラシー対ファシズムという単純な図式ですませられるものではなく、日本を「反帝国主義的帝国主義」の国と位置づけられる。また、「慰安婦」問題や日本軍の残虐行為に関する主張の中には誇張がある。
最近の動向として、天皇皇后両陛下のインドネシア訪問を例に挙げ、日本の脱植民地化への貢献が公的にも認知されつつある。これは、戦後長く抑圧されてきた「大東亜戦争」の側面が再評価されているといえる。
まとめ
- 米国では1846-1848年のメキシコ・アメリカ戦争を「太平洋戦争」と呼んでいた歴史がある。
- 戦後、日本に「太平洋戦争」という呼称が強制された背景には、「大東亜戦争」の正当化を避け、国際的認識との整合性を図る意図があった。
- 「大東亜戦争」という呼称は、日本の戦争目的や理念、アジアにおける日本の役割を反映している。
- 米国の保守派は、自国の歴史を自国の視点から捉えることの重要性を強調し、日本の文脈では「大東亜戦争」呼称の使用を支持する可能性がある。
- 日本独自の歴史観を保持することは国民の歴史理解と誇りの醸成につながるため、「大東亜戦争」という呼称を用いるべき
この戦争は、アメリカ合衆国とメキシコ合衆国の間で行われ、テキサス併合や西部への領土拡張を巡る両国の対立が主な原因でした。1846年5月に始まり、1848年2月まで続いたこの戦争は、アメリカの勝利に終わりました。その結果、グアダルーペ・イダルゴ条約が締結され、アメリカはカリフォルニアやニューメキシコなど、現在の南西部の大部分を獲得することとなりました。
この戦争は「メキシコ・アメリカ戦争」や「米墨戦争」とも呼ばれますが、当時のアメリカでは「太平洋戦争」という呼称も使用されました。これは、カリフォルニアなど太平洋沿岸地域の獲得を目指した戦争だったためです。
この19世紀の「太平洋戦争」は、アメリカの領土拡張政策(マニフェスト・デスティニー)の一環として行われ、アメリカの国土を大きく拡大させる結果となりました。しかし、現代の米国では第二次世界大戦中の日米戦争を指して「太平洋戦争」と呼ぶことが一般的となっているため、この19世紀の戦争を「太平洋戦争」と呼ぶことは稀になっています。
では、なぜ米国には過去に「太平洋戦争」という呼称があったにもかかわらず、日本に「太平洋戦争」という呼称を強制したのでしょうか。
「太平洋戦争」という呼称が日本に強制された背景には、複数の要因が絡み合っています。まず、「大東亜戦争」という呼称には日本の侵略戦争を正当化する意味合いがあると捉えられたため、より中立的な立場を取るために「太平洋戦争」という呼称が選ばれました。これは同時に、日本の戦争責任を明確にし、侵略戦争の正当化を防ぐ意図もあったと考えられます。
また、「太平洋戦争」(Pacific War)は英語圏で広く使用されていた呼称であり、国際的な認識との整合性を図る意図もあったでしょう。さらに、戦前の公式名称とは異なる呼称を使用させることで、過去との断絶を図り、新たな歴史認識を促そうとした可能性も指摘できます。
「太平洋戦争」という呼称が日本に強制された背景には、複数の要因が絡み合っています。まず、「大東亜戦争」という呼称には日本の侵略戦争を正当化する意味合いがあると捉えられたため、より中立的な立場を取るために「太平洋戦争」という呼称が選ばれました。これは同時に、日本の戦争責任を明確にし、侵略戦争の正当化を防ぐ意図もあったと考えられます。
また、「太平洋戦争」(Pacific War)は英語圏で広く使用されていた呼称であり、国際的な認識との整合性を図る意図もあったでしょう。さらに、戦前の公式名称とは異なる呼称を使用させることで、過去との断絶を図り、新たな歴史認識を促そうとした可能性も指摘できます。
直接的な要因としては、連合国軍総司令部(GHQ)が「大東亜戦争」の使用を禁止したことが挙げられます。これにより、「太平洋戦争」という呼称が日本で主流となりました。
これらの複合的な要因により、戦後の日本において「太平洋戦争」という呼称が強制され、広く使用されるようになったのです。この呼称の変更は、単なる言葉の問題ではなく、戦後の日本の歴史認識や国際関係に大きな影響を与えたと言えるでしょう。
「大東亜戦争」という呼称は、上の記事にもあるように、当時の日本政府が1941年12月に閣議決定したものです。この名称には、日本の戦争目的や理念が反映されています。
当時の日本政府の立場からすれば、この戦争は西洋列強の植民地支配からアジアを解放し、「大東亜共栄圏」を建設するための戦いでした。日本は、アジアの盟主として、欧米列強の支配から東アジアと東南アジアを解放し、アジア諸国との協力関係を築くことを目指していました。
この観点からすれば、「大東亜戦争」という呼称は、日本の行動の正当性を主張し、その目的を明確に表現するものでした。日本は、単なる領土拡張や資源獲得のためだけでなく、アジアの解放と繁栄という大義のために戦っているという認識がありました。
実際、日本の進出によって、東南アジアやインドの独立運動が刺激され、戦後の脱植民地化の流れにつながったという側面もあります。例えば、インドネシアやベトナムの独立運動指導者たちが、日本の支援を受けて活動を展開したことは歴史的事実です。
「大東亜戦争」という呼称を使用することは、このような日本の戦争目的や理念、そしてアジアにおける日本の役割を強調する意味合いがあります。それは同時に、日本の行動を単なる侵略や拡張主義として捉えるのではなく、より複雑な歴史的文脈の中で理解しようとする試みでもあります。
米国草の根保守の重鎮であった故フィリス・シュラフリー女史 |
「太平洋戦争」史観とも呼ぶべき、この歴史観は、終戦直後の民主党政権によるリベラル的な歴史観であり、米保守派とのそれとは異なります。
実際、米国の草の根保守を牽引してきた米国の「保守のチャンピョン」ともいえる、フィリス・シュラフリー女史は、「ルーズベルトが全体主義のソ連と組んだのがそもそも間違いだ、さらにルーズベルトはソ連と対峙していた日本と戦争をしたことが大きな間違いだ」としています。さらに、女史はなくなる直前には、「全体主義のソ連と組んだために、今日米国は中国や北朝鮮の核の脅威を被っている」と語りました。
かつて日本を占領したマッカーサー元帥は、朝鮮戦争に赴き、現地を調査した結果「当時の日本はソ連と対峙するため朝鮮半島と満州を自らの版図としたのであり、これは侵略ではない。彼らの戦争は防衛戦争だった」との趣旨の証言を後に公聴会で証言しています。
自国の歴史を自国の視点から捉え、表現することは、国家のアイデンティティと歴史認識を維持する上で重要です。それと同時の軍部の考えとは、別ものです。私自身は、この軍部の間違えは、もっと非難されるべきであり、それこそ当時の日本の大義に反する行動をとったということで、指弾されるべきと考えます。
中国大陸にこだわり続けた関東軍、米軍とは一線を画し太平洋の小さな島嶼まで、ことごとく占領した海軍の戦略など理解に苦しみます。
私自身、なぜ軍部が大陸で中国と対峙しつづけたのか、本当に疑問です。そんなことよりも、ソ連との対峙にエネルギーを費やすべきだったと思っています。しかし、もし当時日本が満州で踏ん張っていなければ、現在の中国もソ連の版図に含まれることになった可能性すらあると思います。現在は、中国も朝鮮半島もロシアの一部になっていた可能性があります。
他国の視点や解釈に過度に影響されることなく、日本独自の歴史観を保持することは、国民の歴史理解と誇りの醸成につながります。これは、戦後の占領政策や国際的な歴史認識の影響を受けつつも、日本の立場や経験を適切に反映させた歴史観を構築することを意味します。その観点から、日本は「大東亜戦争」という呼称を用いるべきです。
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