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2014年9月29日月曜日

【NewsPicks】経営学は経営の役に立つのか第2回 ビジネスにおける「学者」と「理屈」の意義―【私の論評】経営には原理・原則がありそれを多くの人々が知ることにより、社会は確実に変わる。しかし、知識ある者は、常に理解されるように努力する責任があることを忘れてはならない(゚д゚)!

【NewsPicks】経営学は経営の役に立つのか第2回 ビジネスにおける「学者」と「理屈」の意義

理屈じゃないから、理屈が大切

今回は、「なぜ学者が実務家とやり取りすることに意義があるか」について説明していきましょう。

最初に下図をご覧ください。理屈(論理)と理屈でないものの比率は一緒です。8割は理屈では説明がつかないにしても、ビジネスのもろもろのうち2割は、やはり何らかの理屈で動いているわけです。「ここまでは理屈だけれども、ここから先は理屈じゃない」というように、左から右へと考えてみてください。すると、「理屈じゃないから、理屈が大切」という逆説が浮かび上がってきます。
ストーリー_図01-2ai-01



何が理屈かをまるでわかっていない人には、「理屈じゃない」ものが本当のところ何なのかもわかりません。私も実務家の方々と議論しているときに、「まぁ、理屈としてはそうですが、現実は理屈じゃないので……」と言われることが少なくありません。しかし、私の経験からすれば、「現実は理屈じゃない」という声に迫力を感じる実務家に限って、総じて理屈っぽく、論理的なのです。

「いやー、ビジネスなんて理屈じゃないよね」ということで、のっけからけもの道を爆走しているだけでは、肝心の野性の勘をつかめないはずです。

野性の嗅覚が成功の8割にしても、2割の理屈を突き詰めている人は、本当のところ何が「理屈じゃない」のか、野性の嗅覚の意味合いを深いレベルで理解しています。「ここから先は理屈ではなくて気合だ」というふうに気合の輪郭がはっきり見えています。だからますます「気合」が入り、「野性の勘」に磨きがかかる。「理屈じゃないから、理屈が大切」なのです。

経営や戦略を相手にしている以上、法則定立は不可能です。しかし、それでも論理はある、「論理化」は可能だという主張です。ストーリーとしての競争戦略も「法則はないけれども、論理はある」という立場に立って、優れた戦略ストーリーの論理を明らかにすることを目的としています。

そして、その論理というのは、「イノベーションが大切だよね!」というほど元も子もない話ではありません。もう少し考えてみたほうがいい何か、しかもそれは実務の「けもの道」を走っているだけでは、なかなか見えない何かなのです。


楠木 建
一橋大学教授








上の記事は要約記事です。詳細は、こちらから(゚д゚)!

【私の論評】経営には原理・原則がありそれを多くの人々が知ることにより、社会は確実に変わる。しかし、知識ある者は、常に理解されるように努力する責任があることを忘れてはならない(゚д゚)!

News Picks ロゴ


皆さんは、NewsPicksをご存知でしょうか。新しいタイプのニュース・サイトです。今まで、いろいろなニュース・サイトのアプリをパソコンや、スマホ、タブレットで使用してみましたが、結局長続きせず、最初は見ても、後からはほとんど使わなくなるということがほとんどだったのですが、このサイトはこれからも使い続けると思います。

日本国内の、いわゆる普通のメディアなどに掲載されている犯罪・災害などのニュースは掲載されていませんが、主要なニュースをほぼ網羅されています。これは、犯罪などに関しては、サイトでみるまでもなく、通常のニュース・メデイアで十分であるとの考えでわざわざ掲載しないのだと思います。

しかし、通常のメディアだけだと、見逃してしまいそうにもかかわらず重要なものが掲載されているようです。そうして、この方針は良いと思います。

御嶽山の噴火のニュースなど、サイトで長々と、何度も掲載されても、確かにあまり意味はないと思います。そんなのは、テレビで十分です。

そうして、このサイトの魅力は何といっても、twitterとの連携がすごいことです。それも、ただ単に、twitterにニュースに関するコメントを掲載できるというだけではありません。なかなか優れものの機能があり、使い勝手かかなり良いです。

この使い勝手の良さもあってか、結構有名人も使っています。あの堀江貴文さんなども使っています。

これは、言葉で説明しても、なかなかご理解いただないと思いますので、是非一度ご覧になって下さい。以下にリンクを掲載しておきます。


さて、前置きが長くなってしまいましたが、本日の主題は、NewsPicksの紹介を兼ねては、いますが、それが本題ではありません。

本題は、このニュース・サイトに掲載されていた、連載企画であるブログ冒頭の記事です。

私は、この記事に興味をひかれたので、読了後すぐにコメントしました。

本日は、まずはそのコメントの内容を以下に掲載します。
私は、経営学を専攻はしませんでしたが、学生の頃からドラッカーの書籍を読んで、感動し経営学がドラッカー氏が語っているようなことを意味するのであれば、経営学は本当に役に立つと確信しています。
特に、最近では、企業内の資料である『新・時流人』という会長のお言葉をまとめた、書籍の原稿を執筆しましたが、その時にも非常に役にたちました。会長の言葉の真の意味が、ドラッカーの書籍ではこういうふうに掲載されているという具合に確認することができました。

執筆した書籍の表紙

書籍ができあがってから、結局書籍の八割が、表現は異なるものの、ドラッカー氏のいう経営の原理原則であり、後の二割が、会長ご自身の哲学のようなものということに気付きました。
しかも、会長自身は、あまりドラッカーの書籍を読んでいるといこともないようでしたので、経営には原理原則というものがあるという結論に至りました。
しかしながら、こうした会長が原理原則を自らの経験を踏まえて、誰にでも解りやすく平易な言葉で語っていたことには、改めて感動を覚えました。いくら原理原則を知っていても、それを本当に理解してもらうには、ただ原理原則を語れば良いというものではありません。多くの人々に理解できる言葉や、事例を用いなければ、誰も納得しません。
最近もドラッカー氏の"Management revised edition"を読みましたが、構成や力点の置き方が多少異なり、事例などが新しいものに置き換わっているものもありましたが、原理原則はそのままで、今でも十分に通用するもであると思いました。
経営学か全く役にたたないという方は、ドラッカー氏の書籍を読んだことがないか、読んだとしても、その本質を理解していないということではないかと思います。あるいは、教える側にも問題があって、うまく伝わらないだけではないかと思います。
そうして、ドラッカー氏の書籍を読んでいて感じるのは、まさに、経営に法則や定理はないということです。こんなものがあったら、誰も苦労しません。しかし、それでも原理・原則はあるということです。
そうして、原理・原則に従い日々の問題に取り組めば、それを知らないよりは、はるかに様々な事柄に対処しやすくなります。
私は、多くの人々がドラッカー氏が語っていたような、経営学の本質を学べば、社会は随分変わってくると思います。
私は、経営学という学問を正式に学んだことはありませんが、ドラッカー氏を抜いて現代の経営学を語ることはできないと思います。

ドラッカー氏のように、経営学の原理・原則について考えぬいた人はいないのではないかとさえ思っています。
ドラッカー氏


なぜなら、現在であれば、多くの人々が、ドラッカー氏のマネジメントにおける原理・原則を下敷きとして、様々な現象を説明したり、理解したり、積み上げたりすることが容易にできますが、その下敷きを創った人がドラッカーです。

ドラッカー氏以前にも、マネジメントについて考えた人は大勢いますし、先人の研究があったからこそ、ドラッカー氏もマネジメントの体系化ができたのではありますが、どれも部分的であって、全体像に関して考察して、体系化したのはドラッカー氏がはじめてだからです。

今の私達は、このようなものがすでにあるのですから、マネジメント関連のことで、いろいろ考えたり、疑問などがあった場合には、他の書籍や、コンサルタントにあたる前に、まず一度はドラッカー氏の書籍を熟読するべきと思います。

熟読すれば、必ずそこには、すくに役立つことや、すぐにではなくても、いずれ役に立つ原理原則がみつかるはずです。無論、特定の事柄にすぐに役立つ法則や定理などはみつかりませんが、多くの事柄に適用できる、珠玉の原理原則が散りばめられていことに気づくはずてす。

そうして現代の私達が最も気をつけなければならないことは、ドラッカー氏の語る以下の言葉です。
知識ある者は、常に理解されるように努力する責任がある。知識労働者は、直接にものを生産するわけではない。
生みだすアイデアや情報を誰かに使ってもらうことで、いわば間接的に生産する。だから、市場を理解すると同時に、組織における上下左右の人間が何を必要としているかを知らなければならない。さらに、自分のアイデアの内容や情報の価値を彼らにわかってもらう事が不可欠だ。
現在の仕事は、従来から比較すると、どの仕事も高度な知識労働となっています。だから、多かれ少なかれ、どの人の仕事もある程度以上は専門的になっています。現在では、ある人の仕事は、別の人にとっては、すぐに理解できるような簡単なものではありません。

特定の専門的知識を有する人々の中だけで、話が通じて事が足りるということはないのです。多くの人々にわかってもらえなければ、専門化した現在の知識は全く役に立たないのです。だからこそ、伝えることが本当に重要になってくるのです。

私は、そう思います。皆さんは、どう思われますか?

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2010年10月19日火曜日

孫も驚く元気ぶり!インドで100歳男性が大学院入学―【私の論評】ドラッカーやミケランジェロのように長生きで充実した人生の秘訣は?

孫も驚く元気ぶり!インドで100歳男性が大学院入学

ボララム・ダスさん
16日に100歳の誕生日を迎えたインド人のボララム・ダスさんがこのほど、北東部アッサム州にあるガウハーティ大大学院の博士課程に入学した。

17日、AP通信が伝えた。インドで最高齢の学生という。反英独立運動に参加し、投獄経験も持つダスさんは1947年の独立後、弁護士や裁判官として活躍、6人の子供に恵まれた。

孫たちも驚く元気な“おじいちゃん”の研究テーマはヒンドゥー教のネオビシュヌ派という。

【私の論評】ドラッカーやミケランジェロのように長生きで充実した人生の秘訣は?
100歳の大学院生はすごいですね。バララム・ダスさん上で書いてある以外の経歴はわかりませんが、大学院修士課程卒か、あるいは大学院にその程度の学力があると認められたのでしょうね。100歳になっても、未だ、学びたいという精神。素晴らしいの一言につきます。

この方もすごいですが、このブログにも良く掲載するドラッカー氏もすごいです。ドラッカー氏は、100歳まで生きはしませんでしたが、それでも長寿でした。


ドラッカー(1909年11月19日 - 2005年11月11日)は、オーストリア・ウィーン生まれのユダヤ系経営学者・社会学者。もとは「ペーター・フェルディナント・ドリュッカー」(Peter Ferdinand Drücker)。父・アドルフ・ドリュッカー(ウィーン大学教授)と母・ボンディの間の子で、義理の叔父に公法学者・国際法学者のハンス・ケルゼン(母方の叔母・マルガレーテ・ボンディの夫)がいます。

もともと、ドリュッカー家(ドラッカー家)はオランダにいたポルトガル系ユダヤ人(セファルディム)の家系で、「ドルカー」(Drucker)と呼ばれていた。後にオーストリアに移住し、「ドリュッカー家」(Drücker)と、ドイツ語風に改めました。

何と、95歳で亡くなられたました。そうして、晩年まで勢力的に活躍をされました。ドラッカー氏は、あるメディアのインタビューで「今ままでの著作で、ご自分ではどれが最高傑作と思われますか」と問われて、「次の作品」だと応えていました。ドラッカー氏としては、過去のことに満足することなく、常に次の作品をさらによくしようと努力していたということです。

概して、このような考え方をして、日々努力を続ける人は、長寿でありそれだけではなく、充実した人生を送っているようです。常に自分に対して高い目標を設定しているようです。

いつも、ドラッカーのことばかり書いていると飽きられてしまうので、本日は別の方の話をします。それは、これまたドラッカー氏が絶賛するあのミケランジェロです。

ミケランジェロの傑作の一つブリュージュの聖母:ブリュージュ、ノートル・ダム聖堂

ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni, 1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリアルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。名前はミカエル(Michael)と天使(angelo)を併せたもの。西洋で最も巨大な絵画の一つとも言われるバチカンのシスティーナ礼拝堂の天井フレスコ画や『最後の審判』、パオリーナ礼拝堂にある『聖ペテロの磔刑』、『パウロの改宗』を描いたことでよく知られています。もともとは彫刻家であり、『ピエタ』や『ダビデ像』等の傑作のほかにも『バッカス』、『モーセ』、『ラケル』、『レア』などが有名である。バチカンの『サン・ピエトロ大聖堂』の設計者でもあります。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンティとともにルネサンスの三大巨匠と呼ばれます。ミケランジェロは長命であり、作品も盛期ルネサンスの時代から、マニエリスムの時代への移り変わりを示しています。また躍動的な表現は、次のバロックの時代を準備したといわれます。

何と、89歳まで生きられたのです。現代であれば、この程度長生きする人は珍しくはないですが、この時代では稀だったと思います。さて、ミケランジェロの来歴などについては、以下のURLからみていただくとして、


本題にはいります。このミケランジェロ自身の詩があります。

私たちのほとんどが
真に恐れるべきことは
人生の目的が高すぎて
手が届かないことではなく
目標が低すぎて
簡単に手が届いてしまうことである

ミケランジェロは最晩年の89歳の高齢になってもなお、彫刻刀と絵筆を振るい、詩作し続け、デッサンの手を休めませんでした。

そうして、彼も、過去の作品ではなく、次の作品が最高傑作になると語っていたそうです。決して、過去に満足せず、高い目標に向かって歩みをとめることはなかったのです。

その彼がもっとも訴えたかったことも、この有名な詩にあるように「高い志を掲げよ」ということに尽きるのではないでしょうか。ドラッカー氏も若い頃にこの詩を読んで大感激して、自らもこうした生き様をしようと決心したそうです。

本当に恐れなければならないことは、無謀な高望みをすることではなく、希望を捨てたり、安易な希望に甘んじたりして、実際にその希望達成の努力をする前から、心の中で安易に目標や志を引き下げてしまうことではないでしょうか。

ドラッカーも、ミケランジェロを含む数人のこのような人を尊敬し、自分もそうありたいと著書の中で語っており、本当にそのような生き様をされたと思います。そうして、上の記事の100歳の大学院生も同じ事だと思います。弊社の会長も、常々「人生死ぬまで勉強」と語っておられます。表現は異なりますが、いいたいことは、おそらく、ドラッカーやミケランジェロと同じなのだと思います。

私も、これらの先人のように、常に高い目標を持ってこれからの人生を歩みたいものです。


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2013年3月29日金曜日

[注意] 「学生時代は遊んでおけ」というアドバイスは真っ赤な嘘―【私の論評】イケダハヤト氏言う「ポータブルなスキル」が必要だという指摘は本当だ!!ドラッカー先生も言っている!!

[注意] 「学生時代は遊んでおけ」というアドバイスは真っ赤な嘘

イケダ・ハヤト


社会人の中には未だに「学生時代は遊んでおけ!」みたいなアドバイスを与える人がいますが、あれは嘘です。

ポータブルなスキルを身につけろ

学生時代に遊んでいてもよかったのは、企業が新卒人材を育成する余裕があった、幸せな時代の話です。

企業の体力がなくなってきていること、長期雇用が一般的ではなくなりつつあることなどを要因に、企業は新卒学生にも「即戦力」を求めるように変化してきています。

    このため文科省は11月、経済同友会などの企業側と大学側が参加する懇話会を設置し、この席で企業側から 「大学教育の中で、即戦力となる人材を育ててほしい」と要望が出されていた。

    経済同友会の担当者は「長引く不況で研修費を削らざるを得ず、研修が最低限ですむ即戦力を求める傾向が強くなった」と分析している。 


 この記事の続きはこちらから!!



【私の論評】イケダハヤト氏言う「ポータブルなスキル」が必要だという指摘は本当だ!!ドラッカー先生も言っている!!


さて、上のイケダ・ハヤト氏の意見は、本当です。私も、最初は特に「ポータブルなスキル」というフレーズがよくわからなかつたのですが、これは知識ということです。知識ということで考えると、イケダ・ハヤトさんの言っていることは何も、新しいことでも何でもなく、ドラッカー氏がそれこそ、何十年も前から言っていることです。

しかし、知識と言ってもピンとこない方もいらっしゃるかもしれません。なぜなら、まだまだ多くの人達に知識のことが理解されていないからです。本日は、それも含めて掲載させていただきます。

まずは、ドラッカーの言う知識とは何かということを理解しなければ、イケダ・ハヤト氏のいう「ポータルなスキル」を理解できないと思います。

ドラッカー氏


ドラッカー氏の言う知識とは? 

ドラッカー氏は、知識は、本の中にはないと言います。本の中にあるのは情報のみであると・・・・・。知識とは、それらの情報を仕事や成果に結びつける能力のことです。そして知識は、人間、すなわちその頭脳と技能のうちのみに存在するというのがドラッカー氏の主張で。さらにドラッカーは「知識は事業でもある」とも指摘し、物やサービスは、企業が持つ知識と、顧客が持つ購買力との交換の媒体であるにすぎないということも見抜いていました
 

そして企業は、人間の質いかんによって、つくられも壊されもする人間組織だとしています。労働はいつの日か、完全にオートメ化されるところまで機械によって行われるようになるかもしれません。しかし、「知識は、すぐれて人間的な資源である」と知識の重要性トコトン強調しています
 

また、人間能力に関しては、ほかの者と同じ能力を持つだけでは十分ではなく、そのような能力では、事業の成功に不可欠な市場におけるリーダーの地位を手に入れることはできないとしています。そこで、他に抜きん出ること、すなわち、卓越性だけが利益をもたらすとし、さらに純粋の利益は、こうしたエクセレントな力でイノベーションを果たす革新者の利益だけであるとも言っています





しかも経済的な業績は、すべて差別化の結果であるとしています。したがって、差別化の源泉、および事業の存続と成長の源泉は、企業の中の人たちが保有する圧倒的に優れた独自の知識であるとしています。
 

こういう文脈でいうと、ドラッカーの言う「知識」とは、イケダハヤト氏の言う、「ポータルブルなスキル」そのものであり、それをさらに超える概念であることがわかります。とはいいながら、現代人にとっては「ポータブルなスキル」という表現はわかりやすいです。知識とは、知識労働者の頭の中にだけ存在するものです。知識労働者が、他の会社に移動したとしても、その知識を持っていれば、他の会社で十分通用します。しかし、日本の会社のように、会社独自の慣行があり、その会社の中でしか通用しない知識は、知識とも呼べないものだと思います。

 「知識労働者自身」に上下はない

かねてから知識労働者(ノウレッジ・ワーカー)の台頭を重視してきたドラッカーは、その本質やあり方について、しばしば随所で言及しているが、特に「知識労働者自身」に上下はないと語っています
 

この言葉に続いてドラッカーは、高級な知識、低級な知識というものはないからだと、この発言の理由を説明しています。知識の評価については与えられた仕事に関して適切か適切でないかがあるだけだと喝破し、しかも課題解決自体によって必要とされる経験や予算によって、その従事者の組織内のランクは決まるといっていっています。


よく様々の事柄を医者にたとえるのが好きなドラッカーは、さらに、眼病には眼科医が適切であり、胆嚢の切除にあたるのは腹部専門の外科医だとも述べています。したがってドラッカーは、知識労働を中心とした組織は、権威や権力志向の組織ではなくて、課題解決や目的によって規定されるべき業績志向組織を必要とすると結論づけています
 

さて、ドラッカーは知識労働者について、もう一つ大事なことを説いています。それは、優れた仕事をするためには、常に努力をしなければならないという点についてで
 

「ようやくできた」とか「辛うじて成し遂げた」などという言い方は、知識労働では物の役に立たないと厳しく突き放しています。いつも腕の冴えを示せることが、卓越した知識労働者のあり方だとしています。そして、仕事への貢献度の向上を絶えず意識の最先端へおいて、腕を磨くことを片時も忘れないでいるべきだとしています。

 
 

したがって知識労働者の動機づけは、その効果性に―――つまり、どれだけ効果をあげることができるかということに依存するところが大きいとしています。だから、もしその仕事が十分効果的でない場合には、知識労働者自身の働く意欲も、組織目的に貢献する意欲もやがて枯渇し、午前九時から午後五時まで、期待された動作をただ単に繰り返すご都合主義者に堕してしまうと訴えています。
 

ということは、マネジメントする立場からいえば、その努力と成果に対して、厳しい要求をすべきことを意味しますが、他方、知識労働者のほうも自らの職務上の充足感と刺激の有無に対して高い要求をすべきであるとドラッカーは述べています




しかも知識労働者自身に当を得た意思決定をさせるには、課題での成果と、どういうやり方でその達成をすべきかをよく知らせておかねばならないとしています。自分の知識と技能と作業が、いかに企業全体に寄与するのかがわからなければ、自分自身をマネジメントしたりモーティベートし得ないとしています
 

したがって、知識労働者が非常に立派な業績をあげている組織では、どこでもトップが一定の規則的なスケジュールに従って、特に時間をさいて知識労働者たちとテーブルを囲んで座り、寛いで話し合うことをしていると指摘しています。
 

これを欠くような場合は、知識労働者は働く意欲を失って、上述したような単に時間に縛られて働く人間になり下がるか、その精力と関心をごく狭い専門分野にのみ向けてしまって、組織自体の持つ機会や要求するところからは、ますます離れていってしまうかのどちらかになってしまうとしています。  

イケダハヤト氏にもドラッカーを是非読んでいただきたい 
イケダハヤト氏の論考など、このブログでも時々掲載させていただいています。それは、表現が今風でありながら、ドラッカー氏のマネジメントの原理・原則を踏まえているからです。今まで、私が読んだイケダハヤト氏の論考は、この原理・原則から離れているものはほとんどありません。

だから、少々残念な気がします。イケダハヤト氏は、おそらく、ドラッカーは読んでいないか、読み込んでいないと思うのです。もし、読み込でいたら、ドラッカーの知識という文脈と「ポータブルなスキル」に関して、さらに深い論考と、考察ができるのではないかと思います。

それにしても、彼の論考は、非常に今風なので、非常にわかりやすく、現代のマネジメントを考える上で、かなり役にたちそうです。本日の例でも、特に若い世代に対しては、「知識」などというよりは、最初は「ポータブルなスキル」と言ったほうが、ドンピシャとわかってもらえるのではないか思います。確かに、新卒などどこの会社での、「ポータブルなスキル」をいくつか持っていてほしいものです。


これから、若い世代に「知識」の重要性を語るときに、「ポータブルなスキル」という言葉も使っていこうと思います。

こうした若い世代の言葉、論考もよく熟知しておけば、特に若い世代に対して話をするときに、互いに理解が深まると思います。そう思うのは、私だけでしょうか?皆さんは、どう思われますか?

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2021年3月14日日曜日

大河で注目の渋沢栄一とドラッカーに見る「困難な時代を生き抜く知恵」―【私の論評】中国は古代に「論語」を、米国は2000年あたりからドラッカーの思想を忘れ去り、現在の世界は混沌としている(゚д゚)!

大河で注目の渋沢栄一とドラッカーに見る「困難な時代を生き抜く知恵」


 2024年に新一万円札の顔となる渋沢栄一。今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、主人公にもなり、幕末から明治までのその生涯を描いている。

 「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一のことを「ビジネスの本質を理解していた人物」として、高く評価していたのが経営学者のピーター・ドラッカーである。

 ビジネスに対する考え方や、変化の大きな時代に成果をあげたという点でも、この二人は共通点が多い。そして、共に物事の本質を見極めた人たちでもある。

 渋沢栄一とドラッカーに見る「困難な時代を生き抜く知恵」

 変化の時代といえば、今がまさにそれだ。新型コロナウイルスの影響で世界的に経済や社会が混迷し、先行きを見通すのは不可能に近い。ただし、どんな時代であっても、未来創造のためのキーワードは「変化を機会としてとらえよ」だ。知恵次第では、これまでにはなかったチャンスを見つけることもできる。

 『渋沢栄一とドラッカー 未来の創造の方法論』(國貞克則著、KADOKAWA刊)では、正解のない時代にビジネスと向き合った渋沢栄一とピーター・ドラッカーから、未来を切り開く方法と心構えを学べる一冊。知っての通り、渋沢栄一の生きた明治初期は激動の時代だった。

 その時代に、渋沢栄一は西洋のカンパニーという仕組みを使って、当時の日本にはなかった新しい事業を次々に生み出し、社会的イノベーションを起こした。一方、ドラッカーは「マネジメント」という言葉さえほとんど使われていなかった時代に、人類史上初めてマネジメントという分野を体系化した。

 二人はともに、高く広い視点で時代が要請するものを見極めていた。

 当時の日本は、西洋による植民地化を避けるために、富国強兵を旗印とし、産業の育成が急務だった。渋沢は、明治という時代が求めるありとあらゆる事業を設立していく。

 まず、事業に融資をするという日本で初めての銀行を設立。次に製紙会社を設立した。明治になって税は紙幣で納めることになり、全国の義務教育の学校が設立され、教科書が必要となったからだ。明治初期という時代は、大量の紙が必要になった時代だったのだ。

 ドラッカーも常に社会全体という視点でものを考えていた。19世紀までの人類の大半は、職人や農民など、個人で働いていた。それが20世紀になると、人類の大半が組織で働くようになる。そういう社会になれば、組織のマネジメントがうまく機能しなければ人類は幸せになれない。そういう時代の要請がドラッカーをマネジメントの研究に向かわせたのだ。

 二人とも、高く広い視点で時代が求めているものを見極め、行動した。他にも、「本質を見極めていた」「誰もやっていない新しい道を歩むことを決意した」という点も二人の共通点であり、新しい未来を創造できた要因となっている。

 どんな時代でも、物事の本質は変わらない。本質がわかっていれば、大きな変化の時代であっても、何を考え、どう行動すればいいのかわかる。新しい時代を創り上げてきた渋沢栄一とドラッカーは、未来を創っていく世代の今のビジネスマンにとっても、学ぶことが多いはずだ。(T・N/新刊JP編集部)

ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2021/03/post_213297.html

【私の論評】中国は古代に「論語」を、米国は2000年あたりからドラッカーの思想を忘れ去り、現在の世界は混沌としている(゚д゚)!


P・F・ドラッカーは『マネジメント』の序文で渋沢を名指しし、「私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は“責任”にほかならないということを見抜いていた」と高く評価しました。実際、渋沢栄一は自伝『現代語訳 経営論語 渋沢流・仕事と生き方』において、次の章句を引きながら企業の社会的責任に言及しています。
もし博(ひろ)く民に施して能(よ)く衆を済(すく)う有らば如何(いかん)。仁(じん)と謂(い)うべきか。

子曰(いわ)く、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。

孔子の時代は今日のように商工業が盛んではなかったため、『論語』には商工業についての方法、すなわちいかにして商品をつくり売ればよいか、また商業道徳はいかなるものかということが一切説かれていない。しかし、仁は道徳の基本であるから、人と人とが接し、また国家を治めるにも、みな仁が基本になると考えれば、当然実業においても仁が基本となる。政治にも個人日常の交際にも仁が必要なのに、実業にのみこれが不要ということはない。

私は会社を経営するにあたっても、当事者が利するだけではいけないと考える。会社の利益を追求するのは当然であるが、同時にこれによって公益を追求しなければならないと信じ、今日までその方針で万事にあたってきたつもりである。これは、孔子が『論語』に説いた広義の仁を、現代の日本で実地に行おうとする意思によるものである。(208~210ページ)
論語は、孔子と彼の高弟たちの言行や問答を、孔子の死後に弟子たちが記録した書物です。『孟子』『大学』『中庸』と合わせ、儒教における「四書」の一つに数えられています。第15代応神天皇の時代に、百済の王仁(わに)という人物によって朝廷に献じられ、日本に伝えられたとされています。

512の短文が全20篇で構成されており、律令時代には官吏必読の書となりました。以来千数百年にわたり、儒教思想の真髄を伝えるものとして後世に大きな影響を与えてきました。その学説が今日に伝えられ、今なお尊重されているのは、その所説が偉大な真理を説いているからである――渋沢はそう指摘しています。
私は明治初年以来、『論語』を守り本尊として、その遺訓を遵奉し、道を間違わないように心がけて今日に至っている。研究すれば研究するほど、孔子の人格・才能が偉大であり、また『論語』の真理が正しく強靭であることを実感して、孔子の教訓を選んだことを喜ぶものである。(265ページ)
論語は渋沢にとって、道徳の教科書ではなく、実践のための学問だったのです。渋沢の事業観、人生観を通じて、論語の真髄を学びとることができる本書は、渋沢自らが著した貴重な一冊でもあります。

ただ、後に述べるように、儒教の礼教と、「論語」そのものは、似ても似つかいない別物です。渋沢は、儒教とは全く関係なく「論語」の真髄を学んだのです。

渋沢栄一

そうして、ドラッカーは現在の米国で、「論語」は現代の中国ではすっかり忘れ去られています。このことが、今日米中の社会が安定しないことの大きな一因となっていると私は思います。

実際、ドラッカーの経営学は現代の米国ではすっかり忘れ去られているようです。ドラッカーが亡くなったのは、2005年11月11日です。まだ20年もたっていないというのに、この貴重な財産が米国では忘れ去られているのです。

1998年の米国経営学会(AOM)でピーター・ドラッカーが基調講演をしています。つまりこの当時、ドラッカーは米国の経営学界、すなわちアカデミア(学問の世界)において重鎮だったことを示しています。

しかしそれ以後、急速にドラッカーが顧みられなくなっています。つまりドラッカーは、2000年代以降、米国のアカデミアで主流となった「世界標準の経営学」には該当しないと見なされ、忘れられたのです。

なぜここまで、忘れ去られてしまったのでしょうか。恐らく、ドラッカーはとても核心的なことを言っているのでしょうけれども、因果関係には、あまり言及しなかったからかもしれません。

確かに、ドラッカーの経営学においては、マネジメントの役割は何かであるとか、そのためにマネジャーは何をすべきかといった実践論が多いです。確かに、因果関係の分析に必要な、データとか、グラフなどドラッカーの論文や著書にはほとんどありません。

初期の著書『創造する経営者』には、多少のグラフやデータも掲載されていたと思いますが、それもほんの僅かでした。それ以降は、ほとんどありません。一方で、今の経営学者の多くは、因果関係の解明に最大の関心を持っているので、目的に合わないのかもしれません。

現代の「世界標準の経営学」における「因果関係の解明」とは、要するに、XとYの関係を計量分析で解明する、というようなことです。いわば因果関係を、関数に置き換えるのです。

定量的な分析ばかりしていると、徐々にそうでないものが理解できなくなってくるところがあります。つまり、XとYの関係でしか物事を考えられない頭になっていくのです。

何か物語のようなものを読んでいるときでさえ、「この人のこの行動においては、何が変数Xであり、何が変数Yであるのだろう」と読むようになってくるところがあり、曖昧に終わる文学作品の余韻なんて、味わえなくなります。

そのような頭でドラッカーを読むと、因果関係を示すような記述がないので、だんだんと困惑してくるというか、何を言っているのかが分からなくなってくるのでしょう。

実際、『マネジメント』という書籍を紹介して、感想を聴くとそのような感想を応える人も多いです。「マネジメント」という言葉を聴くと、単純に「PDCA」サイクルなどを思い浮かべ、そのサイクルに基づき、様々な計量的分析をするのが「マネジメントの原理」であると最初から考えているようで、とにかく「マネジメント」を最初から単純なものと考えているようです。

ドラッカー

そういう人からすると、ドラッカーの『マネジメント』は、宗教の経典のようにみえてしまうようなところがあるようです。そのため、あまり物事を考えず、字面だけ追ってしまい、面白さとか、自分の実体験に対照するのが困難なようです。

現在の「世界標準の経営学」で戦う研究者たちの世界では、そこまでは単純化はしてはいないのですが、計量分析のような科学的な作法を身に付けなければ、実績が出せない、一方で文脈の理解能力はさほど求められないようです。

経営学は当初、いろいろな学問の影響を受けて混沌としていたのが、徐々に数学寄りになってしまったようです。

米国の場合は、ビジネススクールが巨大化したのいうこともあるようです。ビジネススクールの教授は、ビジネス系の学術誌に論文を出して掲載されないと、終身雇用が得られないし昇進もできないようです。米国のビジネススクールランキングが、さらに拍車をかけました。大学の制度の影響は、多分にあるようです。

こうした、現在の「世界標準の経営学」における経営学者たちは、マネジメントを本質は何なのかを忘れているように思います。

ドラッカーはその著書『マネジメント』で以下のように述べています。
企業をはじめとするあらゆる組織が社会の機関である。組織が存在するのは、組織それ自体のためではない。社会的な目的を実現し、社会、コミュニティ、個人のニーズを満たすためである。組織は目的ではなく手段である。したがって問題は、その組織は何かではない。その組織は何をなすべきか、あげるべき成果は何かである。(ドラッカー名著集(13)『マネジメント─課題、責任、実践』[上])
あらゆる組織が、人を幸せにし、社会をよりよいものにするために存在する。ドラッカーは、「そのようなことは考えたこともないと言える組織は、修道院とギャングだけだ」といいます。

資本主義なのだから利益を上げなければならないといいます。しかし、利益を上げることが目的なのではありません。組織が人と社会のための手段であると同じように、利益もまた、人と社会のための手段なのです。

人を幸せにし、社会をよりよいものにするには、組織がよい仕事をしなければならなのです。財・サービスを提供して物的な豊かさをもたらさなければならないです。それだけではなく、人を生き生きと働かせ、人の心に豊かさをもたらさなければならないのです。

そのために、組織は、明日さらによい仕事をしなければならない。そしてそのためには、利益を上げなければならないのです。

不景気のなかにあって伸びていく企業は、皆そのようにマネジメントしています。景気がよくて誰でも利益を上げられた頃は、利益、利益と念仏を唱えるだけでよかったのでしょうが、今日のような不景気になると、利益、利益と言っていたのでは、存続さえ怪しくなります。

わが社の使命は何かを考えなければならないのです。それを当然のこととしていては、何も始まらないのです。顧客は誰か、顧客にとっての価値は何か、われわれにとっての成果は何かを考えなければならないのです。

同時に、社員には敬意を払い、自己啓発を応援し、会社に貢献してもらい、それを認めるのです。当然、社会に害をもたらすことなく、社会にも貢献しなければならないのです。
マネジメントには、自らの組織をして社会に貢献させるうえで三つの役割がある。自らの組織に特有の目的とミッションを果たす。仕事を生産的なものとし働く人たちに成果をあげさせる。自らが社会に与えるインパクトを処理するとともに社会的な貢献を行なう(『マネジメント』[上])
このようなことを忘れてしまえば、それも社会の機関である企業のマネジメントを論ずる経営学者がそれを忘れて、数学的な分析ばかりしていれば、それは社会に貢献できないばかりか、混乱をもたらすことになるでしょう。

このブログにも以前掲載したように、米国の分断はドラッカー流の見方が忘れ去られたことにも原因があると思います。現代米国にドラッカー流の考え方が息づいていれば、社会がイデオロギーによって大きく分断されることはなかったのではないかと思います。そもそも、社会の分断を因果関係だけで、数学的に分析しても、修復できるほど単純なものではありません。

ドラッカーのいう「マネジメント」を理解して、それを基盤として、社会を変えていくという努力はできると思います。ドラッカーはマネジメンを社会の機関であるとしていて、当然のことながら、社会分析もかなり実践しています。私自身は、ドラッカーの思想が忘れ去られるということ自体が、キャンセル・カルチャーの一種ではないかと思います。

一方「論語」の精神も、中国ではるか以前に忘れ去られたということがえます。孔子は、人生経験が豊富な常識人ではありますが、いわゆる哲学者でもなければ聖人でもなく、宗教家や「教祖様」のような存在とはなおさら無縁の人間でした。

そして『論語』という書物は、人生の指南書として大いに読むべきものであっても、哲学の書であるとは言えないし、いわゆる聖典でもなければ宗教の教典でもありませんでした。

実は、後世において誕生し成立した儒教は、孔子を「教祖」と祭り上げながらも、実際には孔子や『論語』とは関係の薄い教学でした。

儒教は、「教祖」あるいは「始祖」とされる孔子が没して三百年も経ってから教学として成立したというのはいかにも異様です。

そうして孔子や『論語』と儒教の隔たりは、時間的間隔だけでありません。実は孔子の生きた中国史上の春秋時代と、儒教が成立した前漢時代とはまったく異質の時代であって、政治体制も社会の仕組みも完全に違っています。

孔子像

実際、孔子が『論語』の中で何度も述べているように、彼自身が政治制度としてもっとも推奨しているのは周王朝のそれであり、要するに前漢時代とはまったく異なった封建制なのです。

孔子が生きていた春秋時代は、中国史上の封建制時代です。当時、中国大陸には周王朝の王室を頂点とした封建制の政治システムが成立しており、周王朝を宗主国と認める各諸侯が天下を分割統治していました。そして孔子の死後に始まった戦国時代に各諸侯国が戦いと併合を繰り返した結果、紀元前221年に七つの大国(戦国七雄)の一つである秦国が他の列強を滅ぼして天下を統一し、中国史上初めての統一帝国である秦王朝を樹立しました。

秦王朝は周代以来の封建制を廃止して、中央集権制の政治システムを作り上げ、皇帝一人が官僚を手足のように使って全国の土地と人民を直接支配するようになりました。

結局のところ、漢代に成立した儒教は、「孔子と『論語』の思想を継承した」云々というよりも、むしろ孔子の名声を悪用して、孔子・『論語』とはほとんど関係のないところで自分たちの教学を作り上げただけのことです。孔子と儒教、そして『論語』と儒教とは、最初から別々のものなのです。

『論語』には、人間性の抑圧や人間の欲望の否定を唱える言葉は何一つなければ、ましてや女性の「守節」や「殉死」を奨励するような表現はどこにも見当たりません。

そのかわりに、孔子が『論語』のなかで盛んに語っているのは「愛」(仁者愛人)であり、「恕(よ)」(思いやりの心)であり、親の気持ちを大事する意味での「孝」なのです。

『論語』はたしかにさまざまな場面で「礼」を語り、「礼」を大事にしています。しかし、『論語』の語る礼はどう考えても、儒教の礼教が人間性や人間的欲望の抑制に使うような厳しい社会規範としての「礼」とはまったく異なります。

『論語』の語る「礼」とは要するに、相手のことを心から大事にする意味での「礼」であって、人間関係を穏やかにするためのものです。

そこには、人間的温かみがありこそすれ、儒教の礼教の唱える人間抑圧の匂いはいっさいありません。後世の礼教の残酷さ、冷たさと比べれば、『論語』から感じられるのは、むしろ優しさと温かさです。『論語』と儒教礼教とのあいだにはどう考えても、何の共通点もありません。

つまり、『論語』が儒教の礼教と何の共通点もないのと同じように、『論語』はそもそも儒教とは何の関係もなく、孔子は別に儒教の創始者でもない、ということです。

ドラッカーの思想は、忘れ去られたのですが、「論語」の教えは、忘れ去られるどころか、捻じ曲げられ、皇帝一人による独裁制に利用されたのです。

その伝統は現在の中国にも受け継がれ、今でも社会を混乱に陥れているのです。実際、中国は古代王朝を設立しても、次の王朝が設立されると、王朝間には何のつながりもなく断絶しているというのが現実です。現代の中国は古代王朝とは全く関係のない、設立してから72年の新興国です。

中国はもともと「論語」を教えを曲解して、社会が混乱したまま現在にいたり、米国では2000年代において、ドラッカーの思想を忘れさり、両国は混乱するようになり、それが現在の世界の混沌に結びついているともいえます。

これは、両方ともキャンセル・カルチャーといえるのではないでしょうか。このキャンセル・カルチャーが存在せず、中国が「論語」の教えを忘れず、米国ではドラッカーの思想が忘れ去られていなければ、現在の世界はもっと安定したものになっていたのではないでしょうか。

我が国では、幸運なことにこの2つの思想がまだ息づいています。私達としては、これを忘れないでいるだけではなく、さらに発展させていくべきです。

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2012年2月29日水曜日

もしかして“仕事をしたつもり”になってない?−【私の論評】原点はドラッカーに!! 読むなら原点を読もう!!

もしかして“仕事をしたつもり”になってない?

□ 結構、一生懸命仕事している
□ まわりもそれを認めていて、非難する人はいない
□ でも、成果があまり出ない
これに当てはまる人、いませんか? 正直、私はちょっとドキッとしました。

毎日くたくたになるまで働いて、その努力は認めてもらえても、結果が出せない……。自分は違うと思っていても“仕事をしたつもり”を意外とやってしまっているかもしれません。

なぜこのようなことになってしまうのでしょうか?

『仕事をしたつもり』によると、ルールや体裁を整えることこそが自分の仕事になってしまっていること、さらにそれに疑問を持たないことが原因とのこと。

例えば、会議。何枚もの凝った資料を作成するより、1枚の箇条書きの資料を用意し、空いた時間を考えることに費やすほうが有用なのではないでしょうか。例えば、おしゃれなお店の地図。デザイン重視のため、なかなかお店にたどり着けず、結局検索し直すことになっていませんか。

などなど、この他にもよく考えてみれば無駄だなあと思うことが、本書には多々事例として載っていて、「確かに……」と読み終わった後、ぐうの音も出ませんでした。

何も考えずに仕事をしたつもりでいれば、失敗しても咎められることはなく、残業するからお金も沢山もらえ、頑張っているように思わせることができるので、“仕事をしたつもり”は根深い慣習になっているようです。

でも、一見良いことづくしで得をしているようなこの状況は、ほんの目先の話で、今後転職や独立など転機を迎えたとき、仕事生活を全うできるかは不安がよぎります。

この甘い蜜を吸っている状況に危機感や退屈感を持った人は、どうすればいいのでしょうか。それは、
・「なぜ」としつこく考えること
・そもそもの目的はなんなのか前提を考えること
この2つを日々意識することだそうです。当たり前のことのようですが、意外と忘れがちかもしれません。

皆さんも“仕事をしたつもり”から抜け出してみませんか?

【私の論評】原点はドラッカーに!! 読むなら原点を読もう!!

さて、上の記事は書籍『もしかして"仕事ををしたつもり"になってない?』の内容を掲載したものですが、これを読んでいてすぐに、ピンときたのですが、これは、結局ドラッカーが著書でいっているところの、『貢献』ということだと理解できました。結局、いくら働いたとしても、上司、同僚、部下そうして会社あるいは顧客に貢献しなくては、何にもならないという、ある意味当たり前といば、当たり前のことです。




しかし、上の書籍では、この「当たり前」のことが意外とできていないことを主題としているのだと思います。この時点で、私には、全くこの書籍に対する興味を失いました。なぜなら、この書籍を読むくらいならドラッカーの『マネジメント』を読見返したほうが、はるかに価値があるように思えたからです。


特に、いわゆるマネジメントに関するものでは、ほとんどの書籍がドラッカーの焼き直しのようなものです。ドラッカー氏が残した書籍を超えるようなものはほとんどないと思います。そうして、いわゆ体系として掲載されている書籍に関しては、ドラッカー氏を超えることはないと思います。表面的には、なにやら新しいことを掲載されてるように見えても、結局は、ほとんどがドラッカーの焼き直しで、事例が新しいに過ぎません。


これを納得していただくため、ドラッカー氏の書籍から、『貢献』という言葉が含まれているものをいくつかピックアップしておきます。どの文章も、いくつかの書籍から私自身がまとめたものです。しかし、考え方はすべてドラッカー氏のものです。




〈知識労働者と貢献〉
組織の活動や業績に実質的な貢献をなすべき知識労働者は、すべてエグゼクティブである。組織の活動や業績とは、企業の場合新製品を出すことであり、市場で大きなシェアを獲得することである。病院の場合は、患者に優れた医療サービスを提供することである。組織のそのような能力に実質的な影響を及ぼすために、知識労働者は意思決定をしなければならない。命令に従って行動すれば良いというわけにはいかない。自らの貢献について責任を負わなければならない。




〈管理者について〉
管理者の仕事は、組織の目標によって規定される。しかも実体がなければならない組織の成功に対し、目に見える貢献を行わなければならない。管理者の仕事は、極力大きなものにしなければならない。明示的に制約されない限り、あらゆることについて権限を持つものとしなければならない。

彼らの仕事は上司ではなく、仕事の目標によって方向づけされる。それは、組織が遂行すべき課題のゆえに存在する。ほかに理由はない。事業全体の成果を指し示し、ここのところは私が貢献したと言えなければならない。情報の中継点にとどまってはならない。



〈組織の優劣について〉
組織の優劣は、平凡な人間をして非凡なことをなさしめるか否かにある。企業がどれほどのものかは、それら3つの問いに社員のどれだけが、なんのためらいもなく、即座にイエスと答えられるかによって知ることができる。その問いとは、

「あなたは敬意をもって遇されているか」「あなたは貢献するうえで必要な教育訓練と支援を受けているか」「あなたが貢献していることを会社は知っているか」である。

どのように、優れたビジネスモデルにしても、組織構造にしても、人のエネルギーがあってこそのものである。だが、そのためには最高の力を発揮してもらい、最大の貢献をしてもらうための手立てを講じなければならない。



〈組織の精神について〉
“業績への貢献”を企業の精神とするためには、誤ると致命的になりかねない“重要な昇進”の決定において、真摯さとともに、経済的な業績を上げる能力を重視しなければならない。致命的になりかねない“重要な昇進”とは、明日のトップマネジメントが選び出される母集団への昇進のことである。それは、組織のピラミッドが急激に狭くなる段階への昇進の決定である。

そこから先の人事は状況が決定していく。しかし、そこへの人事は、もっぱら組織としての価値観に基づいて行なわれる。重要な地位を補充するにあたっては、目標と成果に対する貢献の実績、証明済みの能力、全体のために働く意欲を重視し、報いなければならない。

さて、これはドラッカーの書籍から、『貢献』というキーワードを含んでいる文章わたしが恣意的にいくつかピックアップしたものです。ドラッカーの書籍には、この『貢献』ということばが頻繁にでてきます。

そうして、皆さん私の言いたいことはもうおわかりでしょう。この書籍などの著者の方々には、商売の邪魔をしているようで申し訳ないのですが。やはり、読むならドラッカーを読みましょうということです。たとえば、上の書籍きっとわかりやすく書いているのだとおもいます。

だから、とっつきやすくて最新は良いかもしれません。しかし、上記の書籍では、おそらく、マネジメントの一部分をピックアップしているのみで、全体を体型的に述べているわけではないと思います。だから、書いてある事例のときは良いかもしれませんが、ドラッカーの書籍のように、体型的に原理原則が書かれているわけではありません。であれば、いずれ、読んでも忘れてしまうことのほうが多いと思います。しかし、ドラッカーの書籍の場合は、全体像が浮き彫りにされています。特に、「マネジメント」はそうだと思います。後から何度読み返してもまた、新しい発見があったりします。

いずれにしても、かなり多くの書籍が結局部分的にドラッカーの書籍を局面ごとに焼き治して、ドラッカーの書籍とは異なる事例を掲載して一見理解しやすそうにみせているだけといっても過言ではありません。

だからこそ、ドラッカーを読むべきと思います。皆さんは、どう思われますか?



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