天皇陛下の誕生日を祝う「茶会の儀」で乾杯される天皇、皇后両陛下(2020年2月23日) |
世俗の権力から一定の距離を置き、ひたすら国民の安寧を祈り続ける天皇という存在は、世界に唯一無二の奇跡的な存在です。そのことに、世界の国々が敬意と憧れを持っているのです。
事実、ギネスブックにも、日本の皇室は「世界最古の王朝」と記録されています。
上皇陛下から天皇陛下への譲位は、第119代光格天皇以来、約200年ぶりだったことが注目されました。日本人にとっては“たった200年前か”という感覚の人もいるかもしれませんが、世界の歴史を振り返ってみるとたとえば、太平洋の向こうの米合衆国は建国そのものから250年も経っていないのです。
世界の外交の常識で言えば、総理大臣よりも、大統領よりも、国王よりも、エンペラー(天皇、皇帝)が最も“格式”が高いのです。首相や大統領はその時代の国民に選ばれた代表であり、国王は王家を継いできた人ですが、エンペラーは国の文化や宗教などを含めたもの、つまり“文明の代表”という位置づけになります。
20世紀まではドイツやオーストリア、エチオピアなどの国でエンペラーを名乗ることがありましたが、長い歴史の中でずっとエンペラーであり続けたのは日本の天皇だけです。今の世界の主要国の中で、エンペラーはたった1人、日本にしか存在しないのです。
皇室がこれほど長い歴史を保てたこと自体が国民から敬愛されてきたことの証です。
海外では、フランスやロシア、イランなど国民による革命によって王室が廃絶に追い込まれたケースも少なくありません。日本も終戦後に皇室廃絶運動やクーデターが起きても不思議ではありませんでした。しかし、昭和天皇は戦争で焼け野原になった全国各地をすすんで巡幸され、国民はそれを大歓待しました。
戦争で苦しみ、指導者に対する恨みや憎悪が高まる国も多いですが、日本人は“普通の国”とはまったく違う反応をしたのです。
「普通ではない」反応を引き出したのは、昭和天皇の人柄だったといいます。
昭和天皇は巡幸に際し、質素な庶民的な洋服をお召しでした。「国民は着るものに不自由しているのに、自分だけがいい服を着て国民の前に立てない」と配慮されたのです。
1947年広島に行幸された昭和天皇 奥に広島ドームが見える |
そうした天皇の存在を、古来、日本人が敬愛し続けていること、そうした天皇と国民の関係が、世界の多くの国で敬意を持って受け入れられているのです。
諸外国にとって、天皇という存在は比較対象のない非常に特殊な存在です。しかし、その異質な存在を中心に日本の人々は精神的に充実した生活を送っています。
今日では企業のマネジメントはグローバルに行われる。世界は、たとえ政治的には分かれていようとも、需要、欲求、価値の観点から見たとき、一つのショッピングセンターになった。そのため企業にとっては、国境を越え、生産資源、市場機会、人的資源を最適化すべく、自らをグローバル化することが、経済の実体に対する正常かつ必然的な対応となった。(ドラッカー名著集(13)『マネジメント─課題、責任、実践』[上])
市場がグローバルになったために、あらゆる経済活動がグローバルに行なわれるようになり、かつ、企業そのものがグローバルな存在になりました。一国の文化、慣習、法律にとらわれることなく、グローバル経済において成果を上げるべき存在となりました。
もちろん、今日は行き過ぎたグローバル化に反対の声もあがっています。しかし、自由貿易の優位性に気がついた人類は、完璧にグローバリズムを捨て去ることは困難です。これからも、自由貿易は継続していくことでしょう。
ところが、そのために、事態がおそろしく複雑になりました。じつは、マネジメントは、それ自体が文化的な存在たるべきものです。しかもそのマネジメントが、それぞれの文化を生産的なものにするという役割を持ちます。つまり、自らが文化でありつつ、文化の道具とならなければならないのです。
マネジメントは、個人、コミュニティ、社会の価値、願望、伝統を生産的なものとしなければならないです。もしマネジメントが、それぞれの国に特有の文化を生かすことに成功しなければ、世界の真の発展は望みえないのです。
ここでドラッカーは、世界は日本に学ばなければならないといいます。ドラッカーに言わせれば、今世界は、世界的な規模において、明治維新の必要に直面しているといいます。
コミュニティの伝統と天皇制を含む独自の価値観を近代社会の成立に生かしたことこそ、他の非西欧諸国が近代化に失敗したなかにあって、日本だけが成功した原因だといいます。
明治天皇 |
インドは、インドの西洋化を試みて失敗しました。ペルシャはペルシャの西洋化を試み、ブルガリアはブルガリアの西洋化を試みて失敗しました。現在においても、発展途上国から先進国に転身した国は、日本のみです。ところが、その日本は、日本の西洋化を試みもしせんでした。日本は、「和魂洋才」という言葉に象徴されるように、西洋の日本化を行なったために成功しました。それが明治維新でした。
つまるところマネジメントは、急激にグローバル化しつつある文明と、伝統、価値、信条、遺産となって現れる多様な文化との懸け橋にならなければならない。文化的な多様性が人類の繁栄の実現に資する上での道具とならなければならない。(『マネジメント』[上])
一方「変わらないもの」はドラッカーの言う文化と言われるものです。より大きな括りでいえば、文明です。
「変わるもの」と「変わらないもの」を見極めるのは簡単なようで実は難しいです。多くの人が、変わらなければいけないのに、変わらないものにこだわって、新しい時代から取り残される例は歴史に枚挙のいとまがありません。
一方、変えてはいけないものを変えてしまう失敗も人類は多く犯してきました。上でも述べたように、文化そのものを変えようとして、本質からずれて衰退していった例もたくさんあります。
それでは、どうすればこの両者の違いを間違えることなく、正しい判断ができるのでしょうか。
そのためには謙虚な心が必要です。両者の判別がつかない人の心には「常に自分が正しい」という強い自己中心性が存在しています。最近の極端なポリティカル・コレクトネスにも、それがみられるようです。
謙虚な心こそドラッカーの言う「真摯さ(integrity)」なのです。この真摯さを忘れた、統治者が「変えてはならないもの」まで変えて全体主義に走るのです。一方日本では変えてはならないものの守護者が天皇なのです。
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