大原麗子さん 死去
警視庁成城署幹部によると、大原さんの弟が、大原さんとしばらく連絡が取れなくなったことから、同署に同日届け出て、署員が駆け付けたところ、寝室のベッドの上で大原さんが死亡しているのが確認された。遺体の状況から、死後2週間以上が経過しているとみられるという。事件に巻き込まれた可能性はないとみられ、同庁で詳しい死因を調べている。
大原さんは東京都出身。1964年、NHKの新人オーディションに合格。テレビドラマ「幸福試験」でデビューした。65年、東映に入社し、「孤独の賭け」で映画デビュー。「網走番外地」シリーズなど数々の作品に出演、「男はつらいよ」では2度マドンナ役を務めた。
市川崑監督の「おはん」(84年)、木下恵介監督の「新・喜びも悲しみも幾歳月」(86年)など話題作にも出演。同作では山路ふみ子女優賞を受賞した。
テレビでは、NHKの大河ドラマ「勝海舟」「獅子の時代」に出演、「春日局」では主役を務めた。このほかTBSの「くれない族の反乱」「浮浪雲」なども話題になった。「すこし愛して、なが~く愛して」のせりふが話題になったサントリーのCMなどにも多数出演。愛らしい表情としっとりとした風情の日本美人として、何度もテレビの好感度タレントのNo.1になった。
'83-90 大原麗子CM集 vol.2
女優の大原麗子さん(62)が東京都世田谷区の自宅で亡くなっていたことが6日、わかった。
73年に渡瀬恒彦さんと結婚、78年に離婚。80年に森進一さんと再婚したが84年に離婚した。99年から2000年にかけ、手足の神経がマヒして歩行などが困難になる「ギラン・バレー症候群」の治療のために芸能活動を一時休止した。
サントリーのCM「すこし愛して なが~く愛して」の名セリフで知られる女優、大原麗子(62)が11日深夜、東京・世田谷区の自宅ガレージで転倒し、右手首骨折と膝を打撲する重傷を負っていたことが14日、分かった。大原は9年前、手足に力が入らなくなるギラン・バレー症候群を患って以来、仕事をセーブしていた。
大原麗子、壮絶闘病生活を告白 していた・・・
最近、テレビや映画でめっきり姿を見せなくなっていた大原。あの甘えた声とキュートな笑顔が懐かしい今日このごろ、昨年の11月中旬に飛び込んできたのは、大けがのニュースだっでした。
物を取りにいったガレージで足もとがふらつき、転倒。右手首の骨を2カ所折り、都内の病院へ救急車で運ばれ、翌日退院したといいます。
転んだのは平らな場所だが、99年に発症した「ギラン・バレー症候群」と闘っていた大原。急速に腕や脚の筋力が低下し歩行障害などを引き起こす病気で、昨年6月には俳優の安岡力也(62)が、同3月には元外相の川口順子氏(67)もかかっている難病でした。
最悪の結果になってしまいしまた。大原麗子さんのご冥福をお祈りいたします。
女優大原麗子さんは「かわいい女」の代名詞だったと思います。しかし、女優としての顔は多彩でした。高倉健さんらと共演した「網走番外地」シリーズの不良少女から、映画「おはん」の魔性の女まで、さまざまな役を演じ分け、独特の存在感を発揮しました。
一方で、1984年に歌手の森進一さんと離婚した際には「仕事をやめたくなかった」「家庭に男が二人いた」「慰謝料をもらう立場ではない」などと語り、一度決めたら後ろを振り返らない潔さを見せました。
多くの人の記憶に残るのは、和服姿でぷっとほっぺたを膨らませ、かすれた声で甘えるようにささやいたウイスキーのテレビCMでしょう。「すこし愛して、ながーく愛して」。その言葉どおり、多くの人に長く愛されました。 そうして、これからも愛されていくことでしょう。
一つの時代の象徴か?次の世代はどうなるのか?
私は、大原麗子さんは一つの時代の象徴であり、彼女が亡くなったことは非常に残念ですが、まるで一つの時代が終わったことの象徴のように思えてなりません。
まずは、彼女はいわゆる団塊の世代の代表でした。団塊の世代(だんかいのせだい)とは、第二次世界大戦直後の日本において、1947年から1949年までのベビーブームに生まれた世代をいいます。戦後第一次ベビーブーム世代とも呼ばれます。第二次世界大戦後の日本の歩みと人生を共にしており、またその特異な人口構成ゆえに、良くも悪くも日本社会の形成に大きな影響を及ぼしている世代です。
この世代の父が、第二次大戦終結に伴って復員したため、自ずと婚姻と出生人口がこの時期に重なりました。
1948年までは一部の例外を除き一般の避妊・中絶・不妊手術は法律で禁止されていました。1948年に優生保護法によって限定的に容認し、翌年の1949年の改正で「経済的な理由」での中絶も容認する事になったため出生率の増大に歯止めがかかり、1950年度以降は出生率が低下していきました。
このため、日本においては、1947-1949年に生まれた人口が突出する結果となりました。作家の堺屋太一が1976年に発表した小説『団塊の世代』で、「団塊の世代」が日本社会に及ぼす大きな影響が一般社会にも認識されました。
以前このブログにも掲載しましたが、団塊の世代よりも下の世代の橋下知事と、東国原知事との間には、共通点があります。この共通点は、それ以前の団塊の世代とはまた違います。
この二人は、新人類という共通点があります。新人類とは、従来のメインカルチャーに反旗を翻し、新しい感性や価値観を打ち出した、1955年から1969年までに生まれた世代、中でも1960年代前半生まれの人々を指して、マスコミが使用した呼称です。
しらけ世代に当たる1950年代後半生まれを「初期新人類」、狭義の新人類に当たる1960年代前半生まれを「中期新人類」、バブル世代に当たる1960年代後半生まれを「末期新人類」と呼ぶ場合もあります。東国原知事は、新規新人類、橋下知事は末期新人類ということになります。
新人類は、成熟した成人として、社会を構成する一員の自覚と責任を引き受けることを拒否し、社会そのものが一つのフィクション(物語)であるという立場をとるとされまし。音楽でもテクノポップの流行など、社会的にも無機質な変容が感じられた時代に、高尚な哲学や思想を語ることも、一種のファッションとしての地位を得ました。しかし、評論家の竹熊健太郎は、オタクと新人類は同一のものであり、「同じ人格類型のバリエーション」であると唱えています。私も、やはり、表に出る形式が違うだけで、同一であるとの立場です。
さて、団塊の世代である大原麗子さん、若い時代にはいわゆる「六本木野獣会」にも属していて、それまでの日本人とは異なるライフスタイルを確立していました。この世代は、若い頃に「ヤング」と呼ばれた、最初の世代でもあります。この世代は、圧倒的に数が多いため、この世代の考え方が、「世の中」を代表するもの、世の中の中心というように思われていました。それは、団塊の世代の人々が時折口にする「自分達がいつまでも世の中の中心と思っていてはいけない」という言葉に象徴されます。他の世代では、たとえその世代がいわゆる働き頭の年代にある時期にあったとしても、自分達が世の中の中心とは思っていないし、これからもそうでしょう。この世代が若いときに、学生運動がはなざかなりだったこともそうした考えを象徴しています。この世代は、その父親達の世代が古いタイプの日本人であり、古いタイプの価値観を堅持していたため、その価値観とのぶつかりあいにおいて、新たな価値観を築こうともがいていて、それが、他の世代であれば、あそこまで盛り上がりを見せることもないのに、圧倒的に人数が多いということにより、あのような状況になったのだと思います。これは、世界中で共通しており、ドラッカー氏などは、こうした学生運動の動きなどを「人数か多かっただけ」ということで統括しています。
こうした、新しい側面を持つ団塊の世代ですが、やはり、文化的には古い日本人の側面を残していたと思います。そうして、それを良くも悪くも少なくとも一時は、完全に身につけていたと思います。身につけるように躾けられたと思います。新しい価値を生み出したり、新しい考えを主張するためには、古い考え方・規範・価値観を理解して、その中である期間生きていなければ、できることではありません。そういう意味では、この世代は古日本の価値観を実践しているかどうかは別にして、子どものころ叩き込まれた最後の世代ということができます。
もう一方で、この世代の特徴として、戦後の誤った個人主義、平等主義、自由主義に最も影響を受けた世代でもあるということです。だから、非常に矛盾しているところがあります。大原麗子さんにも、そうしたとてころが見受けられます。和服を着ると素晴らしく似合い、「少し愛して、長~く愛して」などといういわゆる「かわいらしい女」の側面がありながら、結婚してもすぐ離婚して「男が二人一つの家庭にいた」などという名台詞を残しています。これは、大原さんより上の世代の八千草薫さんなどには、見られない特徴だと思います。
結局この世代は、古い価値観と、新たな価値観、さらには、明らかに誤った価値観の中のせめぎあいの中に生きていて残念ながら、あるいは、必然的に、この世代全体を統一するような新たな価値観や、規範などを打ち立てることはできなかったのだと思います。そのため、個人の中でも分裂しているし、個々人の間でも分裂しているだと思います。ただし、こうした分裂こそが、新しい価値観なのかもしれません。もともと、豊かな社会では、大衆などというものは存在せず、経済的にも、規範や価値観などでも、いくつかに分かれるのが当たり前のことです。いままでの日本が特殊だったのだ思います。しかし、それまで集団主義的であった日本人の中に良くも悪くも、個、個人という概念を植えつけることができたという意味で、この世代の働きは大きく、大原麗子さんはまさにその象徴だったと思います。
しかし、これ以前の世代と、この世代との共通点もあます。それは、どんな階層の人でも一時的にしろ、結構長い時期に渡るのかあるいは、程度は別としていわゆる「貧困」を経験しているということです。これは、現在の日本の貧困層などのものとは異なる、自分達の努力や考え方などとは全く別にして、貧困生活を余儀なくされ、その程度もかなりものということで共通点があります。
この世代と話をしていると、個々人によって表現は違うものの、でてくるのは「貧困」の話です。大変だった、苦労したという話が必ずでてきます。苦労話をいろいろ語るという特徴があります。これは、その後の時代の世代と異なります。これは、当たり前のことだと思います。この世代が育った時代には、戦争は別にしても、1930年代のアメリカの世界恐慌が尾を引いた時代ですし、しかも、戦争によって日本が焦土化し、誰もが貧困であった時代を経験しています。貧困でなかった人など例外中の例外で、ほんの一握りの運の良い人だけでした。
それ以降の世代では、無論貧困を経験している人もいるでしょうが、その規模と深刻さは、及ぶべくもないと思います。ほんの一握りの人だけが、貧困ではなく、99%もの人が貧困だったということです。
さて、その後の世代は新人類と呼ばれ、それからときを経て、今や新人類という言葉は死語になっています。つまり、団塊の世代と新人類との間には、大きな違いがあったのですが、いわゆる新人類以降の世代と、新人類世代との間には、目だって大きな違いもなくなってきたので、特に区別する必要もないので、死語になったしまったのだと思います。その共通点は、大きくいえば、本当の意味での自分の意思ではどうにもならない貧困をほとんど経験していないということです。
さて、良くも悪くかも、今までは、団塊の世代の価値観が幅を利かせてきました。しかし、時がたつにつれ、いわゆる新人類と新人類より下の世代が増えてきました。団塊の世代と、団塊の世代以下の世代という対比をすると、今や圧倒的に以下の世代が多いわけです。
しかし、今後は団塊の世代の価値観が幅を訊かすような時代は、終焉します。いや、もうすでに終わっているのかもしれません。だからこそ、今回の大原麗子さんが亡くなったことは一つの時代の終焉を象徴しているような気がします。
われわれは、間違いなく、時代の変化の中にいるのです。おそらく、現在は、金融危機の影響の真っ只中にいてそのことが見えにくくなっているだと思います。団塊の世代で個という概念を植えつけられた日本人はどうなるのか、どんな時代になるかは、まだはっきりしませんが、これからは、行き過ぎた個人主義へのぶり返し、反省がくると思います。
多くの日本人が社会に対して目覚めていくと思います。社会という概念と集団という概念は違います。まともな社会は、まともな個人主義が根付いた社会に立脚するものです。集団主義とは、個人主義とは無縁です。それに伴い戦後の誤った個人主義、平等主義、自由主義が廃されて、新しい時代に相応しいことと、その言葉の持つ本来の意味を体現するような、個人主義、平等主義、自由主義が確立されていくのではないかと思います。それと同時に、いわゆる成熟した社会に入っていくのではないかと思います。しかし、忘れてはならないのは、今日私達が、こうした新しい世界への糸口をつかむことができるのも、団塊の世代の多くの価値観のせめぎあいがあったからだということ、まさに、大原さんは、それを象徴する人であることです。
新しい社会のあり方は、現在は顕在化しているものは少ないですが、徐々に目に見えるようになり、これから5年後には顕著になってくるものと思います。そうしたときには、いろいろな価値観や規範が変わり、私達の生活に様々な影響を及ぼしていくものと思います。そうした中では、ビジネスのやり方も変わっていくでしょう。このへんについては、ここで書いていると長くなってしまうので。いずれまた機会を改めて、掲載します。
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