立憲民主党の蓮舫代表代行は2021年1月27日の参院予算委員会で、菅義偉首相に「もう『自助』を口にするのはやめてもらいたい」と質した。
菅首相は「やはり、まずは自分でできることは自分でやってみる。そして、家族や地域で支えてみる。それでもだめだったら、必ず国や地方団体がしっかり支えてくれる。そうした社会にしたいというなかで、最後は国のセーフティーネットもある」とした。 「自助、共助、公助」は社会保障における普遍的な概念
菅首相が、自民党総裁選で「自助、共助、公助」をいったが、これは従来から言われていることだ。立憲民主党の野田佳彦元首相も、首相当時国会で「自助」の大切さを答弁した。
枝野幸男立憲民主党は、昨年10月の菅首相の所信表明演説に対する、枝野氏の代表質問で、「自助、共助、公助」に対して時代遅れと批判した。
しかし、枝野氏は、2005年7月の国会で、「生活保護という仕組みは、本来は、なければない方が望ましい制度なんだ。まさに自助、共助、公助」と発言している。さらに、民主党政権時代の税と社会保障一体改革は、「自助、共助、公助」が前提で作られている。こうした過去の発言との整合性を考えて、時代遅れとしたのだろうが、これは時代に関係のない話であることを理解していない。はっきりいえば、「自助、共助、公助」は社会保障における普遍的な概念だ。
まず、助ける人と助けられる人がいる。助けられる人は、直接的と間接的に分けられる。つまり、社会保障の各分野において、国民は、助ける人、助けられる人(直接的)、助けられる人(間接的)のどれかになる。さらに、助けられる人(間接的)は、民間組織によるものと公的組織によるものに分けられる。
助ける人のところを「自助」、助けられる人(直接的)と助けられる人(民間組織による間接的)のところを「共助」、助けられる人(公的組織による間接的)を「公助」という。
これでわかるように、社会保障では「自助、共助、公助」は当然の話であり、「自助」をなくしたら、助ける人がいなくなるので、社会保障が成り立たなくなる。
国会では自助・共助・公助の「バランス」を取り上げるべき
民主党政権の時の「税と社会保障一体改革」には、「自助・共助・公助の最適バランス」と書かれているくらいだから、民主党政権時に閣僚だった蓮舫氏も知らないはずないだろう。
もちろん「自助・共助・公助の最適バランス」は重要な論点なので、国会ではバランスを取り上げるべきだ。そこには、野党は自公政権と違う価値観があり、それを堂々と国民に示すべきだ。
しかし、自助をなくせなどというのは、論外の愚論なので、国会で話すべきことではない。そうした議論を繰り返す限り、普遍的な考え方もわからない立憲民主党となって、とても政権運営を任せられるはずない。
いくら内閣支持率が下がったといっても、肝心の自民党支持率はさほど下がっていない。というのは、野党の政党支持率が高まっていないからだ。
政権が持つかどうかは、内閣支持率ではなく、「内閣支持率+政党支持率」だ。それによれば、マスコミが煽るほど、菅政権は追い込まれていない。それは野党のせいでもある。
++ 高橋洋一プロフィール
高橋洋一(たかはし よういち) 内閣官房参与、元内閣参事官、現「政策工房」会長
1955年生まれ。80年に大蔵省に入省、2006年からは内閣参事官も務めた。07年、いわゆる「埋蔵金」を指摘し注目された。08年に退官。10年から嘉悦大学教授。20年から内閣官房参与(経済・財政政策担当)。著書に「さらば財務省!」(講談社)、「国民はこうして騙される」(徳間書店)、「マスコミと官僚の『無知』と『悪意』」(産経新聞出版)など。
菅首相は「やはり、まずは自分でできることは自分でやってみる。そして、家族や地域で支えてみる。それでもだめだったら、必ず国や地方団体がしっかり支えてくれる。そうした社会にしたいというなかで、最後は国のセーフティーネットもある」とした。 「自助、共助、公助」は社会保障における普遍的な概念
菅首相が、自民党総裁選で「自助、共助、公助」をいったが、これは従来から言われていることだ。立憲民主党の野田佳彦元首相も、首相当時国会で「自助」の大切さを答弁した。
枝野幸男立憲民主党は、昨年10月の菅首相の所信表明演説に対する、枝野氏の代表質問で、「自助、共助、公助」に対して時代遅れと批判した。
しかし、枝野氏は、2005年7月の国会で、「生活保護という仕組みは、本来は、なければない方が望ましい制度なんだ。まさに自助、共助、公助」と発言している。さらに、民主党政権時代の税と社会保障一体改革は、「自助、共助、公助」が前提で作られている。こうした過去の発言との整合性を考えて、時代遅れとしたのだろうが、これは時代に関係のない話であることを理解していない。はっきりいえば、「自助、共助、公助」は社会保障における普遍的な概念だ。
まず、助ける人と助けられる人がいる。助けられる人は、直接的と間接的に分けられる。つまり、社会保障の各分野において、国民は、助ける人、助けられる人(直接的)、助けられる人(間接的)のどれかになる。さらに、助けられる人(間接的)は、民間組織によるものと公的組織によるものに分けられる。
助ける人のところを「自助」、助けられる人(直接的)と助けられる人(民間組織による間接的)のところを「共助」、助けられる人(公的組織による間接的)を「公助」という。
これでわかるように、社会保障では「自助、共助、公助」は当然の話であり、「自助」をなくしたら、助ける人がいなくなるので、社会保障が成り立たなくなる。
国会では自助・共助・公助の「バランス」を取り上げるべき
民主党政権の時の「税と社会保障一体改革」には、「自助・共助・公助の最適バランス」と書かれているくらいだから、民主党政権時に閣僚だった蓮舫氏も知らないはずないだろう。
もちろん「自助・共助・公助の最適バランス」は重要な論点なので、国会ではバランスを取り上げるべきだ。そこには、野党は自公政権と違う価値観があり、それを堂々と国民に示すべきだ。
しかし、自助をなくせなどというのは、論外の愚論なので、国会で話すべきことではない。そうした議論を繰り返す限り、普遍的な考え方もわからない立憲民主党となって、とても政権運営を任せられるはずない。
いくら内閣支持率が下がったといっても、肝心の自民党支持率はさほど下がっていない。というのは、野党の政党支持率が高まっていないからだ。
政権が持つかどうかは、内閣支持率ではなく、「内閣支持率+政党支持率」だ。それによれば、マスコミが煽るほど、菅政権は追い込まれていない。それは野党のせいでもある。
++ 高橋洋一プロフィール
高橋洋一(たかはし よういち) 内閣官房参与、元内閣参事官、現「政策工房」会長
1955年生まれ。80年に大蔵省に入省、2006年からは内閣参事官も務めた。07年、いわゆる「埋蔵金」を指摘し注目された。08年に退官。10年から嘉悦大学教授。20年から内閣官房参与(経済・財政政策担当)。著書に「さらば財務省!」(講談社)、「国民はこうして騙される」(徳間書店)、「マスコミと官僚の『無知』と『悪意』」(産経新聞出版)など。
【私の論評】これが野党第一党の、代表代行が話す内容?立憲がまともな経済対策もコロナ対策も安保も提言できないのは当然(゚д゚)!
2021年1月27日の参院予算委員会での菅総理に対する質問は、常識超えた酷さというにつきます。これについては、政治学者の岩田温氏が動画でかなりの批判をしています。その動画を以下に掲載します。
蓮舫氏のバカさ加減については、何も今始まったことではないので、やはり馬鹿だったということで、このこと自体にはさらに説明するなどしません。政治学者岩田氏が語っているように、蓮舫氏は菅総理の外野応援団なのかもしれません。このようなことを後数回繰り返せは、菅政権の支持率はかなりあがることになるでしょう。
田母神氏が「電車の中で、高校生二人が、蓮舫てほんとに馬鹿だなと、話していたと」昨年の11月くらいにツイートしていましたが、まさにそのとおりです。本当に愚かです。
ただ、上の高橋洋一氏の記事にもあるように問題はそれだけではありません。野党第一党の代表代行の地位にあるものが「自助、共助、公助」の区別もつかないのは本当に問題です。
「自助・共助・公助」、実はこの言葉はずいぶん以前から使われており、特に菅総理が新しく言いだしたわけではありません。特に社会保障分野においては「自助・互助・共助・公助」として4つに分けるのが一般的です。
これについては年金、介護、医療等々、様々な分野でこうした区分けによる考え方が存在するのですが、特にに年金分野では主に「老後の生活を支える手段及び考え方」として、この4つの“助”が使われています。
そもそも公的年金制度が出来たのは歴史的にみれば、そんなに大昔のことではありません。現在の厚生年金法の前身は戦時中の1942年6月に施行された「労働者年金保険法」ですが、最初は民間企業で現業に従事する男性が対象でしたた。
その後、女性や事務系の労働者にも適用が拡大されたのは1944年であるからほぼ終戦の頃といっても良いです。さらに国民年金法によって1961年に国民年金がスタートし、現在の国民皆年金制度となりました。
ではそれまではサラリーマンが定年退職した後はどうやって生活していたのかと言うと、基本は自分で老後に備えた資産作りをすることでまかなっていたわけです。さらに、戦前は長子相続によって長男が親の遺産を相続する代わりに年老いた親の老後の生活を見るというのが一般的でした。
言わば基本は「自助」ですが、子供が親の面倒を見る、あるいは親戚や地域で助け合うという「互助」の仕組みが普通だったのです。
こうしたことを考えると、戦中・戦前の日本は、まさに新自由主義的だったともいえると思います。
ところが戦後、高度成長時代となり、地方から大都市へ働きに行く若者が増えたことで核家族化し、大家族制を維持し、子供が親の面倒を見るというのは実質的にできなくなりました。
そこで老後の面倒は社会全体で見るべきであるということで誕生したのが「共助」である公的年金制度なのです。
公的年金が「公助」だと勘違いしている人もいますが、それは少し違います。「公助」とは、そういった助け合いの仕組みからも漏れてしまった人たちを最後に救うための手段であり、言わばセーフティーネットの役割です。
1つの例を挙げれば「生活保護制度」などがこれにあたります。「共助」である公的年金制度は、そのメリットを享受する人たちが互いにその費用を負担し合うのが基本です。すなわち公的年金の本質は「保険」ですから、保険料を払った人だけが年金を受給する権利があるのが当然なのです。
よく言われるのは「公的年金」の役割は“防貧”、すなわち年をとって働けなくなった時に収入がなくなって貧困に陥ることを防ぐのが最大の目的であるとされます。
これに対して生活保護などの「公助」は言わば最後の砦であり、その重要な役割は“救貧”すなわち貧困に陥ってしまった人たちを救うことにあります。生活保護の原資は保険料ではなく税金です。
最初から生活保護を受けることを目的にしている人などいないわけでですから、保険料などというものが存在しないのは当然です。何らかの理由で保険料も払えず、公的年金が支給されなくなってしまった人を救うには当然、国民全体で負担している税でまかなうのが自然な姿です。
したがって、「老後の生活を支える」という目的を考えると、現在の社会において、一番の基本は「共助」ということになります。昔、「共助」が無かった時代は「互助」(子供や家族、親族が支える)が中心でしたが、社会構造の変化と共に「共助」がその役割の中心を担うことになったと言えるます。
これは年金だけではありません。介護も昔は家族の経済的負担が大きい「互助」が中心だったのですが、次第にそれが困難となってきたので、2000年に「介護保険」が誕生したのです。
現在はもはや「互助」という機能はごく限定的となっているため「自助・共助・公助」と言い換えても差し支えないでしょう。あくまでも土台となるのは制度的には「共助」ですが、それ以上に自分で豊かな老後をおくりたいと考えるのであれば「自助」によって資産形成をすれば良いし、仮に共助の枠組みから外れてしまう人に対してはセーフティーネットである「公助」が起動し始めるというのが社会保障全体の仕組みなのです。
したがって「自助・共助・公助」を社会保障の面に限って言えば、ど真ん中に「共助」が来て、その両脇を残りの2つが支えるという構図となるでしょう。
ここまで話してきたのはあくまでも社会保障、とりわけ「老後の生活保障」という観点での話です。菅総理が言う「自助・共助・公助」にはもちろん社会保障の面が含まれてはいるでしょうが、もう少し広い意味で社会のあり方、社会のデザインを意図してのことでしょう。そう考えるのであれば、まず真っ先に「自助」が来るのは当然のことです。
なぜなら、そもそも人が生きて生活を営む上においては、まず自らが働くことが第一であるのは言うまでもないからです。したがって最も大事なことは誰もが働ける内は、そして働く意思があれば長く働くことができ、しかも満足できる報酬を得ることができるようにすることです。
そのために大切なことは経済が成長し、企業が収益を上げられるようにすることが重要です。「自助」という言葉の裏に隠された重要なキーワードは「経済の成長」なのです。日銀の金融緩和政策、政府の財政政策やその他の政策の推進も、規制改革もそのための手段であるに過ぎません。
もちろん、すべての人が生きていく上で全てを「自助」でまかなうことは不可能です。高齢で働けなくなったり、病気になったり、あるいは介護を受ける必要が出てきた時には「共助」という仕組みを使うことになります。
但し、この共助=社会保険という仕組みは、社会全体で負担をまかない、必要な人にサービスを届ける“保険”の役割であるから、その便益を受ける人が一定の費用負担をすることは当然です。
ところが、不幸にしてそうした費用負担すらできなかったという人たちもいます。そうした人たちに対して最後に機能するのが「公助」なのです。これは前述したようにまさにセーフティーネットであり、具体的には高齢者福祉や虐待の防止といった人権擁護の対策、そして生活保護といった、生きていく上での最低限の生活保障が「公助」の役割なのです。
したがって、社会全体の構造や自分の生き方を考えた場合、まず「公助」が最初に来るというのはあり得ないことです。前述のように「公助」の財源は保険料ではなく税金です。
税収を増やすためには経済が成長し、個人のベースにおいては給料が上がることは不可欠です。そのために、(1)労働市場に参加する人を増やす(女性の活躍推進や高齢者の就労拡大)、そして(2)生産性の向上(DX、規制改革)、を基本的な施策として据えているのが菅内閣の目指す方向です。
前内閣時の政策や今後やろうとしている施策を見ても、間違いなくこの方向が見て取れる。「自助・共助・公助」というのはそういう流れの中で考えておくべきです。
高橋洋一が主張するように、「自助・共助・公助の最適バランス」は重要な論点なので、国会ではバランスを取り上げるべきです。そこには、野党は自公政権と違う価値観があり、それを堂々と国民に示すべきです。そもそも、「自助」という言葉で一国の首相を攻撃できると思う人間は、この世に滅多に存在しないと思います。ましてや、それが倒閣につながると考えているとしたら、これはもう、酔っ払って正気をなくしているか、気が触れているとしか思えません。
しかし、自助をなくせなどというのは、論外の愚論なので、国会で話すべきことではありません。しかも、このような発言を野党第一党の、代表代行がするというのですから、見識も常識も何もあったものではありません。そもそも、国政に関する基本認識が狂っているのですから、これでは経済やコロナ対策、安保などをまともに考えられないのも当たり前です。
しかし、自助をなくせなどというのは、論外の愚論なので、国会で話すべきことではありません。しかも、このような発言を野党第一党の、代表代行がするというのですから、見識も常識も何もあったものではありません。そもそも、国政に関する基本認識が狂っているのですから、これでは経済やコロナ対策、安保などをまともに考えられないのも当たり前です。
現在は、コロナやバイデン政権の誕生、中国の台頭、憲法問題など、国会で論議すべきことはたくさんあります。その中で「自助」をなくせという質問で首相を攻撃している暇などないはずです。
ただ、こうした政治家は、蓮舫などの野党だけではなく、自民党にも多いというのが実情です。蓮舫のように、表だって、首相を糾弾するなどということはないのですが、基本的な「自助・共助・公助」の意味を良く理解していないので、簡単に財務省等に煽られて、増税などに賛成してしまうのだと思います。
これらが、ただの言葉としてではなく、体系的に頭に入っていれば、別に難しい経済理論など知らなくても、積極財政や緊縮財政や、金融緩和や金融引締の実施すべき時など、常識的に認識できるはずです。本当残念なことです。
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