彼らはなぜ「格差」を無視し続けるのか
「横」を見るだけでは不十分
2017年にノーベル文学賞を受賞した小説家カズオ・イシグロ氏の、あるインタビューが各所で大きな話題になった。
そのインタビューが多くの人から注目されたのはほかでもない――「リベラル」を標榜する人びとが自分たちのイデオロギーを教条的に絶対正義とみなし、また自身の感情的・認知的好悪と社会的正義/不正義を疑いもなくイコールで結びつける風潮の高まりに対して、自身もリベラリズムを擁護する立場であるイシグロ氏自身が、批判的なまなざしを向けていることを明言する内容となっていたからだ。
カズオ・イシグロ氏 |
〈俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。平時には多様性の尊さや重要性を謳っているはずのリベラリストたちが、他者に向けて画一的な価値体系への同調圧力を向けていること、彼・彼女らと政治的・道徳的価値観を異にする者の言論・表現活動に対して「政治的ただしさ」を背景にした攻撃的で排他的な言動をとっていることなど、まさしく現代のリベラリストや人文学者たちが陥っている自己矛盾を、イシグロ氏は端的に指摘している。
私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。(中略)
小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。リベラル側の人たちはこれまでも本や芸術などを通じて主張を行ってきましたが、そうでない人たちが同じようにすることは、多くの人にとって不快なものかもしれません。
しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です〉(2021年3月4日、東洋経済オンライン『カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ』より引用)
イシグロ氏の指摘は、私自身がこの「現代ビジネス」を含め各所で幾度となく述べてきたこととほとんど差異はなく、個人的には新味を感じない。しかしながら、こうした「政治的にただしくない」主張を私のような末席の文筆業者がするのではなく、世界に冠たるノーベル文学賞受賞者がすることにこそ大きな意味があるのだ。
――案の定というべきか、イシグロ氏に「批判を受けた」と感じた人びとからは、氏の主張に対して落胆や反発の声が多くあがっているばかりか、中には「どうして自分たちにこのような批判が向けられているのかまるで理解できない」といった人もいるようだ。彼らはまさか自分たちがそのような「不寛容で排他的で、強い同調圧力を発揮している先鋭化集団」などと批判されるとは夢にも思わなかったらしい。
同調しない者は「抹消」してもいいのか
「芸術・エンタテインメントの世界が、リベラル以外の声を反映することをできないでいる」というイシグロ氏の指摘はきわめて重要で、本質的であるだろう。
というのも、昨今における芸術・エンタテインメントの領域では、いままさにリベラリズムにその端緒を持つ社会正義運動「ポリティカル・コレクトネス」と「フェミニズム」と「キャンセル・カルチャー」が猖獗をきわめており、それらのイデオロギーに沿わないものを片っ端からバッシングして排除し、不可視化することに勤しんでいる最中だからだ。
彼らは、自分たちの世界観や価値体系にリベラル以外の声を反映するどころか、リベラル以外の価値観に基づく表現や存在そのものを、現在のみならず過去に遡ってまで抹殺しようとしている。
こうした同調圧力は、芸術やエンタテインメントのみならず、学術の世界――とりわけ人文学――でも顕著にみられる。学問の名を借りながら、実際にはラディカル・レフトの政治的主張を展開する人びとにとって、自分たちのイデオロギーに同調しない者などあってはならない。ましてや批判や抗議の声を上げようものなら、「社会正義に反する者」として徹底的に糾弾され、業界からの「追放」を求められることも珍しくはない。
リベラリストが語る「多様性」の一員とみなされ包摂されるのは、あくまでそのイデオロギーを受け入れ、これにはっきりと恭順の姿勢を示し、信奉していると表明した者だけだ。それ以外は「多様性」のメンバーの範疇ではなく、埒外の存在としてみなされる。
リベラリストが考える「多様性」に含まれないものは、社会的に寛容に扱われる必要もないし、内容によっては自由を享受することも許されるべきではない――それが彼らのロジックである。今日のリベラリストは「多様性」や「反差別」を謳うが、その実自身のイデオロギーを受け入れない者を多様性の枠組みから排除する口実や、特定の者を排除しても「差別に当たらない」と正当化するためのロジックを磨き上げることばかりにご執心のようだ。
「累積的な抑圧経験」「性的まなざし」「寛容のパラドックス」「マンスプレイニング」「トーンポリシング」などはその典型例だ。自分たちの独自裁量でもって「加害者」「差別者」「抑圧者」などと認定した者であれば、その対象に対する攻撃や排除は、自由の侵害や差別や疎外にあたらず、一切が正当化されるというのが彼らの主張である。
いち表現者として、またひとりのリベラリストとして、こうした風潮をイシグロ氏が憂慮するのはもっともだ。リベラル(自由主義)を標榜する人びとが、その実「リベラリズムのイデオロギーに賛同する芸術・エンタテインメント」以外を許容しない――イシグロ氏は自身も激しい反発にさらされるリスクを承知していながら、それでもなお、そうした形容矛盾とも言える状況を批判せずにいられなかったのだろう。
インテリの傲慢こそ「分断」の正体
リベラリストや人文学者のいう「多様性」「寛容性」「政治的ただしさ」など、局地的にしか通用しない虚妄にすぎない。それらは結局のところ、自分たちと政治的・経済的・社会的な水準がほとんど同じ人びとによって共有されることを前提にした規範にすぎないからだ。
つまりそれは、人間社会におけるヒエラルキーの階層を水平に切り取った――言い換えれば、経済力や社会的地位などが同質化された――いわば「横軸の多様性(イシグロ氏のいうところの《横の旅行》)」でしかない。
自分たちと同じような経済的・社会的ステータスをもつ人びとの間だけで、自分たちに都合の良いイデオロギーを拡大させていったところで、全社会的な融和や和解など起きるはずはない。むろん世界はいまより良くもならない。むしろさらに軋轢と分断を拡大させるだけだ。いまこの世界に顕在化する「分断」は、政治的・経済的・社会的レベルの異なる人びとの間にある格差によって生じる「縦軸の多様性《縦の旅行》」が無視されているからこそ起こっている。インテリでリベラルなエリートたちが、「横軸の多様性」をやたらに礼賛する一方で、この「縦軸の多様性」には見て見ぬふりを続けていることが、この「分断」をますます悪化させている。
金持ちで、実家も太く、高学歴インテリで、もちろん思想はリベラルで、つねに最新バージョンの人権感覚に「アップデート」し続ける人びとが、ポリティカル・コレクトネスやSDGsといった概念を称揚し、経済的豊かさや社会的地位だけでなく、ついには「社会的・道徳的・政治的ただしさ」までも独占するようになった。その過程で彼らは、知性でも経済力でも自分たちに劣る人びとを「愚かで貧しく人権意識のアップデートも遅れている未開の人びと」として糾弾したり嘲笑してきたりしてきた。その傲慢に対する怒りや反動が、いま「分断」と呼ばれるものの正体である。
「偏狭で、差別主義的で、知的に劣っていて、非科学的で、人権感覚の遅れた人びとが『分断』の原因である(そして我々はそのような連中を糾弾する正義の側である)」――という、リベラリストが論をまたずに自明としている奢り高ぶりこそが、世界に「分断」をもたらす根源となっている。この点を、自身もまたインテリ・リベラル・エリートの一員でありながら指摘したイシグロ氏の言葉には大きな意味があるが、しかし残念ながら肝心の「リベラリスト」の大半には届かないだろう。
イシグロ氏の限界
――だが、イシグロ氏のこうした言明にも、やはり限界が見える。というのも、氏にはいまだに「歴史のただしい側」に立つことへの未練があるように思えてならないからだ。
たしかに、現状のリベラルの問題点を殊勝に列挙してはいるものの、しかし「リベラリズムがただしいことには疑いの余地もない」というコンテクストそれ自体を批判することはできないままなのである。冒頭で引用したインタビュー内の言明でも、あくまで「リベラリズムのただしさ」は自明としたうえで「リベラル派も(よりよいリベラルを目指すために)反省するべき点がある」と述べるにとどまっている。
ようするに、「私たちが知的にも道徳的にも政治的にもすぐれており、なおかつ『歴史のただしい側』に立っていることは明らかだ。だが、前提として間違っている彼らの側にも、一定の『言い分』があることを、我々はもっと寛容に想像しなければならないのではないか」というスタンスを取るのが、やはりノーベル文学賞受賞者という西欧文明の価値体系のど真ん中にいる人物にとって、踏み込めるぎりぎりのラインなのだろう。それを非難するつもりはない。これ以上攻めると、イシグロ氏自身も当世流行の「キャンセル・カルチャー」の餌食となってしまいかねない。氏にもまだまだ生活や人生がある。ためらって当然だ。
しかしながら「まず前提として私たちリベラルはただしい。だが、間違っている愚かで遅れた彼らにも、まずは居場所を与えてやろう。そして、彼らにも勉強させる(≒私たちのただしさを納得させる)ことが必要だ」という傲慢で侮蔑的なコンテクストこそが、アメリカではトランプとその支持者を、ヨーロッパでは極右政党を台頭させる最大の原因のひとつとなったのではないか。このコンテクスト自体を批判的に再評価することなく、いま世界中で顕在化している「分断」を癒すことなどできない。
私たちの主張をよく勉強して理解すれば、いずれは彼らも自らの間違いを認めて、世界はきっとよくなる――という善悪二元論的で、単純明快な勧善懲悪の物語を信じてやまないがゆえに、リベラリストの問題意識はいつだって的外れなのだ。
「ひょっとして、自分たちも、世界に分断や憎悪をもたらす『間違い』の一員なのではないか」という内省的な考えを――イシグロ氏ほどでなくともよいから――持つようになれば、彼らの望みどおり、世界はいまよりずっとよくなるのだが。
【日本の選択】バイデン大統領就任演説の白々しさ 国を分断させたのは「リベラル」、トランプ氏を「悪魔化」して「結束」はあり得ない―【私の論評】米国の分断は、ドラッカー流の見方が忘れ去られたことにも原因が(゚д゚)!
ドラッカーは、20世紀におけるマネジメントの偉業とは、肉体労働の生産性を50倍に挙げたことであり、21世紀のマネジメントの目標はテクノロジストの生産性を上げることだと語っています。本来米国では、テクノロジストを育てていくべきだったのに、それを怠ってしまったのが、失敗の本質だったと思います。テクノロジストが大勢育っていれば、そうしてサンベルトや南部の白人たちが、テクノロジストに転換していれば、大きくて深刻な分断は起こらなかったはずです。というより、ある程度の分断は、互いに競い合うということで、決して悪いことではないと思うのですが、米国の分断は度が過ぎます。
今後とも、物理学では、専門化が王道であり続けるだろう。しかし他の多くの分野では、専門化は、今後ますます、知識を習得するうえで障害となっていく。(『新しい現実』)学問の世界では、書かれたもの、すなわち論文を知識と定義しているようです。それどころか、その論文の書き方までをとやかくいいます。そのくせ、まるで理解不能な文章があっても平気なようです。
ドラッカーは、そのようなものは知識ではないし、知識とはいかなるかかわりもないと怒っています。それらはデータにすぎないというのです。
知識とは、行動の基盤となるべきものだというのです。人や組織をして、なんらかの成果をもたらす行動を可能にするものであるべきなのです。なにかを、あるいは誰かを、変えるべきものなのです。
そもそも、理解されることが学識ある者の責務であるはずだ、という昔からの原則が忘れられてしまったとしています。行動の基盤であるということならば、広く理解されることなくして、知識とは言えないのです。
ドラッカーは、問題は今日学界の専門家たちの学識が、急速に知識ではなくなっていることにあるといいます。それらのものは、データにすぎず、せいぜいが専門知識にすぎません。世の中を変える力を失ってしまっているというのです。
過去200年間にわたって知識を生み出してきた学問の体系と方法が、少なくとも自然科学以外の分野では非生産的となっている。学際的な研究の急速な進展が、このことを示している。(『新しい現実』)知識とは、人や組織をして、なんらかの成果をもたらす行動を可能にすべきものというのであれば、いわゆるリベラリスト(私は似非リベラリストと呼びたいです)たちが、他者に向けて打ち出す一的な価値体系はとても「知識」と呼べるしろものではありません。
ドラッカー氏は、今日の知識社会における学校にも注文をつけています。
今日、経済的には、知識が真の資本となり、富を生み出す中心的な資源となりつつある。そのような経済にあっては、学校に対し、教育の成果と責任について、新しくかつ厳しい要求が突きつけられる。さらにまた、今日、社会的には、知識労働者が中心的存在となっている。そのような社会にあっては、学校に対し、社会的な成果と責任について、もっと新しく厳しい要求が突きつけられる。学校に対する社会の要求は、経済からの要求よりもさらに厳しいものとなる。(『新しい現実』)ドラッカーは、学校に対して、二つの要求を行なっています。
第一に、肉体ではなく知識が中心の社会となったからには、知識の変化が急である。繰り返し、知識の更新を図っていかなければ、急速に時代遅れとなる。しかし、いかなる学校でも、必要とされるすべての知識を与えることは不可能です。そこで必要となるのが、“学習の方法”を教えることです。方法論、自己啓発、ハウツーを馬鹿にしてはならないです。近代合理主義は、デカルトの『方法序説』から始まりました。
第二に、知識が中心の社会では、知識ある者がリーダーの役を務める。ということは、知性と、価値観と、“道徳観”が要求されるということである。今日、道徳教育は人気がありません。ドラッカーによれば、これまで、あまりにしばしば、思考や、言論や、反対を抑圧するために濫用され、権威への盲従を教えるために使われてきたせいだといいます。
つまり、道徳教育自体が、非道徳的だったのです。しかし、このままでは、若者は間違った価値観を植えつけられることになりかねません。人は、必ずなんらかの価値観を持つからです。
高邁な価値観を持つかもしれなければ、低劣な価値観を持つかもしれないです。あるいは、少なくとも、無関心、無責任、無感動のいずれかにはなります。
知識社会における道徳教育については、論議も大いにあるはずです。しかし、教育が道徳を伴い、かつ、それを重視すべきものでなければならないことだけは間違いないです。知識と知識労働者には責任が伴うからです。
われわれは、人間の本質および 社会の目的についての新しい理念を基盤として、 自由で機能する社会をつくりあげなければならない。(ドラッカー「産業人の未来」)ファシズムが二度と出現しないように、できる限り早く新しい自由な産業社会を作る必要があります。そして、その社会を作るのは、政府や政治家や官僚ではなく、『マネジメント』だ、と若きドラッカーは提言しました。
マネジメントとは、現代社会の信念の具現である。それは、資源を組織化することによって人類の生活を向上させることができるとの信念、経済の発展が福祉と正義を実現するための強力な原動力になりうるとの信念の具現である。(ドラッカー「現代の経営」)
ドラッカーは、こうも主張しました。
「マネジメントは、一般教養(リベラルアーツ)である」リベラルアーツとは、文字通り、「人を自由にする学び」です。本来、リベラルを自認する人たちが学ぶべきことです。
ドラッカー氏はマネジメントをついてこうも語っています。
マネジメントとは文化であり、価値観と信条の体系である。それは、それぞれの社会が、自らの価値観と信条を活かすための手段である」(『すでに起こった未来』)マネジメントは、急速に世界的なものとなりつつある近代文明と、多様な伝統、価値観、信条、遺産からなるそれぞれの文化とのかけ橋なのです。マネジメントこそ、文化の多様性を人類共通の目的に奉仕させるものだとドラッカーは言います。
マネジメントは共通の目的のために個人、コミュニティ、社会の価値観、意欲、伝統を活かすものです。マネジメントが伝統を機能させない限り、社会と経済の発展は起こりえないのです。私は、分断した社会もマネジメントにより、統合可能であると考えます。
マネジメントが経済的・社会的な発展をもたします。発展はマネジメントの結果です。途上国など存在しないと断言してよいのです。存在するのは、いまだマネジメントの存在しない国だけなのです。
経済発展についてのあらゆる経験がこれを裏づけています。経済的な生産要素、特に資金しか供与されなかった途上国では、経済発展は起こりませんでした。例外的と見られていた中国でさえ、この原則からは免れ得ないことが日増しにあきらかになりつつあります。
先進国では、重要な課題のほとんどが組織され、かつマネジメントされた機関において遂行されています。企業はそれらの最初のものであるにすぎません。
われわれは、これまで企業のマネジメントについて行なってきたことを、政府をはじめ他のあらゆる組織について行なわなければならない。(『すでに起こった未来』)多くの人が「マネジメント」に関心を持ち、それを学ぶことで、多くの職場が笑顔と活気に溢れていきます。その結果、社会が健全になり、民主主義が守られ、自由で、健全に機能する社会が実現されていくはずです。そうして、社会の分断もなくなるはずです。
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