吉田麻也選手 |
真剣に再検討を願う理由
「サッカーに限らず、オリンピックの舞台は毎日命かけて人生かけて戦っているからこそこの場に立てている選手たちばかり。マイナー競技でオリンピックに人生を懸けている選手たちは山ほどいる。なんとかもう一度考えて欲しい、真剣に検討してほしい」(吉田麻也)
17日に行われた東京五輪男子サッカー日本代表と同スペイン代表のキリンチャレンジカップ。五輪前最後の準備試合となるこの一戦を終えて、テレビの前で吉田麻也主将が沈痛な雰囲気で繰り出した言葉は「(五輪の)無観客は残念ですね」というものだった。おそらく放送枠の都合でその言葉は途中で切られてしまう形となったので、あらためて試合後の取材で本人にその“続き”について聞いてみたところ、出てきたのが冒頭の言葉である。
以前から吉田は無観客試合について無念の思いをにじませていた。「ウインブルドンでもEUROでも(観客が)入っている」とこぼしたこともあったので、あらためて観客の前でプレーする最後の機会で「なぜ日本だけダメなのか?」という思いを繰り出した形だろう。もちろん、これまで繰り返し医療現場で戦う人々への敬意を示し、そこへの感謝を口にしてきた吉田である。「(コロナ禍に対して)陰で戦っている人たちがいるのは重々理解しているし、オリンピックがやれるということだけでも感謝しなければいけない立場にあることは理解しています」と強調したように、それを忘れたわけでは決してない。
それゆえに、アスリートのこうした主張を快く思わない人がいることも承知している。「実際、いまはどっちのコメントをしても叩かれるような状況だと思う。ただ、それは個人的に間違っていると思っている」とまで言うが、しかしそれでも伝えたい思いがあった。
「JOCの山下泰裕会長もオンライン壮行会のときにおっしゃっていましたけど、自分がちっちゃいときに観たオリンピックから影響を受けたし、ものすごく感動した。僕たちがやっぱり子どもたちにできることということは、家の中に閉じ込めて友達とも会わず、ことが過ぎるのを待つだけじゃないと思う。もっともっとできることたくさんあると思うし、僕にも娘がいるし、まだ4歳で、僕のプレーしているところを覚えていられないとは思う。そういう子どもたちに絶対いろいろなモノを与えられると思います。時差がなく、オンタイムで試合を観られるというのは、僕が2002年W杯のときにそうだったように、やっぱり物凄い感動と衝撃を受けると思うし、そのためにこそオリンピックを招致したのではなかったのかと個人的には思っている」
せめて家族だけでも観に来られないのかというのは他のアスリートから聞かれた言葉だったが、吉田も選手の家族たちのことについてあらためて言及した。
「じいちゃんばあちゃん、孫がオリンピックに出るところを観たいと言う人はたくさんいるだろうし。家族も、僕なんかもそうですけど、いろいろなモノを我慢して犠牲にしながら、ヨーロッパで戦う僕をサポートしてくれています。僕だけじゃなくて家族も戦っている一員なので、それが観られないというのは、誰のための何のための戦いなんだろう。そこはクエスチョンです」
もちろん、「苦しいときにファンの助けは本当に大きい」と語ったように、パフォーマンス面でのメリットもあるだろうが、そこにとどまる話ではあるまい。スポーツの価値自体が毀損されてきたコロナ禍の中で、東京五輪が非科学的で感情的な攻撃の対象になり、政治的な闘争の具材にされてしまった現状に対する一人のアスリートの意思表明だった。
「もう一度検討していただきたいなと心から願っています」
吉田はその言葉を残し、会見場を後にした。その言葉が届かないであろうことは百も承知。それでも、スポーツの価値を信じる人々に伝えておきたい言葉があった。
【私の論評】私達日本人は、人類がパンデミックに打ち勝てることを示す新たな世界史の1ページを綴るはずだった(゚д゚)!
上の記事を読んでいると、吉田麻也選手の気持ちかひしひしと伝わってきます。東京五輪は、制限付きで良いから、「有観客」で実施すべきと私は思います。
大谷翔平選手 |
では、日本国内のスポーツイベントはどうなのといえば、非常事態宣言下では、プロ野球、Jリーグ、陸上競技などの大規模イベントは、「人数上限5000人かつ収容率50%の制限」で行われています。現在開催中である甲子園の東東京大会と西東京大会もメガホンなど鳴り物の持ち込みを禁じているが有観客で行われています。
そのさなかで、なぜか東京五輪がスケープゴートにされたのか、非常に気になります。他のスポーツイベントは緊急事態宣言下でも「人数上限5000人かつ収容率50%の制限」という条件で有観客開催が認められているのです。東京五輪だけ“特別”になる合理的な理由は見当たりません。
まさに、吉田麻也選手、言いにくいことをよくぞ言ってくれたと思います。これは、本来は政治家が言うべきことです。日本国内にいるチケットを持っている人のうち、ワクチン接種済みプラス 検査陰性 の条件付きでも良いから、観客入れるべきです。その他の制限があっても良いかもしれません、ただ「無観客」だけは避けるべきでした。
当然のことながら、無観客開催になれば、不要になるものが出てきます。まずはハード面。観客入りを想定して造られた仮設スタンドはほとんど使われることなく撤去されることになります。結果として無駄な経費になります。
では、なぜ東京五輪だけが「無観客」なのでしょうか。 東京都では7月12日に4度目となる「緊急事態宣言」が発出された。東京五輪の無観客開催について、小池百合子都知事は、「都民の命と健康を守り、安全を重視した大会とするため」と説明している。
無観客となった理由のひとつに、英国や米国のようにワクチン接種が進んでいないことが挙げられます。「Our World in Data」の集計によると、ワクチン接種の完了率は、英国が51.8%(7月13日時点)、米国が49.7%(7月14日時点)。一方の日本は19.8%(7月14日時点)です。確かにワクチン接種率の低さが目立ちます。英国は昨夏から法改正を進めて、摂取会場も確保。昨年12月からワクチン接種を開始しました。日本は、医療従事者への先行接種が始まったのが今年2月17日です。
ただ、日本と米英などの他国とは、明らかに異なる背景があります。それは、100万人あたりの感染者数が二桁以下だったということです。死者の数も桁違いに低いものでした。
感染症学の常識というか、世間一般常からいっても、感染症の酷い国や地域から、ワクチン接種を開始するのは当然のことであり、最近では接種速度もあがっており、五輪開催国としての日本がワクチン接種で後れを取ったという批判は一見もっともらしいですが、正しいとはいえません。
もし日本が、財力でワクチンを早めに獲得し、米英などと同じ時期に接種をはじめた結果、米英の接種が遅れたということにでもなれば、相当批判を受けたと考えられます。その意味では、日本のワクチン接種の時期は、まともだったといえます。
前安倍政権は、昨年には大規模なコロナ対策補正予算を組み、5月頃からワクチン確保や一日100万程度接種できるように、冷蔵庫を用意するなどの前準備を進めていました。安倍政権を引き継いだ菅政権が一日100万接種を目指すといったのは、このような背景があったからです。
このブログでも以前掲載したように、最近では高齢者のワクチン接種がかなりすすみ、高齢者の感染は減っています。確かに最近では若者の感染者数は増えていますが、死者ということでみれば、交通事故による死者よりははるかに低いのです。
昨年はわからなかったコロナ感染症の特徴も明らかになっています。若者は感染しても無自覚か、継承で済む場合がほとんどです。一方、高齢者は感染すると重症化する割合も高く、死亡率も高いです。ところが、その高齢者のワクチン接種がすすみ、感染率が劇的に減少しているのです。
この状況だと、同じ感染者数であっても、昨年から今年の2月〜3月の状況とはかなり変わっており、感染者数そのものの増加は以前ほど不安要因ではなくなりました。そもそも、若い世代から高齢者まで、重症化する比率がかなり低まり、同じ感染者数であっても、従来ほど医療崩壊になりえる確率は随分減ったといえます。
一番問題だったのは、大手紙やテレビ局を筆頭とするメディアの姿勢です。東京五輪の開催について多くのメディアが「開催」に関してネガティブなトーンだった一方で、「観客を入れて開催できる」といったポジティブな意見はほとんど報道しませんでした。
そうしたメディアの影響もあり、世間も「コロナ禍で東京五輪なんてとんでもない」という雰囲気を醸成してしまったのではないでしょうか。そのため、アスリートやスポーツ団体は「有観客で開催してほしい」という声を出しににくい状況になっていました。
出せば、叩かれるのは目に見えているからでした。実際、そのように主張した選手はSNSで、かなり叩かれていました し、そうした主張をしてもいなかった池江璃花子選手が叩かれていたのは本当に痛々しく、残念でなりませんでした。アスリートたちは世間から厳しい目を向けられているようです。自分の意見を言えない世の中は“正常”とはいえません。
本来ならば、政府を追求する野党から「有観客」を主張する声があがっても良いような気もしますが、「五輪開催」そのものに反対してきた野党にはそれはできないのでしょう。というより、今更「有観客」を主張してしまえば、矛盾すると糾弾されるでしょうし、「コロナ禍で東京五輪なんてとんでもない」という雰囲気を醸成されしまった現状では、とてもできないのでしょう。
元々は「有観客開催」を考えいていた与党の政治家からそのような声が起こっても良いと思うのですが、そうした声もありません。
当然のことながら、無観客開催になれば、不要になるものが出てきます。まずはハード面。観客入りを想定して造られた仮設スタンドはほとんど使われることなく撤去されることになります。結果として無駄な経費になります。
それからチケット収入で計上していた約900億円が消滅。赤字分は都や国が税金から補塡(ほてん)することになります。選手の立場はどうなのでしょうか。試合に向かうモチベーション自体は変わらないとはいえ、声援の有無はパフォーマンスに影響するでしょう。
実際、観客に応援されることで選手の運動量が約20%アップしたという調査も報告されています。特に沿道で行われるマラソンは観衆との距離が近いこともあり、声援が耳に届きます。それがエネルギーになるだけに、今回は“孤独な戦い”になるかもしれないです。
また、集まる人数が多いほど熱狂の渦も大きくなる。「火事場の馬鹿力」のような驚異的なパフォーマンスは非日常の雰囲気から生まれるものです。無観客ではそういうシーンが観られる機会が激減するでしょう。これでは、ホームアドバンテージが無くなってしまいます。
無観客になると、東京五輪2020のレガシー(遺産)を次世代に引き継ぐことも難しいです。選手、ボランティア、大会関係者以外は、東京五輪を“体感”することができないからです。
サッカー、野球、テニス、ゴルフなど一部の種目を除けば、オリンピックがその競技種目にとって真のナンバー1を決める最高の舞台になります。多くの種目(団体)はオリンピックで競技の魅力を観客にPRしたいと考えていたはずですが、その願いはかなわないのです。
東京五輪を生観戦できないことは、今後のスポーツ界にも大きな影響が出るでしょう。 また無観客になることで、10万人に依頼していたボランティアの一部は出番がなくなってしまいます。SNSの発展で情報を共有できても、体験をシェアすることはできないのです。
東京五輪の無観客は一般の方々が一生に一度できるかどうかという貴重な体験の場が奪われたことになります。
人間が生きていくためには、安全安心に命を守る環境も大事だが、それと同様に精神的満足・充実を得ることも必要です。東京五輪を観戦したい、と熱望している人は少なくありませんでした。
そもそも東京(日本)が開催地に立候補したわけで、世界中から開催を押し付けられたわけではないです。「お・も・て・な・し」という言葉で誘致に成功したはずですが、その精神はどこかに消えてしまったようです。
東京五輪・パラリンピックの出陣式で、気勢をあげる(前列左から)JOCの竹田恒和会長、猪瀬直樹都知事、安倍晋三首相、森喜朗元首相(肩書はいずれも当時)=2013年8月23日、都庁 |
菅義偉首相は東京五輪に関して、「全人類の努力と英知で難局を乗り越えていけることを東京から発信したい。安心安全な大会を成功させ、歴史に残る大会を実現したい」と話しています。
はたして東京五輪を無観客にすることで歴史に残る大会になるのでしょうか。無論、「無観客」という異常事態そのものは歴史に残るかもしれません。
しかし、大きな長い苦しみの果にとうとう最初に五輪が開催される場が日本になったということは、本来名誉なことであり、これをたとえ制限つきでも「有観客」で成功させれば、人々の間に長く記憶に残る祭典になったはずです。まさに、私達日本人が、人類がパンデミックに打ち勝てることを示す新たな世界史の1ページを綴ることになったはずです。
この大きな機会を日本は自ら逃したのです。しかも、このような機会は今後100年間は訪れないかもしれないのにです・・・・。目の前の安心安全にばかり執着して、大切なことを失ったことに気づかない人があまり多いのではないでしょうか。
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