日本には憲法9条があるから、自衛隊は違憲である…そんな「憲法解釈」は根底から間違っている
篠田 英朗 |
ロシアのウクライナ侵攻に対し、日本はどのような態度をとるべきなのか。東京外国語大学の篠田英朗教授は「日本国憲法は、国際協調主義を掲げており、国際法に沿って行動する『軍隊』の存在を否定していない。そうした前提のうえで、日本も国際秩序を維持するために努力するべきだ」という――。(後編/全2回)
■憲法9条1項の文言は、素直に国際法に調和している
(前編から続く)日本国憲法は、前文において、「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想」を自覚して、「平和を愛する諸国民の公正(justice)と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」し、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたい」とうたっている。
そして「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」して、国際協調主義の「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務」だという信念を披露している。
「平和を愛する諸国民(peace-loving peoples)」は、1940年大西洋憲章から1945年国連憲章に至るまで、一貫して連合国(United Nations)のことを指す概念として用いられていた。したがってここで「平和を愛する諸国民の公正(justice)と信義に信頼」するとは、アメリカを筆頭国とする連合国が作った国際法体系を信頼し、それに沿った安全保障政策をとっていくという趣旨であり、つまり日米安全保障条約に裏付けられた将来のサンフランシスコ講和条約を見通したものだった。(参考記事:「英語で読めばわかる『憲法解釈』の欺瞞」)
日本国憲法9条の冒頭の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」、という文言は、前文の内容を再強調する意図を持つものであった。1928年の不戦条約と、1945年国連憲章の文言を切り貼りしただけと言ってもよい、憲法9条1項の文言は、素直に国際法に調和しているものとして読むべきである。国際法に挑戦して、侵略に正当に対抗するために用意されている自衛権を否定するものだ、と読むことは、不可能だ。
■憲法9条が定めたのは「大日本帝国軍の解体」である
憲法9条2項は、「戦力不保持」と「交戦権否認」を定めている。ここで「戦力」は、もともとは「war potential」という連合国が使用していた行政用語であり、大日本帝国軍の解体に伴って接収対象となった違法な「戦争」をする潜在力のことである。すでに1項で国際法に沿って「戦争」の違法が定められているので、2項でその潜在力の保持も否定するのは、全く当然のことである。
つまり、憲法9条が、ポツダム宣言受諾に沿って、大日本帝国軍を解体する国内法上の根拠を提供している、ということである。将来にわたって国際法において合法である自衛権行使の手段もついでに保持しない、という意表を突いた含意は、認められない。
「国の交戦権(the right of belligerency of the state)」という概念は、実際には国際法において存在しない。それを「認めない」と宣言したところで、いわば「幽霊の存在を認めない」と宣言するのと同じなので、現実の世界には何も変化をもたらさない。単に「国際法を遵守する」と宣言することと同じである。
■9条が否定した「交戦権」とは何か
それではなぜあえて「交戦権」なるものの存在を否認するかというと、戦中に権威ある戦時国際法のマニュアルを作っていた信夫淳平らが、大日本帝国憲法の「統帥権」規定などを根拠に、主権者は自由に宣戦布告をして戦争を行う「交戦権」を持っているなどと主張していたからである。日本も加入していた国際連盟規約および不戦条約に反した考え方であったが、真珠湾攻撃後の日本における軍部主導の政治状況の下では、出版を目指すのであればとらざるをえない立場であった。
憲法9条2項が否定しているのは、戦中の日本に存在していた、国際法を否定するこの「交戦権」なる概念である。それによって憲法は、国際法遵守の態度をよりいっそう明確にする。憲法9条に、国際法に留保を付す意図はない。
素直に日本国憲法典を読めば、憲法が国際法に合致したものであることは、自明である。そもそも日本を、国際法を遵守する国に生まれ変わらせるために制定されたのが、日本国憲法である。その背景と趣旨を考えれば、憲法が国際法を否定するはずはないのは当然であり、留保の要素もあるはずがない。
■憲法学者の陰謀論めいた「絶対平和主義」説
ところがほとんど陰謀論者めいた憲法学者のイデオロギー的解釈によって、本来の憲法の国際協調主義的は埋没させられることになった。
連合国軍総司令部(GHQ)総司令官であったダグラス・マッカーサーは、回顧録において、次のように述懐した。「第九条は、国家の安全を維持するため、あらゆる必要な措置をとることをさまたげていない。……第九条は、ただ全く日本の侵略行為の除去だけを目指している。私は、憲法採択の際、そのことを言明した。」
ところが憲法学者は、マッカーサーは冷戦の勃発によって態度を変えたのだ、と主張する。当初は、国際法から乖離(かいり)した絶対平和主義を標榜していたはずだ、というのである。その根拠は、いわゆる「マッカーサー・ノート」と呼ばれる憲法草案起草を部下に命じた際の走り書きだけである。
しかし、単なる走り書きの内部メモの文言を拡大解釈させて憲法解釈の指針とまでしてしまうのは、全く不適切である。マッカーサーは、部下たちが国際法に合致するように文言を整備した憲法草案に、何も異議を唱えていない。
憲法学者は、憲法9条の冒頭に国際協調主義の前文の趣旨を確認する文言を挿入した芦田均(憲法改正小委員会の委員長)を、憲法9条を捻(ね)じ曲げる姑息(こそく)な行動をとった人物だと非難したうえ、その画策は憲法学通説によって打ち破られたといった「物語」も広めている。
だが、憲法そのものの一貫した趣旨を明確にしようとした芦田が、なぜ非難されなければならないのか。根拠のない解釈を「憲法学者の大多数の意見だ」という理由で押し付けようとする、憲法学者のほうが横暴なのではないか。
■日本国憲法は国際法上の自衛権を否定したのか
1946年に憲法案が審議された際、共産党の野坂参三議員が、新憲法は「自衛戦争」を認めないのか、という質問をしたのは有名である。これに対して当時首相であった吉田茂は、次のように答えた。
「私は斯(か)くの如きことを認むることが有害であると思ふのであります(拍手)近年の戦争は多く国家防衛権の名に於(おい)て行はれたることは顕著なる事実であります、故に正当防衛権を認むることが偶々(たまたま)戦争を誘発する所以(ゆえん)であると思ふのであります」(第90回帝国議会 衆議院 本会議 第8号 昭和21年6月28日)
これをもって憲法学者は、吉田は国際法上の自衛権を否定し、絶対平和主義をとっていた、などと主張する。「自分は国際法上の自衛権を否定したことはない」という後の吉田の説明を、憲法学者は否定する。
だがこれは、国際法の概念構成を無視した、悪質で不当な糾弾である。そもそも質問者の野坂が、憲法は「自衛戦争」を認めているのか、と聞いた時点で、戦前の日本の軍部が自己正当化の道具として用いたあの「自衛戦争」を、憲法は認めているのかという問いになってしまっている。
戦前の軍部が主張した「自衛戦争」なるものを、日本国憲法は国際法の考え方に沿って、認めない。吉田の回答はごく原則的なもので、何らおかしなところがない。しかしそれは国際法上の自衛権の否定とは、全く違う。
戦前・戦中の日本の軍部が主張した「国家防衛権」や「国家の正当防衛権」なるものは、いずれも国際法に存在しない概念だ。「交戦権」や「自衛戦争」も同様である。吉田が否定したのは、国際法に存在しないそうした概念を振り回し、現代国際法では認められない行為が許されるかのような詭弁(きべん)を使うことであって、国際法上の自衛権を否定したわけではない。
そもそも国際法では認められていない概念を、ドイツ国法学の擬人法的な「国家は生きる有機体で、自然人と同じような権利義務の主体だ」といった考え方で強引に採用しようとするから、「自衛戦争」といった奇妙な概念を認める否か、という押し問答が生まれる。混乱は、戦前にプロイセンに留学した者たちが学界を寡占的に支配し、ドイツ国法学に沿った憲法理論があたかも人類普遍の真理であるかのように思い込みがちだったところから、生まれてきている。つまり学者たちの陰謀あるいは誤解の所産でしかないのである(参考記事:「東大名誉教授が掲げる『憲法学者最強説』のウソ」)
■国際法概念に沿った憲法解釈や改憲を
日本国憲法は、国際法を遵守することを求めている。したがって憲法解釈も、国際法に沿って素直に行えばよい。そうすれば、国際法にも憲法にも存在しない奇異な概念から成り立つ「『交戦権』や『自衛戦争』を日本国憲法は認めているか否か」といった類いの問いを、深刻に受け止める必要もなくなってくる。「戦争は一般的に違法であり、そのため対抗措置としての自衛権の行使は合法である」、という国際法の原則だけを淡々と述べ、それに沿って憲法を理解すれば十分だということになってくる。
ウクライナにおける具体的かつ深刻な国際的な危機を目撃して、今や日本社会にも、憲法学通説の憲法解釈では現実に対応できないという認識が広がっている。それは憲法典がおかしいからではない。冷戦時代の左右のイデオロギー対立の構図の中で、素直な憲法解釈がないがしろにされたことが、諸悪の根源なのである。今こそ、国際法に沿った、素直な憲法の理解を確立したい。
イデオロギー対立の結果、憲法解釈が混乱してきている事情はある。それを改善するには、憲法改正を行うべきだということであれば、それはそれで歓迎である。例えば9条3項を新設し、国際法に沿って行動する「軍隊」が、憲法9条の規定にも憲法全体の理念にも反していないことを明らかにするのは、適切だろう。
いつまでも冷戦時代のイデオロギー対立にとらわれ、素直に憲法を理解することを恐れたままでは、日本の安全保障政策および国家としての体系性は、いよいよ近い将来に壊れていく。現実を直視すべきだ。
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篠田 英朗(しのだ・ひであき)
東京外国語大学教授
1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了、ロンドン大学(LSE)大学院にて国際関係学Ph.D取得。専門は国際関係論、平和構築学。著書に『国際紛争を読み解く五つの視座 現代世界の「戦争の構造」』(講談社選書メチエ)、『集団的自衛権の思想史――憲法九条と日米安保』(風行社)、『ほんとうの憲法―戦後日本憲法学批判』(ちくま新書)など。
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■憲法9条1項の文言は、素直に国際法に調和している
(前編から続く)日本国憲法は、前文において、「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想」を自覚して、「平和を愛する諸国民の公正(justice)と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」し、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたい」とうたっている。
そして「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」して、国際協調主義の「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務」だという信念を披露している。
「平和を愛する諸国民(peace-loving peoples)」は、1940年大西洋憲章から1945年国連憲章に至るまで、一貫して連合国(United Nations)のことを指す概念として用いられていた。したがってここで「平和を愛する諸国民の公正(justice)と信義に信頼」するとは、アメリカを筆頭国とする連合国が作った国際法体系を信頼し、それに沿った安全保障政策をとっていくという趣旨であり、つまり日米安全保障条約に裏付けられた将来のサンフランシスコ講和条約を見通したものだった。(参考記事:「英語で読めばわかる『憲法解釈』の欺瞞」)
日本国憲法9条の冒頭の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」、という文言は、前文の内容を再強調する意図を持つものであった。1928年の不戦条約と、1945年国連憲章の文言を切り貼りしただけと言ってもよい、憲法9条1項の文言は、素直に国際法に調和しているものとして読むべきである。国際法に挑戦して、侵略に正当に対抗するために用意されている自衛権を否定するものだ、と読むことは、不可能だ。
■憲法9条が定めたのは「大日本帝国軍の解体」である
憲法9条2項は、「戦力不保持」と「交戦権否認」を定めている。ここで「戦力」は、もともとは「war potential」という連合国が使用していた行政用語であり、大日本帝国軍の解体に伴って接収対象となった違法な「戦争」をする潜在力のことである。すでに1項で国際法に沿って「戦争」の違法が定められているので、2項でその潜在力の保持も否定するのは、全く当然のことである。
つまり、憲法9条が、ポツダム宣言受諾に沿って、大日本帝国軍を解体する国内法上の根拠を提供している、ということである。将来にわたって国際法において合法である自衛権行使の手段もついでに保持しない、という意表を突いた含意は、認められない。
「国の交戦権(the right of belligerency of the state)」という概念は、実際には国際法において存在しない。それを「認めない」と宣言したところで、いわば「幽霊の存在を認めない」と宣言するのと同じなので、現実の世界には何も変化をもたらさない。単に「国際法を遵守する」と宣言することと同じである。
■9条が否定した「交戦権」とは何か
それではなぜあえて「交戦権」なるものの存在を否認するかというと、戦中に権威ある戦時国際法のマニュアルを作っていた信夫淳平らが、大日本帝国憲法の「統帥権」規定などを根拠に、主権者は自由に宣戦布告をして戦争を行う「交戦権」を持っているなどと主張していたからである。日本も加入していた国際連盟規約および不戦条約に反した考え方であったが、真珠湾攻撃後の日本における軍部主導の政治状況の下では、出版を目指すのであればとらざるをえない立場であった。
憲法9条2項が否定しているのは、戦中の日本に存在していた、国際法を否定するこの「交戦権」なる概念である。それによって憲法は、国際法遵守の態度をよりいっそう明確にする。憲法9条に、国際法に留保を付す意図はない。
素直に日本国憲法典を読めば、憲法が国際法に合致したものであることは、自明である。そもそも日本を、国際法を遵守する国に生まれ変わらせるために制定されたのが、日本国憲法である。その背景と趣旨を考えれば、憲法が国際法を否定するはずはないのは当然であり、留保の要素もあるはずがない。
■憲法学者の陰謀論めいた「絶対平和主義」説
ところがほとんど陰謀論者めいた憲法学者のイデオロギー的解釈によって、本来の憲法の国際協調主義的は埋没させられることになった。
連合国軍総司令部(GHQ)総司令官であったダグラス・マッカーサーは、回顧録において、次のように述懐した。「第九条は、国家の安全を維持するため、あらゆる必要な措置をとることをさまたげていない。……第九条は、ただ全く日本の侵略行為の除去だけを目指している。私は、憲法採択の際、そのことを言明した。」
ところが憲法学者は、マッカーサーは冷戦の勃発によって態度を変えたのだ、と主張する。当初は、国際法から乖離(かいり)した絶対平和主義を標榜していたはずだ、というのである。その根拠は、いわゆる「マッカーサー・ノート」と呼ばれる憲法草案起草を部下に命じた際の走り書きだけである。
しかし、単なる走り書きの内部メモの文言を拡大解釈させて憲法解釈の指針とまでしてしまうのは、全く不適切である。マッカーサーは、部下たちが国際法に合致するように文言を整備した憲法草案に、何も異議を唱えていない。
憲法学者は、憲法9条の冒頭に国際協調主義の前文の趣旨を確認する文言を挿入した芦田均(憲法改正小委員会の委員長)を、憲法9条を捻(ね)じ曲げる姑息(こそく)な行動をとった人物だと非難したうえ、その画策は憲法学通説によって打ち破られたといった「物語」も広めている。
だが、憲法そのものの一貫した趣旨を明確にしようとした芦田が、なぜ非難されなければならないのか。根拠のない解釈を「憲法学者の大多数の意見だ」という理由で押し付けようとする、憲法学者のほうが横暴なのではないか。
■日本国憲法は国際法上の自衛権を否定したのか
1946年に憲法案が審議された際、共産党の野坂参三議員が、新憲法は「自衛戦争」を認めないのか、という質問をしたのは有名である。これに対して当時首相であった吉田茂は、次のように答えた。
「私は斯(か)くの如きことを認むることが有害であると思ふのであります(拍手)近年の戦争は多く国家防衛権の名に於(おい)て行はれたることは顕著なる事実であります、故に正当防衛権を認むることが偶々(たまたま)戦争を誘発する所以(ゆえん)であると思ふのであります」(第90回帝国議会 衆議院 本会議 第8号 昭和21年6月28日)
これをもって憲法学者は、吉田は国際法上の自衛権を否定し、絶対平和主義をとっていた、などと主張する。「自分は国際法上の自衛権を否定したことはない」という後の吉田の説明を、憲法学者は否定する。
だがこれは、国際法の概念構成を無視した、悪質で不当な糾弾である。そもそも質問者の野坂が、憲法は「自衛戦争」を認めているのか、と聞いた時点で、戦前の日本の軍部が自己正当化の道具として用いたあの「自衛戦争」を、憲法は認めているのかという問いになってしまっている。
戦前の軍部が主張した「自衛戦争」なるものを、日本国憲法は国際法の考え方に沿って、認めない。吉田の回答はごく原則的なもので、何らおかしなところがない。しかしそれは国際法上の自衛権の否定とは、全く違う。
戦前・戦中の日本の軍部が主張した「国家防衛権」や「国家の正当防衛権」なるものは、いずれも国際法に存在しない概念だ。「交戦権」や「自衛戦争」も同様である。吉田が否定したのは、国際法に存在しないそうした概念を振り回し、現代国際法では認められない行為が許されるかのような詭弁(きべん)を使うことであって、国際法上の自衛権を否定したわけではない。
そもそも国際法では認められていない概念を、ドイツ国法学の擬人法的な「国家は生きる有機体で、自然人と同じような権利義務の主体だ」といった考え方で強引に採用しようとするから、「自衛戦争」といった奇妙な概念を認める否か、という押し問答が生まれる。混乱は、戦前にプロイセンに留学した者たちが学界を寡占的に支配し、ドイツ国法学に沿った憲法理論があたかも人類普遍の真理であるかのように思い込みがちだったところから、生まれてきている。つまり学者たちの陰謀あるいは誤解の所産でしかないのである(参考記事:「東大名誉教授が掲げる『憲法学者最強説』のウソ」)
■国際法概念に沿った憲法解釈や改憲を
日本国憲法は、国際法を遵守することを求めている。したがって憲法解釈も、国際法に沿って素直に行えばよい。そうすれば、国際法にも憲法にも存在しない奇異な概念から成り立つ「『交戦権』や『自衛戦争』を日本国憲法は認めているか否か」といった類いの問いを、深刻に受け止める必要もなくなってくる。「戦争は一般的に違法であり、そのため対抗措置としての自衛権の行使は合法である」、という国際法の原則だけを淡々と述べ、それに沿って憲法を理解すれば十分だということになってくる。
ウクライナにおける具体的かつ深刻な国際的な危機を目撃して、今や日本社会にも、憲法学通説の憲法解釈では現実に対応できないという認識が広がっている。それは憲法典がおかしいからではない。冷戦時代の左右のイデオロギー対立の構図の中で、素直な憲法解釈がないがしろにされたことが、諸悪の根源なのである。今こそ、国際法に沿った、素直な憲法の理解を確立したい。
イデオロギー対立の結果、憲法解釈が混乱してきている事情はある。それを改善するには、憲法改正を行うべきだということであれば、それはそれで歓迎である。例えば9条3項を新設し、国際法に沿って行動する「軍隊」が、憲法9条の規定にも憲法全体の理念にも反していないことを明らかにするのは、適切だろう。
いつまでも冷戦時代のイデオロギー対立にとらわれ、素直に憲法を理解することを恐れたままでは、日本の安全保障政策および国家としての体系性は、いよいよ近い将来に壊れていく。現実を直視すべきだ。
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篠田 英朗(しのだ・ひであき)
東京外国語大学教授
1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了、ロンドン大学(LSE)大学院にて国際関係学Ph.D取得。専門は国際関係論、平和構築学。著書に『国際紛争を読み解く五つの視座 現代世界の「戦争の構造」』(講談社選書メチエ)、『集団的自衛権の思想史――憲法九条と日米安保』(風行社)、『ほんとうの憲法―戦後日本憲法学批判』(ちくま新書)など。
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【私の論評】まずは、集団的自衛権の行使を「限定」せず、現時点で備えうるすべての機能を備えられるように、憲法解釈を是正すべき(゚д゚)!
上の記事の前編は以下のリンクからご覧になれます。
わたし自身は、上の論考に近いもの憲法学の京都学派の論考をもとに何度かこのブログに掲載したことがあります。その典型的な記事のリンクを以下に掲載します。
佐々木惣一の「憲法第九条と自衛権」―【私の論評】安保法制=戦争法案としてデモをする人々は、まるで抗日70周年記念軍事パレードをする人民解放軍の若者と同じか?
「戦争したくなくて震える」というキャッチで札幌で挙行された安保法制改正反対のデモ |
これは、安保法制改正の審議が行われていた、2015年7月26日の記事です。詳細は、この記事をご覧いただくものとして、以下にこの記事の一部分を掲載します。
私自身は、日本国憲法はGHQ により定められたものであり、日本人の手によるものではないのですが、さすがにいくら当時のGHQが日本の弱体化を図っていて、日本国憲法は彼らの草案によるものではありますが、どう考えでも、自衛のための戦争、戦力保持、交戦権を完全否定しているとは考えられません。いくら当時のGHQが、コミンテルンのというソ連のスパイに浸透されていたという歴史的事実があるにしても、ソ連にしても、いかなる国であろうと、自衛権まで完璧に否定するような憲法などあり得ないと考えていたし、それが常識だと思います。当時のソ連としては、国際的紛争の手段として、将来日本が復活して再度強大な軍事力を用いれば、過去には関特演に圧倒され怯えていたソ連もいずれまた脅威に晒されることになる恐れも十分あったので、これは完全に否定したものの、自衛権まではさすがに否定しきれなかったと思います。自衛権を否定する憲法を草案したとしたら、それは採用されるはずもないという判断というか、そもそもそんなことはあり得ないということで、少なくとも潜在意識中にはそのような観念があったと思います。だからこそ、日本国憲法9条も、佐々木惣一氏の指摘するように、自衛権そのものまで否定するものではないと私は、考えます。
その後、このブログには、日本国憲法は、国連憲章やパリ不戦条約などを前提としたものであり、そのような憲法は日本だけではなく、他の国の憲法にも存在することも掲載したことがあります。
パリ不戦条約とは、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段として、締約国相互で戦争の放棄を行い、紛争は平和的手段により解決することを規定したものです。パリ条約(協定)、パリ不戦条約、ケロッグ=ブリアン条約(協定)とも言います。当条約には期限や、脱退・破棄・失効条項が予定されていないため、この条約は現在でも有効との論があります。
当条約と類似の著名な主張、各国憲法、国際条約などには以下があります。
●1713年 サン・ピエール『永久平和の草案』(国際法による戦争放棄を主張)
●1791年 フランス憲法(1848年憲法の前文、1946年憲法の前文に復活)
フランス国民は、征服の目的をもって、いかなる戦争をも行うことを放棄し、またいかなる国民の自由に対しても決して武力を行使しない。— 1791年 フランス憲法
●1931年 スペイン憲法(国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄)
●1935年 フィリピン憲法(国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄)●1945年 国際連合憲章
いかなる紛争でもその継続が国際の平和及び安全の維持を危くする虞のあるものについては、その当事者は、まず第一に、交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取極の利用その他当事者が選ぶ平和的手段による解決を求めなければならない。— 国際連合憲章第33条 (1945年6月)
●1946年 日本国憲法
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。— 日本国憲法第9条第1項 1946年
●イタリア共和国憲法
イタリアは、他人民の自由に対する攻撃の手段としての戦争及び国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する(以下略)— イタリア憲法第11条1946年
●ブラジル憲法
●1947年 東ドイツ憲法
●1949年 西ドイツ憲法
諸国民の平和的共存を阻害するおそれがあり、かつこのような意図でなされた行為、とくに侵略戦争の遂行を準備する行為は、違憲である。これらの行為は処罰される。— ドイツ基本法第26条第1項以上の国々では、日本を除いてすべて軍隊が存在しますし、日本以外の国で自衛権を放棄している国などありません。こういう現実をみれば、日本だけが軍隊も持てない戦争もできないなどという日本の憲法解釈は単なる錯誤であることがおわかりいただけると思います。
ただ、京都学派の佐々木惣一氏は、1965年に亡くなられていますし、現代的な見地からこの問題に踏み込んだ論考は私には、できませんでしたし、似たようなことは当時から何人かの人たちがしていたのですが、それでも大きな動きになるようなことはありませんでした。
佐々木惣一氏 |
ただ、ロシアによるウクライナに対する武力侵攻により、憲法問題にも関心が集まり、篠田 英朗の現代的な観点からの、上記のような論考が公表され、まさに我が意を得たりという思いまがします。
今後保守、リベラル・左派を問わず、篠田 英朗のこの論考を無視して論を展開することは許されないと思います。既存の憲法学者らはこれを無視するでしょうが、それは傲慢不遜というものです。
現行憲法下で侵略に抵抗する自衛権の行使は何ら問題がない事は自明といえます。であれば今必要な議論は、本来は戦力によっての日本の自衛力を高め、実際に侵略された時にどう抵抗するかの議論すべきであると考えます。そうして、保守派の9条改正論議は、リベラル・左派さらには一部の保守派による自衛権の行使に問題ありとする根拠なき誤解、曲解を完璧になくすために、改正するというように展開していくべきではないかと思います。
そうして、これは「国連が定める武力行使禁止一般原則」および集団安全保障や個別的・集団的自衛権の仕組みを信頼して、自分たちの安全と生存を維持する、ということを意味しているのです。
ところが、今回のロシアのウクライナ侵攻によって、「国連が定める武力行使禁止一般原則」は平然と安保理の常任理事国によって破られたのです。
もはや国連の「集団安全保障」が機能していないのです。「個別的・集団的自衛権の仕組み」(日米同盟)が重要性を増すことになりました。
やはり集団的自衛権の行使を「限定」せず、現時点で備えうるすべての機能を備えられるように、憲法解釈を是正する必要があります。それが今回の教訓です。
そうして、憲法改正をするなら、日本には自衛権があることはもとより、集団的自衛権の行使を「限定」しないことをはっきりとさせる内容とすべきです。そうして、これは国連憲章でも認められた独立国の固有の権利であることもはっきりさせるべきです。
それとバイデンが大統領選挙選でヒラリーを応援しているときの応援演説で、「トランプは日本の憲法は米国が作ったことを知らないようだ」と発言していたように、日本国憲法は実質的に米国がつくったものなのですから、これを日本国憲法として国民が認めるかどうかという国民投票によって確認する必要があります。
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