【画像】11月28日以降、北京のデモ現場では大量の警察車両が警戒にあたる
しかし、徐々に人は増え始め、日をまたいだ28日の午前1時過ぎには歩道から車道にまで溢れかえっていた。
それは私が北京に赴任して1年あまりの生活で、初めて見る光景だった。
1000人を超える市民が、目の前にいる警察に臆することなく「マスクはいらない!PCR検査はいらない!自由が欲しい!」と、繰り返しその主張を口にしていた。そして、手にはデモの象徴である「白い紙」を持っていた。
ある中国人は私に対し「このデモの光景は中国では流れない。あなたたち外国メディアによって世界に報じて欲しい」と強く語った。
繰り返された国歌斉唱
北京市のデモでは、参加者らによって中国の国歌「義勇軍行進曲」が繰り返し歌われていた。
中国の国歌には、勇ましいメロディーの冒頭に「立ち上がれ!奴隷となることを望まぬ人々よ!」という歌詞がある。デモに参加した市民は、「この歌はまさに今の私たちのためにある。今立ち上がらなければ私たちは国家の奴隷になってしまう」と話した。参加者らは自分たちを鼓舞するかのように、何度も「立ち上がれ!立ち上がれ!」と繰り返し強く歌っていた。
皮肉にも、国が行う政策に抵抗するために、国歌が歌われていたのである。
一方で、北京で行われたデモにはある特徴があった。
上海のデモで聞かれた「共産党退陣!」「習近平退陣!」という現体制を直接批判し、習近平国家主席の退陣を求めるような過激な要求は、北京では起きなかったのだ。
参加者の中には「レッドライン(越えてはならない一線)」を意識していたと思われる動きもあった。あるデモ参加者が興奮して、歴史的誤りとされた文化大革命とゼロコロナ政策を重ねて「文化大革命2.0を終わらせろ!」と大声で叫んだとき、別の参加者から「そういうことを言ってはいけない。私たちの訴えはこの不合理な防疫政策をやめさせることだ」と止める場面もあった。
また、デモ参加者に対する警察当局の対応も、車道にはみ出た場合のみ「歩道に戻りなさい」と注意を促すだけで、警察当局が強権的な取り締まりをすることはなかった。警察当局は、力による抑え込みはしないように指示を受けていたとみられる。デモは、最終的には警察に促される形で解散となった。
デモは「怖くない」とは言えないが…
北京のデモ参加者は、取材に対して次のように答えた。
――なぜ、このようなデモが行われた?
新型コロナが発生してからの3年間、中国人は何も話せません。そして生活は今も大きな影響を受けています。
――手に持っている「白い紙」にはどのような意味がある?
この白い紙には「中国では何も話せない」という意味があります。この現実を表すものとして私たちは持っています。
――警察がいる前でデモをすることは怖くないか?
北京のみんなは今日初めてここに集まりました。私には仕事があるし、妻もいるし家族もいます。だから「怖くない」とは言えません。でも私は自由が欲しい。普通の生活が欲しい。今の中国はおかしくなっています。ゼロコロナ政策は愚かな政策。私はこの国を守りたいのです。
また別のデモ参加者は「私たちはゼロコロナ政策の全てを否定しているわけではない。過剰な政策のやり方を批判しているだけだ」と語った。
「北京でデモが起きた」という事実の大きさ
デモが行われてから1週間が経ち、ゼロコロナ政策の緩和とみられる動きが各地で起きている。封鎖されていた住宅や商業施設や飲食店などが開放され、48時間以内の陰性証明がなければ乗れなかった地下鉄やバスも通常に戻った。
こういった動きに対して、日中外交筋の関係者は「やはり首都北京でデモが起きたという事実は大きかった。あの日を境にして厳格なゼロコロナ政策の風向きが変わった」と語る。その上で次のようにも指摘する。
「共産党政権にとっては、市民がデモを行えば要求が通るとは思わせてはいけない。今、北京では表向きは当局の締め付けは穏やかに見えるが、水面下では厳しく締め付けを行っている」
実際、北京のデモに参加した人の元に警察から直接連絡が入り、24時間取り調べを受けたという報告もある。デモ翌日にはSNS上で「北京で再び集まろう」という呼びかけのメッセージが拡散したが、実現することはなく、11月28日以降は中国で“白紙革命”は起きていない。
一方で、中国に端を発した“白紙革命”は世界中に広がった。日本や韓国、アメリカなど少なくとも12都市で抗議集会などが開かれている。
「立ち上がれ!奴隷となることを望まぬ人々よ!」。厳しいコロナ対策で自由が奪われることを「奴隷」にたとえ、人々が立ち上がった。今後、中国はどうなっていくのか。中国北京にいる特派員の1人として、この歴史をしっかりと取材し報じていきたい。
【執筆:FNN北京支局・河村忠徳】
河村忠徳
起来! 不愿做奴隶的人们!1949年に中国共産党によって建国された社会主義国家、中華人民共和国。建国当初は暫定的な仮の国歌として、抗日映画「風雲児女」の主題歌である『義勇軍進行曲(行進曲)』の使用が人民会議で決定されましたが、その後も結局正式な国歌は制定されず今日に至っています。
把我们的血肉,筑成我们新的长城!
中华民族到了最危险的时候
毎个人被迫着发出最后的吼声
いざ立ち上がれ 隷属を望まぬ人々よ!
我等の血と肉をもって
我等の新しき長城を築かん
中華民族に迫り来る最大の危機
皆で危急の雄叫びをなさん
起来! 起来! 起来!
我们万众一心,
冒着敌人的炮火,前进!
冒着敌人的炮火,前进!
前进! 前进! 进!
起て!起て!起て!
万人が心を一つにし
敵の砲火に立ち向かうのだ!
敵の砲火に立ち向かうのだ!
進め!進め!進め!
1930年代に制作された上海映画の作品群の中では一際影響が大きく、主題歌の「義勇軍行進曲」は 瞬く間に全国で歌われるようになり、後に中華人民共和国の国歌になりました。
日本の学校教育法で認可された高校の公式行事で中国国歌が演奏されることに問題性を感じる。この学校の校長は中国国歌「義勇軍進行曲」が1935年に作られた抗日プロパガンダ映画「風雲児女」の主題歌から作られたものであることを知っているのだろうか。 pic.twitter.com/3wgOPbXzBT
— 六衛府 (@yukin_done) April 27, 2018
学校や職場では『東方紅』が朝一番に必ず斉唱され、ラジオ放送では『東方紅』で始まり、革命歌『インターナショナル』で締めくくられる構成が日常となりました。一説には、むしろ『インターナショナル』の方が第一国歌的な扱いを受けていたとの評価もあるようです。
文化大革命の終結後(1978年)は『義勇軍進行曲(行進曲)』に新たな歌詞がつけられ、毛沢東や中国共産党を讃える政治色の強い国歌として数年間歌われました。
1982年12月4日の第5期全国人民代表大会第5回総会において、田漢が作詞した歌詞が再び国歌として決定されました。その後、2004年には中華人民共和国憲法が改正され、『義勇軍進行曲(行進曲)』が中国の正式な国歌であることが明記されました。
中国「白紙革命」の行方―【私の論評】バラバラだった中国国民にはじめて共通の念が生まれた。それは、中共に対する恐怖と憎悪(゚д゚)!
今回の「白紙革命」によって、中国共産党への恐怖・憎悪という中国国民に共通の考えができあがりつつあります。ただ、これを理念と呼ぶには、まだ次元の低いものです。恐怖・憎悪の念は一時的には、多くの人の共感を呼びますが、それだけでは、一時的にも恐怖や憎悪が収まれば、消えてしまいかねません。プーチンは、NATOに対する恐怖や憎悪の念で、国民をまとめ、高支持率を獲得しましたが、その目論見はウクライナ侵攻では、裏目にでています。「理念」は「物事に対して“理想“とする”概念“」のことで、「こうあるべき」というベースの考え方を指すものです。 企業では、会社の方針や社員に求める行動指針などを表現する時によく使われます。中国においても、この恐怖・憎悪の念がいずれ誰かによって昇華され、中国国民であれば、誰もが共感できる「理念」に変わっていくかもしれません。国民国家には、「こうあるべき」という規範が必要なのです。その誰かは、まだ見えてきません。ただ、この共通の理念となるかもしれない中国共産党に対する多くの中国国民の恐怖・憎悪の念は、容易なことでは覆されることはないでしょう。なせせなら、これは従来とは異なり、立場や社会的地位を乗り越えてかなり多くの中国人に共有されることになったからです。
中国は、社会階層や貧富の差、民族、宗族、地域差、文化、言語などが異なる全くバラバラの集合体であり、 中共はこれを人為的に、軍事力などを背景に無理やり一つにまとめてきました。その中国で、おそらく初めてとも言って良い、中共に対する恐怖・憎悪の念で多くの人々が一つにまとまったのです。
西欧の近代主義的考え方も、最初は今でいえば、先制主義的な、領主、国王などに対する恐怖や憎悪の念から、自由への渇望などが生まれ、恐怖・憎悪の念が、理想や規範の次元に高められ、現在の民主主義などの考え方にまで昇華されて現在に至っているのです。
北京の人々が、ゼロコロナ政策に反対するために、元々は抗日プロパガンダ映画の主題歌であった『義勇軍進行曲(行進曲)』を歌ったというのですから、これは先に述べたように、歴史の皮肉と言わざるを得ません。
中国では、似たようなことが以前もありました。いわゆる2012年あたりに、過激になった反日デモです。この反日デモは、最初は官製デモともいわれていたのですが、その後政府の規制もあって、現在ではほとんど実施されることはなくなりました。
なぜ、政府が規制するようになったかといえば、ほとんど全部の反日デモが必ずといって良いほど、反政府デモになってしまったからです。中には、最初から反政府デモを行うつもりでありながら、反政府デモということでは届けを出しても許可されないどころか、弾圧されるので、愛国反日デモを行うとして届けを出して、実際には反政府デモを行うという人たちもでてきました。
だから、政府は反日デモの規制に乗り出したのです。さらに、政府は、反日サイトの規制にも乗り出しました。こちらのほうも、反日サイトと謳っておきながら、いつの間にか、反政府の書き込み等がふえ、反政府サイトになってしまうことがほとんどだったのです。
ただ、こうした反政府の動きは、結局政府によって弾圧されてしまいました。反政府とはいっても、これは中国共産党中央政府に向けられたというよりは、地方政府に向けられたものが多かったとみられ、中国全土で同時に中共に向けて行われたものではなかったので、何とか弾圧できたのでしょう。
中共は、苛烈な香港デモも鎮圧してしまいました。いくら苛烈であっても、全国レベルではなく、地域レベルのデモということであれば、中共も余裕をもって鎮圧できるとみえます。
天安門事件も、元々は学生が起こしたものであり、学生というと、当時の学生は数が少なく、いわゆインテリ中のインテリであり、一般の人でもデモなどに共感する人はいましたが、当時の中国は極度に貧しく、同調する人がいたとしても、多くの人は生活が精一杯で何もできなかったというのが実状でしょう。
中国の公の歴史から消された天安門事件 |
だから、多くの死傷者を出しても中共はこれを弾圧して、なきものにすることができました。天安門事件は今や歴史から抹殺され、若者では知る人もあまりいないくらいです。
しかし、今回の「白紙革命」は違います。多くの中国人が、一度に様々な違いを乗り越えて、中共に対する恐怖と憎悪の念を共有して、時を一つにして、中共に対して、反対の声をあげたのです。今回は、貧しい人たちも、富める人々も、命の危険すら身近に感じ、恐怖と憎悪に耐えかねて、反対の声をあげざるをえなかったのでしょう。
中国からの情報は少ないので、以上のようなことは推測の域を超えていないのですが、それにしても、この推測はかなり当たっているものと思います。
なぜなら、中国政府は、「ゼロコロナ」政策に対する抗議デモ後に、新型コロナウイルスの防疫対策を「自分で身を守る」方針に急転換したからです。これは、従来の中国では考えられないないことです。天安門事件も、反日デモも、香港のデモも力で弾圧した中共が、コロナ対策の方針を変えたのです。これは、やはり、今回のデモは従来のものとは、異質であり、これを従来のように強硬に弾圧すれば、これに対する反動はとてつもないことになると判断したからだと考えられます。
おそらく、従来中国共産党を支持してきた、富裕層などからも反発・離反されたのでしょう。ただ、習近平は現代の中国を毛沢東時代の中国に戻そうとしているのですから、多くの中国人は、これからも中共や習近平に対して、恐怖と憎悪の念を持ち続け、いずれ中国人の多くが共有できる理念を生み出す人物が出てくると思います。
できれば、大陸中国にも台湾の李登輝先生のような人物がでてきて、大きな内乱を起こすことなく、中国独自の民主化を推進していただきたいものです。
安倍晋三氏(右)と握手を交わす李登輝氏=2010年10月、台北市 |
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