【全文】天皇陛下のおことば 東日本大震災10年 犠牲者の追悼式
天皇陛下は、東日本大震災の発生から10年になる11日、皇后さまとともに東京都内で開かれた犠牲者の追悼式に出席し、被災者に寄せる思いを述べられました。以下、おことばの全文です。
ここに皆さんと共に、震災によって亡くなられた方々とその御遺族に対し、深く哀悼の意を表します。
十年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、二万人を超す方が亡くなり、行方不明となりました。
また、この地震に伴う津波や原子力発電所の事故により、多くの人々が避難生活を余儀なくされました。
この震災の被害の大きさは、忘れることのできない記憶として、今なお脳裏から離れることはありません。
あれから十年、数多くの被災者が、想像を絶する大きな被害を受けながらも、共に助け合いながら、幾多の困難を乗り越えてきました。
また、国や全国の地方自治体、百六十を超える国・地域や多数の国際機関、大勢のボランティアなど、国内外の多くの人々が様々な形で支援に力を尽くしてきました。
私も、皇后と共に、被災地を訪れてきましたが、関係者の努力と地域の人々の協力により、復興が進んできたことを感じています。
これまで復興に向けて歩んできた多くの人々の尽力とたゆみない努力に深く敬意を表します。
一方で、被災地ではまだ様々な課題が残っていると思います。
復興が進む中にあっても、新しく築かれた地域社会に新たに人と人とのつながりを培っていく上では課題も多いと聞きます。
家族や友人など親しい人を亡くしたり、あるいは住まいや仕事を失い、地域の人々と離れ離れになったりするなど生活環境が一変し、苦労を重ねている人々のことを思うと心が痛みます。
また、原子力発電所の事故の影響により、人々がいまだに自らの家に帰還できない地域や、帰還が始まったばかりの地域があり、農林水産業への風評被害の問題も残されています。
高齢者や子供たちを含め、被災された方々の心の傷を癒やし、心身の健康を見守っていくことも大切であると感じます。
今後、困難な状況にある人々が、誰一人取り残されることなく、一日でも早く平穏な日常の暮らしを取り戻すことができるように、復興の歩みが着実に実を結んでいくよう、これからも私たち皆が心を合わせて、被災した地域の人々に末永く寄り添っていくことが大切であると思います。
私も、皇后と共に、今後とも被災地の方々の声に耳を傾け、心を寄せ続けていきたいと思います。
先月にはマグニチュード七を超える地震が福島県沖で発生しました。
被災された皆さんに心からのお見舞いを申し上げます。
この地震は東日本大震災の余震と考えられており、このことからも、震災を過去のこととしてではなく、現在も続いていることとして捉えていく必要があると感じます。
我が国の歴史を振り返ると、巨大な自然災害は何度も発生しています。
過去の災害に遭遇した人々が、その都度、後世の私たちに残した貴重な記録も各地に残されています。
この度の大震災の大きな犠牲の下に学んだ教訓も、今後決して忘れることなく次の世代に語り継いでいくこと、そして災害の経験と教訓を忘れず、常に災害に備えておくことは極めて大切なことだと考えます。
そして、その教訓がいかされ、災害に強い国が築かれていくことを心から願っています。
今なお様々な困難を背負いながらも、その苦難を乗り越えようとたゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ、安らかな日々が一日も早く戻ることを皆さんと共に願い、御霊への追悼の言葉といたします。
それゆえ、朝廷の天皇勢力が当時の権力者に本気で逆らった「承久の乱」や「建武の新政」の際も、朝廷の天皇そのものを滅ぼすという発想はありませんでした。
これは細かく歴史を振り返ってみても、終始一貫した日本独自の国民性といえます。
たとえば、飛鳥時代の蘇我馬子。当時は相当な権力者でしたが、本人が大王になろうとまではしませんでした。平安時代の藤原道長も平清盛もそう。2人とも、自分の娘を天皇に嫁がせて外戚となり、権威を利用しただけです。
室町幕府の3代将軍・足利義満も、天下統一直前だった織田信長も、天皇になろうとか排斥しようと思ったことはありません。天下を統一した豊臣秀吉も、朝廷を滅ぼすだけの力を持っていましたが、あえて関白に就任しています。天皇の補佐をすることで、農村の足軽出身という出自の低さを補おうしようとしました。
木造東照権現(徳川家康)像 |
そうすると、徳川家にとっても、天皇は尊い存在となるわけですが、それを外様大名などに政治利用されたら困ってしまいます。
そのため、禁中並公家諸法度などの法令によって、天皇と朝廷の活動を規制するとともに、京都所司代を置いて、朝廷の動きを監視しました。
こうした圧力に対し、当然、反発する動きも出てきます。特に江戸時代初期の後水尾天皇は強く反発し、朝廷と幕府の関係が険悪になることもありました。
しかし後水尾以降は、強大な幕府政権に抵抗しようとする天皇は現われず、そのまま幕末を迎えることとなります。
幕末において、天皇という存在を人々に印象づけるきっかけとなったのは、嘉永6年(1853)のペリー来航でしょう。時の老中、阿部正弘が、孝明天皇にこの出来事を報告したからです。
ただ、外交上の重大事を朝廷に報告するのは、幕府がつくった慣例で、文化4年(1807)、ロシア軍艦の乱暴行為を天皇の求めに従って朝廷に報告したのが始まりでした。
その後、孝明天皇が日米修好通商条約への勅許を拒絶したことで、天皇の存在は強烈な光を放ちます。天皇を奉じて外国を駆逐しようという、尊王攘夷運動が巻き起こるのです。
孝明天皇 |
その潮流は、やがて倒幕運動へと変化。さらに大政奉還、王政復古の大号令へと発展していきます。つまり、倒幕派が天皇の権威をうまく利用したと言えるでしょう。
明治時代以降も、どんなに良い地位についたとしても、誰一人として天皇に成り代わろうと考えた人物はいません。
そういう意味では、太平洋戦争後、GHQのマッカーサーが朝廷を維持した判断は正しかったといえます。天皇や国のために神風特攻隊や人間魚雷として命を投げ出すような国民ですから、朝廷を廃止してしまったら何をするかわからないし、マッカーサーが日本はまとまらないと考えた背景には、これだけの歴史があったのです。
昭和天皇(右)とマッカーサー |
現在多くの国々において、「分断」が大きな問題になっています。いっぽう、我が国においては、内外にさまざまな問題や対立を孕みつつも、それを超越した「悠久の日本」を体現される天皇陛下が、気品ある、優美なるお言葉やお振る舞いをもって、非運にたおれた霊を慰められ、災害などで苦しい立場に置かれた人々を励まされ、また人々の安寧や幸福を祈願されています。
過去と同様、今後も日本のよき社会秩序や伝統がつづくだろうとの信頼があるからこそ、私たちは災害や感染症などの苦難に見舞われても、忍耐強く、秩序立って振る舞えるし、子や孫、さらにその先の世代すら見据えて、励まし合い、協力し合えるのではないでしょうか。
【全文掲載】天皇陛下 新年ビデオメッセージ―【私の論評】天皇弥栄。国民を思い祈り続けてくださる天皇陛下という存在を忘れずに、私たちも生き続けていこう(゚д゚)!
『女系・女性天皇』6割超賛成の危険性… 八木秀次教授、皇統は「男系の血筋を継承すべき」 産経・FNN世論調査―【私の論評】血筋は大河の流れのよう、これを活用すれば皇統は絶えない(゚д゚)!