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2026年11月2日月曜日

朝日新聞のアマゾン水銀汚染報道に重大な欠落——独自調査で中国からの密輸経路を確認

まとめ

  • 朝日新聞のアマゾン水銀汚染報道に重大な欠落。 胎児への深刻な危険を伝えながら、違法金採掘を支える水銀の供給元には踏み込んでいない。
  • 独自調査で中国からの水銀密輸を確認。 ブラジル政府の一次資料を追跡し、中国の供給業者が関与した密輸と、パラ州にも及ぶ違法流通網を明らかにした。
  • 朝日新聞はなぜ中国に触れなかったのか。 汚染源の個別特定は未解明だが、公開済みの重要な事実を報じなかった理由と、報道機関の説明責任を問う。

2026年10月24日、朝日新聞with Planetは、ブラジルのアマゾンで深刻化する水銀汚染を報じた。11月1日には「水銀汚染で胎児にリスク『あなたが買う金が私たちを殺す』」という見出しでYahoo!ニュースにも転載された。違法な金採掘に使われる水銀が河川を汚染し、魚を食べる先住民の健康を脅かしているという内容である。

被害は深刻だ。妊婦の体内に蓄積した水銀は胎児の脳の発達に悪影響を及ぼす危険があり、幼い子どもにも運動機能や認知機能への影響が懸念されている。日本の水俣病を思い起こさせる事態であり、朝日新聞が現地を訪れ、被害者の声を伝えたことには意義がある。しかし、この記事には看過できない欠落がある。違法採掘に使われる水銀を誰が、どこから供給しているのかという問題に踏み込んでいないのだ。

実は、ブラジル政府は既に、中国の供給業者が関与した水銀密輸ネットワークを摘発している。中国由来とみられる水銀がアマゾンの違法採掘現場で確認されたことも、政府の公式報告書に記されている。これらは朝日新聞の記事が公開される以前から公表されていた事実である。それにもかかわらず、今回の記事には中国という国名が一度も登場しない。

なぜなのか。

朝日新聞は金を購入する消費者に責任を問いかけながら、違法採掘を支える水銀の供給網について説明していない。被害者の苦しみを伝えることは重要だ。しかし、汚染を生み出す経済構造や国際的な犯罪組織の活動を明らかにしなければ、被害を止めるために何が必要なのかも見えてこない。今回は、朝日新聞が伝えた被害の実態を確認したうえで、ブラジル政府の一次資料から中国の関与を検証し、報道機関が果たすべき役割を考える。

1️⃣アマゾンの水銀汚染は胎児にまで危険を及ぼしている

朝日新聞が取材したのは、ブラジル北部パラ州のタパジョス川流域にある先住民族ムンドゥルクの集落、サウレアボイである。この地域では金採掘に伴う水銀汚染が深刻化し、魚を主な食料とする住民の健康が脅かされている。

アマゾン地域の住民を対象とした毛髪水銀検査のイメージ AI生成画像
金の採掘では、砂や泥に含まれる微細な金を回収するため、水銀が使われることがある。水銀には金と結び付いて合金(アマルガム)を作る性質があり、これを利用して金を集める。その後、アマルガムを加熱して水銀を蒸発させ、金を取り出す。しかし、この過程で水銀蒸気が大気中に放出され、作業中に流出した水銀は河川や土壌を汚染する。環境中の水銀の一部は微生物の働きによって毒性の強いメチル水銀に変わり、魚に蓄積する。それを食べる住民の健康が脅かされるのである。

とりわけ危険なのが妊婦と胎児である。メチル水銀は胎盤を通過し、発達途中の胎児の神経系に影響することがある。母親に目立った症状がなくても、生まれてくる子どもの運動機能や認知機能の発達が損なわれる可能性がある。朝日新聞によると、ブラジルの研究機関オズワルド・クルス財団が2026年5月に発表した調査の速報値では、妊婦195人の毛髪水銀濃度は平均9.1ppm、最高39.9ppmに達した。財団が健康被害を避ける目安としている2ppmを大幅に上回る数値である。調査対象となった10集落のうち7集落では、財団が極めて高いリスクと判断する10ppm以上の値が確認された。

ただし、この数値だけで個々の胎児に障害が生じたと断定できるわけではない。朝日新聞の記事でも、医師たちは水銀曝露以外の要因にも注意を払いながら、妊婦と幼児の健康状態を追跡している。しかも、深刻な水銀汚染は最近になって判明したものではない。パウロ・バスタ医師らが2019年に実施したムンドゥルクの住民を対象とする研究では、サウレアボイ集落の調査対象者40人のうち87.5%で、毛髪水銀濃度が6ppm以上に達していた。この研究は2021年に公表されており、同集落で高濃度の水銀曝露が続いていることは以前から科学的に確認されていたのである。

朝日新聞の記事では、妊婦が肉食魚を避けようとする姿や、医師たちが住民に水銀の危険を教える取り組みが紹介されている。これらの努力は重要だ。しかし、住民が食生活を変えても、違法採掘が続けば汚染そのものは止まらない。しかも、金採掘による水銀汚染には、採掘業者が外部から持ち込む水銀だけでなく、森林伐採や掘削によって土壌中の水銀が河川に流出する経路もある。したがって、被害を防ぐには、水銀の違法流通を取り締まるとともに、汚染を引き起こす採掘活動そのものを抑えなければならない。

では、違法採掘に使われる水銀はどこから来るのか。その供給構造を調べると、中国の供給業者が関与する密輸ネットワークが浮かび上がってくる。

2️⃣ブラジル政府は中国からの水銀密輸を既に把握していた

2025年10月、ブラジル情報庁(ABIN)、環境省、ブラジル公共安全フォーラムは、『Mercúrio na Amazônia(アマゾンの水銀)』と題する合同報告書を公表した。この報告書の16ページには、重要な事実が記されている。中国は世界最大の水銀生産国であり、2018年から2024年までの公式輸出統計では、南米諸国に約41トンの水銀を輸出していた。さらに、ブラジルのアマゾンにある違法金採掘現場で、中国由来とみられる水銀が確認されたという。

報告書は、中国からブラジルへの正式な水銀輸入記録が存在しないことも指摘している。つまり、中国由来とみられる水銀が違法採掘現場で見つかっている一方、正規の輸入経路は確認できていないのである。ただし、約41トンという数字は中国から南米諸国全体への公式輸出量であり、ブラジルへの密輸量ではない。また、中国が世界の水銀輸出を独占しているわけでもない。ブラジル政府の報告書は、ボリビアやガイアナなどを経由する供給経路についても詳しく分析している。

それでも、中国の供給業者が違法流通に関与したことは、具体的な捜査によって裏付けられている。2026年8月14日、ブラジル連邦検察庁は大規模な水銀密輸事件について発表した。連邦検察庁によると、2019年から2022年にかけて、犯罪組織が約5.4トンの水銀を違法に売買していた。組織は中国とメキシコの供給業者から水銀を調達し、航空貨物でブラジルのヴィラコッポス空港へ送らせていた。ボリビアから陸路で持ち込む経路や、ブラジル国内の業者から調達する経路も使われていたという。

中国の供給業者が関与した水銀密輸ネットワークの概念図。ブラジル連邦検察庁の2026年8月14日の発表などを基に作成。中国由来の水銀がサウレアボイ集落に供給されたことは確認されていない。クリックす.s
拡大します。
組織は水銀を鉄製の球や廃材、機械部品などと偽って輸送し、架空会社や虚偽の書類を利用して流通させていた。筋力トレーニング用の重りやハンマーの内部に水銀を隠す手口も確認されている。こうして調達された水銀は、マットグロッソ州やパラ州の違法金採掘現場に販売されていた。パラ州は、朝日新聞が取材したサウレアボイ集落のある州である。

ただし、約5.4トンは中国産だけの数量ではなく、複数の調達元を含む組織全体の取扱量である。また、中国から送られた特定の水銀が、パラ州のどの鉱山へ届けられたかまで確認されたわけではない。公表された捜査結果をもって、サウレアボイ集落の汚染源を中国と断定することはできない。ここで区別すべきなのは、検察当局が捜査で把握した事実と、裁判で確定した事実である。連邦検察庁は事件の関係者を訴追し、連邦裁判所が刑事手続きを進めている。起訴されたこと自体が有罪確定を意味するわけではない。

しかし、中国の供給業者から水銀を調達し、ブラジルの違法採掘市場に流通させる密輸ネットワークが捜査対象となり、その具体的な仕組みが公表されていることは動かし難い事実である。

さらに2026年9月3日、ブラジル連邦検察庁はSNS上の違法な水銀販売広告についても発表した。検察庁はTikTok上で108件の関連投稿を確認し、その再生回数は合計580万回を超えていた。販売の連絡先には中国に関連付けられた電話番号も含まれていたという。実際の取引成立までは確認されていないが、違法な水銀販売がインターネットを通じても行われようとしている実態を示している。

こうした資料を総合すれば、中国からの水銀密輸を単なる憶測として扱うことはできない。もちろん、今回のサウレアボイ集落で使われた水銀の原産国まで中国と特定されたわけではない。しかし、それを理由に、ブラジル政府が確認している中国の供給業者との密輸取引まで無視してよいことにはならない。個別の集落における水銀の原産地が未解明であることと、中国の業者がアマゾン向けの水銀密輸に関与していたことは、明確に区別すべき問題なのである。

3️⃣朝日新聞はなぜ中国の水銀密輸を報じなかったのか

朝日新聞の原記事が公開されたのは2026年10月24日である。ブラジル政府の合同報告書が公表されたのは2025年10月、中国の供給業者が関与した水銀密輸事件の捜査結果が発表されたのは2026年8月14日である。つまり、朝日新聞が記事を公開した時点で、これらの資料は既に公表されていた。しかも、ブラジル政府の合同報告書は、朝日新聞が取材したムンドゥルクの居住地域における水銀汚染を論じる一方、中国由来とみられる水銀の存在や、中国の供給業者が関与した密輸事件にも言及している。政府の公開資料を調べれば、両方の情報に行き着くことができたのである。

それにもかかわらず、朝日新聞の記事には中国への言及が一切ない。なぜ、既に公表されていた重要な事実を読者に伝えなかったのか。

朝日新聞の報道とブラジル政府の公開資料を比較検証するイメージ。画像内の紙面・資料は実物ではない(AI生成画像)。
朝日新聞は記事の最後で、先住民族ムンドゥルクの女性リーダー、アレサンドラ・コラップさんによる金の購入者への告発を紹介している。消費者が金の由来に目を向けることは重要だ。しかし、違法採掘を支える水銀の供給者や、採掘された金を買い取る業者にも目を向けなければ、問題の全体像は見えてこない。実際、金の販売先についても具体的な捜査結果が存在する。

2025年5月27日、ブラジル連邦検察庁はパラ州での大規模な違法金輸出事件について発表した。この事件では、イタイトゥバ周辺などで違法に採掘された金について、虚偽の請求書を使って合法的な金であるかのように偽装し、海外へ輸出していた疑いで36人に対する刑事裁判が始まった。検察庁が挙げた輸出先には、アラブ首長国連邦、インド、香港、イタリア、スイスが含まれている。

香港への輸出が確認されたからといって、中国本土の企業が最終購入者だったと断定できるわけではない。また、水銀密輸事件と金輸出事件が同じ犯罪組織によるものだったと立証されたわけでもない。しかし、パラ州の違法金採掘を巡って、海外から水銀を調達する経路と、違法に採掘した金を海外へ流出させる経路が、それぞれ確認されていることは重要である。

違法金採掘は、山奥で金を掘る者だけの問題ではない。水銀の調達、採掘機械の投入、金の買い取り、原産地の偽装、海外への輸出という一連の取引によって支えられている。金の国際価格が上昇すれば、違法採掘の利益も増え、取り締まりを逃れて新たな採掘設備を投入する動機が生まれる。こうした構造を解明せず、消費者に金の購入を考え直すよう求めるだけでは、犯罪組織の活動を止める具体策は見えてこない。

朝日新聞の今回の記事が、妊婦や子どもの健康被害を中心とする現地ルポであることは理解できる。記事には取材目的があり、すべての問題を網羅することはできない。中国に言及しなかったという事実だけで、意図的に中国の関与を隠したと断定することも適切ではない。だが、意図的な隠蔽を証明できないことと、報道の不足を批判できないことは別である。

問題は、朝日新聞が中国をかばおうとしたかどうかという、証明されていない意図ではない。中国の供給業者が関与した密輸事件が公表されていたにもかかわらず、記事では水銀の国際的な供給構造を説明しなかったという、具体的な編集上の問題である。朝日新聞は水俣病の歴史を取り上げ、企業や行政の対応の遅れが被害を拡大させた教訓を紹介している。原因を知りながら必要な対策を講じなかったことが、いかに重大な結果を招くかを伝えたのである。その教訓を現在のアマゾンに当てはめるなら、汚染の被害だけでなく、汚染を生み出す経済活動と、それを支える国際的な供給網にも目を向ける必要があるはずだ。

ここで朝日新聞に問いたい。中国の供給業者が関与した水銀密輸事件を把握していたのか。把握していたなら、なぜ記事で取り上げなかったのか。把握していなかったなら、ブラジル政府の合同報告書や連邦検察庁の捜査結果について、追加の検証を行う考えはないのか。

朝日新聞がどの資料を調べ、どのような編集判断をしたのかは明らかになっていない。しかし、少なくとも公表済みの重要な情報が記事に反映されていないことは指摘できる。しかも、中国からの水銀密輸は今回の問題と無関係な周辺情報ではない。水銀を利用した違法採掘を止めるために、どのような取引を監視し、どのような犯罪組織を取り締まるべきかという問題に直結する。

朝日新聞は被害者の苦しみを伝えた。しかし、被害を生み出す仕組みの重要な部分を伝えなかった。この報道上の不足は、明確に指摘されるべきである。

報道機関は、被害者の声を届けるだけでなく、被害を生み出す原因と責任の所在を追及する役割も担う。特に、既に公表された政府資料に具体的な手掛かりがあるなら、それを調べ、読者に示すことには大きな意味がある。被害者の訴えを伝えるだけで終わるのか。それとも、被害を繰り返させないため、国境を越える犯罪構造まで追跡するのか。朝日新聞の今回の記事は、その違いを考えさせる報道でもある。

結語

1956年に公式確認された水俣病は、企業による汚染と行政の対応の遅れが、取り返しのつかない被害を生んだ事件である。胎児性水俣病の存在は、母親が摂取したメチル水銀によって、生まれる前の子どもまで被害を受けることを明らかにした。この歴史的な教訓を背景に、我が国が議長国を務めた2013年の外交会議で採択されたのが、「水銀に関する水俣条約」である。条約は2017年8月16日に発効した。

しかし、条約を締結するだけでは、水銀の密輸も違法金採掘も止まらない。水銀の国際取引を監視し、違法採掘の資金源を断ち、取り締まりを実行する国家の統治能力が求められる。ブラジルでは、連邦警察が犯罪を捜査し、連邦検察庁が刑事訴追を担い、裁判所が有罪・無罪を判断する。環境・再生可能天然資源院(IBAMA)は、水銀の流通管理や環境法令の執行に関わる。これらの機関が適切に連携し、違法採掘を取り締まらなければ、汚染を止めることはできない。

我が国も、水俣病を経験した国として、水銀の国際的な流通監視、違法採掘に由来する金の取引情報の透明化、関係国の捜査・環境監視能力の強化に協力すべきである。金を取り扱う企業についても、調達先の確認と取引記録の透明性を高めることが重要になる。中国の供給業者が関与した水銀密輸については、ブラジル当局が公表した具体的な事実に基づき、関係する事業者の責任を追及する必要がある。同時に、ボリビア、ガイアナ、メキシコなどを経由する供給網や、違法に採掘された金を買い取る国際市場についても監視を強めなければならない。

そして、朝日新聞にも改めて問いたい。ブラジル政府が中国からの水銀密輸を具体的に公表していたにもかかわらず、なぜ今回の記事にはその事実が登場しなかったのか。サウレアボイ集落の汚染源を中国と特定する証拠は、現時点では確認されていない。だからこそ、さらに取材を進め、水銀がどこから運ばれ、誰によって使用されたのかを突き止める必要がある。

朝日新聞が伝えた被害は深刻である。しかし、伝えなかった国際的な水銀供給構造もまた重要である。

水俣病の教訓とは、悲劇が起きてから被害者の苦しみを語ることだけではない。危険を生み出す仕組みを明らかにし、同じ被害を繰り返させないことである。中国の供給業者が関与した水銀密輸は、ブラジルの捜査当局によって既に公表されている。その事実を伝えず、違法採掘の背景にある供給構造を説明しなかった朝日新聞の報道には、明確な不足がある。

被害を伝えるだけでは、被害は止まらない。誰が水銀を供給し、誰が金を採掘し、誰が利益を得ているのか。そこまで追及してこそ、水俣病の教訓を生かした報道になるのである。

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2026年10月31日土曜日

あなたのWi-Fiルーターは大丈夫か――米国の電子機器認証試験、82%が中国に集中の衝撃


まとめ

  • 米国の電子機器認証試験の約82%が中国に集中。 FCCが制度の見直しを決断した。試験結果の不正、技術情報の流出、中国依存の危険とは何か。
  • 中国製ルーターから出荷時のバックドアが発覚。 技適マークがあっても安全とは限らない。家庭の通信機器が知らないうちに遠隔操作される危険がある。
  • あなたのWi-Fiルーターは大丈夫か。 日本の認証制度の課題を検証し、更新・パスワード・危険な設定など、誰でも実行できる6つの対策を紹介する。

2025年、米国向け電子機器の認証に関わる試験の約82%が、中国の試験機関で行われていた。米国内で行われた割合は4%未満だった。これは米国市場に流通する電子機器の82%が中国製という意味ではない。米連邦通信委員会(FCC)のブレンダン・カー委員長が明らかにしたのは、米国で販売する電子機器の技術基準への適合を確認する試験が、中国に極端に集中していたという事実である。

10月29日、FCCはこの依存構造を改める新たな規則を採択した。中国など、米国との試験・認証に関する相互承認関係を持たない国の試験機関を、2028年12月1日以降、原則として米国の機器認証制度から排除する。米国は、電子機器の信頼性を確認する重要な工程まで中国に依存する現状を、安全保障上の問題として見直し始めたのである。

中国への依存が問題となるのには理由がある。中国を背景とするサイバー攻撃や技術情報の窃取は、既に各国の安全保障機関が警告する現実の脅威である。中国の試験機関による不正な報告書も発覚している。さらに2026年8月には、中国製ルーター20機種のファームウェアから、出荷時に組み込まれた危険な遠隔操作プログラムが発見された。

これらはそれぞれ別の事例であり、直接の因果関係が確認されているわけではない。しかし、電子機器の製造、試験、認証、使用後の管理まで、安全保障の視点から見直す必要性を示している。

そして、この問題は米国だけのものではない。我が国でも家庭のWi-Fiルーターを通じて金融取引や仕事の連絡が行われ、企業、医療機関、金融機関、行政機関も通信機器に依存している。では、日本で使用する機器の試験はどこで行われ、設計情報は誰の手に渡り、安全性はどこまで確認されているのか。

米国は82%という数字を明らかにして制度を改めた。我が国は中国への依存の実態を把握しているのか。 この問いこそ、今回の問題の核心である。

1️⃣米国の認証試験を中国が握っていた――技術情報まで渡る危険

電子機器を販売するには、国や地域が定めた技術基準を満たさなければならない。例えばWi-Fiルーターには、使用できる周波数や電波の出力について規制がある。基準を守らない機器が使われれば、ほかの通信に干渉するおそれがある。そのため、製品を市場に投入する前に必要な試験を行い、技術基準への適合を確認する制度が設けられている。

米国ではFCCが法令に基づいて技術基準と認証手続きを定める。しかし、FCCが個々の機器をすべて自ら試験するわけではない。メーカーはFCCが認めた試験機関に測定を依頼し、認証が必要な製品については、通信機器認証機関(TCB)が試験結果や技術資料を審査する。技術基準を決めるのは規制当局であり、試験や個別の認証業務は、認められた専門機関が担うのである。

ここで見落としてはならないのは、試験・認証は、企業などが料金を受け取って提供するビジネスだということである。政府が無料で検査する行政サービスではない。高価な測定設備と専門技術者を必要とし、新製品が発売されるたびに需要が生まれる。半導体や通信機器の開発を支える、重要な専門産業なのである。

中国に試験業務が集中した背景には、電子機器の製造拠点が中国に集まったことがある。工場の近くに試験施設があれば、製品の輸送、設計変更、再試験を効率的に進められる。企業が費用と時間を節約しようとした結果、製造だけでなく試験まで中国に集中した。しかし、企業にとって合理的な判断が、国家にとって安全とは限らない。

試験機関は、単に完成品の電波を測定するだけではない。試験内容によっては、通信方式、回路構成、アンテナの性能、動作条件などの情報が必要になる。認証の過程では、発売前の製品の設計資料や技術情報を外部の事業者に提供する場合もある。すべてが企業秘密というわけではないが、競争上重要な情報が含まれる可能性はある。

米国向け電子機器の試験・認証の流れ。FCCは制度を監督し、試験と個別認証は専門機関が担う。クリックすると拡大します
中国国内の試験機関にこうした情報を提供することには、特有の安全保障上の懸念がある。中国の国家情報法第7条は、組織と国民に対し、国家情報活動を法に従って支持、協力、支援する義務を定めている。第14条には、情報機関が必要な協力を求められる規定もある。これだけで中国の試験機関が企業秘密を不正に提供していると断定はできないが、技術情報の管理を考える際に無視できない制度上の危険である。

しかも、試験の信頼性そのものに関わる不正も発覚した。2026年6月9日、FCCの技術担当部局は、中国・東莞市にあるSLG-CPC試験所について、認定取り消しに向けた手続きを開始した。FCCの公式発表によれば、異なる製品の試験報告書に測定データが流用され、33件のFCC認証番号に関係する報告書が問題となった。試験所側も不適切なデータの再利用を認めたという。

これは単なる書類の不備ではない。試験結果が信用できなければ、基準を満たさない機器が市場に出る危険がある。さらに、特定の国に試験能力が集中していれば、国際関係の悪化などで試験業務が滞った際、新製品の発売にも影響が及びかねない。企業の費用が増加すれば、最終的に消費者の負担につながる可能性もある。

10月29日に採択されたFCCの新規則は、こうした問題を踏まえ、試験・認証機関の所在地と相互承認関係を重視する制度へ転換するものである。中国だけを名指しした禁止措置ではなく、米国との相互承認協定などを持たない国・地域を原則として対象とする。試験機関の認定を維持するには、2028年12月1日までの移行期間内に新しい要件への対応が必要となる。

米国が問題にしたのは、中国製品だけではない。自国市場に入る電子機器を試験し、技術情報に接する重要な工程まで、中国に極端に依存していたことである。 82%という数字は、その構造的な危険を明らかにしたのである。

2️⃣中国製ルーターからバックドア――家庭の通信機器が攻撃の入口になる

中国への通信技術の依存がなぜ危険視されるのか。それを理解するうえで注目すべきなのが、2026年8月に明らかになった中国製ルーターの問題である。

8月5日、米国のセキュリティ企業VulnCheckは、中国のZbtlink製ルーター20機種のファームウェアに、危険な遠隔操作プログラムが組み込まれていたと公表した。VulnCheckの技術調査によれば、「ENDLESSDOORS」と名付けられたプログラムは、ルーターの起動時から動作し、外部のサーバーへ接続して命令を受け取る仕組みだった。

重大なのは、その通信に十分な認証の仕組みがなかったことである。外部の指令を受け取ると、ルーター内部で管理者権限による命令を実行できた。研究者は実際に遠隔操作が可能であることを実証している。攻撃者が後から侵入して設置したものではなく、調査対象の製品には出荷時のファームウェアから組み込まれていた。

製造元は顧客サポート用の機能だったと説明している。中国政府による情報窃取を目的として設置されたと立証されているわけではなく、実際の悪用被害も確認されていない。しかし、利用者の知らないところで外部から管理者権限を取得できる構造が存在したことは重大である。保守を目的とした機能であっても、第三者に悪用されれば危険なバックドアとなる。

この問題は、私たちの家庭にも直結する。現在のWi-Fiルーターには、パソコンやスマートフォンだけでなく、テレビ、防犯カメラ、家電製品なども接続されている。ルーターが乗っ取られれば、通信の接続先を不正に変更されたり、家庭内のほかの機器への攻撃に利用されたりするおそれがある。通信が暗号化されていれば内容を直ちに読み取れるわけではないが、それでも危険は小さくない。

家庭のWi-Fiルーターが侵害された場合に起こり得る危険。外部からの遠隔操作や通信先の改ざん、サイバー攻撃の中継拠点化を示した概念図。クリックすると拡大します。
さらに、乗っ取られたルーターは、他者への攻撃の中継拠点にもなり得る。情報処理推進機構(IPA)が2025年10月31日に公表した注意喚起は、家庭用ルーターなどが乗っ取られ、「ORB」と呼ばれる攻撃の中継拠点として悪用される危険を指摘している。攻撃者は一般家庭の回線を経由することで、本来の攻撃元を隠せる。利用者自身が被害を受けるだけでなく、知らないうちに別の組織への攻撃に利用される可能性があるのだ。

中国を背景とする攻撃集団がルーターを悪用した事例もある。2023年9月、警察庁と内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)、米国のNSA、FBI、CISAは、中国を背景とする攻撃集団「BlackTech」について共同で警告した。BlackTechはルーターのファームウェアを改変するなどして侵入経路を確保し、海外子会社のネットワークを足掛かりに、日本や米国の本社ネットワークを狙っていた。

BlackTechの事例は、攻撃者が機器を侵害してファームウェアを改変したものであり、Zbtlinkのように出荷時から遠隔操作機能が存在した事例とは異なる。また、中国の試験機関による報告書不正が、これらのバックドア問題を引き起こした証拠もない。しかし、製造時から危険な機能が存在する可能性と、使用開始後に外部から侵入される可能性の双方を考える必要がある。

ここで重要なのが、FCC認証や日本の技適マークの限界である。これらは主として電波の出力や周波数など、技術基準への適合を確認する制度であり、製品内部にバックドアが存在しないことまで保証するものではない。したがって、技適マークが付いているから安全だと考えるのは誤りである。通信機器の安全性を確保するには、ソフトウェアの検証と、販売後の継続的な更新も必要になる。

米国は既に、この問題に対して別の規制も進めている。2026年3月、ホワイトハウスが招集した省庁横断組織は、外国で製造された家庭用ルーターについて、安全保障上の重大な危険があると判断した。これを受け、FCCは3月23日、外国製家庭用ルーターを安全保障上の規制対象リストに追加した。一定の例外を除き、新しいモデルの認証を制限する措置であり、既に認証された製品の使用や販売を一律に禁止するものではない。

この措置と10月29日の試験機関規制は別の制度である。前者は製品と供給網の危険、後者は試験・認証体制の信頼性に着目している。米国は、製品そのものと、それを市場に送り出す仕組みの双方を見直しているのである。

危険の本質は、家庭や企業の通信の入口となる機器が、製造時からの問題や使用後の侵入によって外部から支配され、情報窃取やサイバー攻撃に利用され得ることにある。 中国を背景とする攻撃が現実に確認されている以上、我が国も通信機器の調達と安全性の検証を厳しく見直す必要がある。

3️⃣日本の技適は大丈夫なのか――家庭でできる6つの対策

米国が認証試験の中国依存を問題視した以上、我が国も自国の制度を確認しなければならない。

日本には、電波法に基づく技術基準適合証明や工事設計認証の制度がある。いわゆる「技適」であり、総務省が制度を所管し、登録証明機関などが技術基準への適合を確認する。電気通信事業法に基づく端末機器の認証制度もあり、それぞれ対象となる基準と手続きが定められている。

日本でも試験や認証は有料の専門サービスである。電気通信端末機器審査協会(JATE)の認証手続きを見ると、申請に際して機器の概要説明書、試験結果、外観図、接続系統図、ブロック図などが必要とされている。また、JATEの無線設備試験に関する案内からも、外部の試験施設を利用する場合があることが分かる。日本の認証制度でも、試験の実施場所と最終的な認証を行う機関は、必ずしも一致しない。

では、日本向け電子機器の何%が中国で試験されているのか。今回確認できた公開資料では、米国の82%と同じ基準で比較できる全国的な公的統計は見つからなかった。したがって、日本の中国依存が米国より高いとも低いとも断定できない。EUでもCEマーキングの制度があるが、欧州委員会の説明によれば、製品の適合性評価はメーカーが責任を負う仕組みであり、すべての製品についてEU域内の公的機関が直接試験するわけではない。EUについても、米国と直接比較できる中国への試験依存率は確認できなかった。

日本政府がまず行うべきなのは、重要な通信機器について、試験が実際にどの国で行われ、どのような技術情報が外部に渡っているのかを把握することである。特に電力、金融、医療、行政、防災などの重要な分野では、試験機関だけでなく、製造元、ファームウェアの開発元、販売後の更新体制まで確認する必要がある。

一方、私たち自身にもできることがある。家庭のルーターは、一度設定すると何年もそのまま使うことが多い。しかし、正常に通信できていることと、安全であることは別問題だ。次の6つは、一般の利用者も確認しておきたい対策である。

家庭のWi-Fiルーターを守る6つの確認事項。メーカー・型番、更新、パスワード、遠隔管理、不審な設定、サポート終了を点検しよう。クリックすれば拡大します
第1に、メーカー名と型番を確認する。 ルーター本体の底面や背面にあるラベル、説明書などで型番を調べ、メーカーの公式サイトでセキュリティー情報とサポート状況を確認する。Zbtlinkの事例では、別のブランド名で販売された製品にも同じ問題が存在した。ブランド名だけでなく、実際の型番を確認することが重要である。

第2に、ファームウェアを最新版に更新する。 ファームウェアはルーター内部で動く基本的なソフトウェアであり、脆弱性の修正にも更新が必要となる。管理画面で更新状況を確認し、自動更新機能があれば有効にする。更新ファイルはメーカーの公式サイトや正規の管理機能から入手し、出所不明のファイルは使用しない。

第3に、管理者パスワードとWi-Fiの接続パスワードを確認する。 管理者パスワードはルーターの設定を変更するためのもので、Wi-Fiの接続パスワードとは役割が異なる。機種共通の初期パスワードや推測しやすい文字列を使っている場合は変更する。無線通信の暗号化方式は、機器が対応していればWPA3、またはWPA2-AESを選ぶことが望ましい。

第4に、不要な遠隔操作機能を停止する。 管理画面から、インターネット側からの遠隔管理が有効になっていないか確認する。使っていないVPN、DDNS、ポート転送、UPnPなどの機能も見直したい。ただし、これらには正当な用途もあり、必要な機能まで無効にすると通信サービスに支障が出る場合がある。取扱説明書やメーカーの案内に従って判断することが重要だ。

第5に、見覚えのない設定変更がないか確認する。 警察庁が2023年3月28日に公表した注意喚起では、家庭用ルーターが外部から不正操作され、設定を変更されたため、従来の対策だけでは不正利用を解消できない事例が示されている。管理画面で、知らないVPNアカウントやDDNS設定、外部からの管理を許可する設定などがないか確認したい。不審な設定があれば、メーカーの案内に従って初期化や更新を行う必要がある。

第6に、サポートが終了したルーターの買い替えを検討する。 古い機器でも通信はできるが、メーカーのサポートが終了していれば、新たな脆弱性が発見されても修正されない可能性がある。IPAも、更新プログラムの適用とサポート終了製品の更新を勧めている。価格や通信速度だけでなく、メーカーが安全性の維持に責任を持ち続けているかを確認すべきである。

ただし、これらの対策だけですべての危険を防げるわけではない。Zbtlinkの事例のように、出荷時のファームウェア自体に危険な遠隔操作機能が組み込まれていた場合、パスワード変更や再起動、工場出荷状態への初期化では解決しない可能性がある。VulnCheckは調査時点で安全な修正版を確認できず、実際の通信に使用する対象機器について交換を推奨していた。

新しくルーターを購入する場合には、メーカーの更新実績やサポート期間も確認したい。我が国では、IoT製品のセキュリティー対策を評価する「JC-STAR」という制度も導入されている。IPAの公式説明によれば、★1と★2はメーカーなどの自己適合宣言、★3と★4は第三者評価機関による評価を基本とする。絶対的な安全を保証するものではないが、適合ラベル取得製品の一覧は購入時の判断材料となる。

そして、国家として取り組むべき課題もある。日本は米国と電気通信機器などの適合性評価に関する相互承認協定を結んでいる。米国国立標準技術研究所(NIST)の公式資料にも、その仕組みが明記されている。日本の適格な試験機関には、中国に集中していた米国向け試験需要の一部を引き受ける機会がある。

もっとも、仕事が自動的に日本へ移るわけではない。高度な試験設備、専門技術者、迅速な審査体制がなければ、需要を取り込むことはできない。政府と産業界は、この機会を国内の試験・認証能力の強化につなげるべきである。そうすれば技術情報の管理能力を高めるだけでなく、国内投資や専門人材の雇用を生み出し、我が国の産業基盤を厚くすることにもつながる。

国民は自分の通信機器を守り、企業は製品の設計から保守まで責任を持ち、政府は重要な技術と試験能力を守る。 この役割分担を確立することが、我が国の通信社会を強くするのである。

結語

米国向け電子機器の認証に関わる試験の約82%が中国で行われていたという事実は、製造だけでなく、製品の信頼性を確認する工程まで中国に大きく依存していたことを明らかにした。

しかも、中国を背景とするサイバー攻撃や技術情報の窃取は、既に各国の安全保障機関が具体的な事例を示して警告している。中国の試験機関による不正な報告書も発覚した。さらに、中国製ルーターから出荷時の危険な遠隔操作プログラムが発見された事例は、家庭や企業で使用する通信機器にも重大な危険が潜み得ることを示している。

これらを漠然とした不安として片付けてはならない。何が実際に起き、どこに危険が存在し、どのような制度で防ぐべきなのかを明確にする必要がある。中国に関する具体的な危険を認識しながら、経済的な効率だけを理由に重要な技術や試験業務を委ね続けることは、安全保障上の責任ある判断とは言えない。

米国は82%という依存構造を把握し、制度を改める決断をした。我が国はどうか。日本向け電子機器の試験がどこで行われ、重要な技術情報が誰の手に渡っているのか。その実態を明らかにすることが先決である。さらに、国内の試験・認証能力を強化し、技術者を育成することは、国民生活の安全と産業競争力の双方を高める。

もちろん、国家の制度だけですべてを守れるわけではない。私たちも家庭のルーターを確認し、更新を続け、不要な機能を停止し、サポートが終了した機器は買い替えを検討する必要がある。自宅の機器が乗っ取られれば、自分が被害者となるだけでなく、他者への攻撃に利用される可能性もある。通信機器の安全は、もはや専門家だけの問題ではない。

国家安全保障とは、国境や軍事施設を守ることだけではない。国民が毎日使う通信機器の信頼性を確保し、それを支える技術と産業を国内に維持することでもある。

米国が明らかにした82%という数字は、我が国への警告でもある。危険な依存を放置するのか。それとも実態を明らかにし、制度を改め、必要な技術と雇用を国内に築くのか。

我が国に求められるのは、危険を曖昧にすることではない。具体的な事実に基づいて判断し、必要な対策を実行する統治能力である。国民の暮らしを守り、国内の供給力を強化し、技術と人材を国家の資産として蓄積してこそ、我が国を強く豊かにすることができるのである。

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2026年10月24日土曜日

在留外国人428万人時代に、外国人受け入れを既定路線にするな——年末の政府人口総合戦略の行方


まとめ
  • 2070年に8700万人という将来推計は、年16万4000人の外国人の入国超過を前提に描かれた姿である。その前提を、受け入れ拡大の根拠に使ってよいのか。
  • 在留外国人は428万1026人に達した。原則が示されない間に、現実と育成就労制度だけが先に進んでいる。
  • 先に立てるべきは外国人ではなく、賃金と投資とAIによる我が国の供給力である。年末の人口総合戦略は、その順序を示せるか。
高市早苗首相は10月5日の所信表明演説で、人口減少を「静かに進む国難」と位置付け、年末をめどに人口総合戦略を策定し、外国人の受け入れに関する基本的な在り方についても検討を進める考えを示した。

ここで制度上の前提を確認する。人口総合戦略は政府の政策文書であり、それだけで在留資格は生まれない。在留資格の創設や改廃は、国会が入管法などを改正して行う。個別の在留許可は、法律に基づく法務大臣の権限に属し、実務を出入国在留管理庁と地方出入国在留管理局が担う。政府の基本方針や分野別運用方針は、法律の枠の中で受け入れ分野や見込数に影響するが、法律そのものではない。戦略の文言が重いのは、後の立法、予算編成、政省令や告示の改正を方向付けるからである。影響する過程と、直接決定する権限を混同してはならない。

1️⃣推計は前提であり、国民への約束ではない

国立社会保障・人口問題研究所の将来推計人口(令和5年推計)によれば、出生中位・死亡中位の推計で、総人口は2020年の1億2615万人から2070年には8700万人へ減り、2020年時点の69.0%となる。65歳以上人口の割合は28.6%から38.7%へ上がり、総人口が1億人を下回る時期は2056年と見込まれる。数字の厳しさは否定できない。

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ただし、研究所自身が明記している点を見落としてはならない。前回推計と比べた減少速度の緩和は、出生率の改善によるものではない。合計特殊出生率の長期的な投影水準は前回の1.44から1.36へ下がり、他方で外国人の入国超過数は、長期的な投影水準が年約6万9000人から年約16万4000人へ引き上げられた。研究所も、減少速度が緩んだ理由として国際人口移動の影響が大きいと説明している。

つまり、8700万人という将来像は、年16万人規模の外国人の入国超過を前提に描かれた姿である。前提に置かれた規模を、受け入れ拡大の結論の根拠に使うことはできない。推計は検証の対象であり、政治の決定を免除する命令ではない。人口総合戦略が果たすべき役割は、前提を追認することではなく、前提そのものを国民の前に示し、どこまで受け入れ、どこからは国内の立て直しで応えるのかを決めることである。

2️⃣原則が示されない間に、現実と制度は進んだ

現実は年末の戦略を待っていない。出入国在留管理庁の在留外国人統計によれば、在留外国人は2021年末に276万635人、2024年末に376万8977人、2025年末には412万5395人となった。さらに、出入国在留管理庁が10月16日に発表した2026年6月末の在留外国人数は428万1026人であり、2025年末から半年で15万5631人、率にして3.8%増え、過去最多を更新した。2021年末からの増加は152万391人に達する。

内訳も重要である。同じ発表によれば、在留資格別では永住者が96万1342人と最も多く、技術・人文知識・国際業務が51万6184人で、前年末から8.5%増えた。短期の労働力として来て帰るという姿だけではない。定住と長期滞在へつながる層が、着実に厚くなっている。

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他方で、厳格化が進む部分もある。不法残留者は2026年7月1日時点で6万5229人となり、半年で4.8%減った。不法滞在への対処と、合法的な受け入れの拡大は、別の動きとして分けて見る必要がある。不法への厳格さを示すことと、合法の規模に原則を示すことは、どちらも欠かせない。

働く外国人も拡大が続く。厚生労働省の労働経済分析によれば、外国人労働者数は2024年10月末時点で約230万人となり、届出が義務化されて以降12年連続で過去最多を更新し、2014年との比較では2.9倍となった。人手不足への対応が、すでに外国人労働力への依存を深める形で進んでいることは、統計の上で明らかである。

制度の転換も決まっている。育成就労制度は、有識者会議や産業界の要望が直接つくる制度ではない。国会で成立した2024年の改正法に基づく制度であり、出入国在留管理庁の育成就労制度の概要が示すとおり、施行日は2027年4月1日である。技能実習の在留資格は廃止され、就労を通じた人材育成と人材確保を目的とする育成就労が創設される。育成就労計画の認定は外国人育成就労機構が行い、監理支援機関は主務省庁の許可を受ける。分野の設定や運用方針は、法律の枠の中で政府が定める。

制度が法律に基づいて前に進む以上、問いは「拡大するか否か」という抽象論では済まない。すでに進む拡大に対して、総量の考え方、分野ごとの必要性、自治体や国民生活への負担、検証と見直しの方法を、戦略がどこまで具体的に示せるかである。原則なき拡大を、後から言葉で整えるだけでは足りない。

3️⃣先に立てるべきは、外国人ではなく、我が国の供給力である

昨日当ブログに掲載した、ポーランドの教訓は短く言える。学ぶべきは壁の形ではなく、国境と受け入れの主導権を国家が握る姿勢である。ポーランド政府が公表したベラルーシ国境の障壁計画は、高さ5.5m、180kmを超える障壁と、電子的な国境管理を組み合わせる方針を示した。同国は不法越境を許さない姿勢を実力で示す他方、ウクライナ避難民には資格と期限を定めた一時保護で対応し、国境管理と人道保護を区別してきた。この区別の詳細は、前回のポーランド論考で述べたとおりである。

我が国は島国であり、陸続きの国境をそのまま模倣する必要はない。管理の中心は、空港と港湾における入国審査、在留管理、警察と自治体の連携に置かれる。地理の違いは、管理を緩めてよい理由にはならない。制度が曖昧で、資格外活動や不法残留への対処が遅れれば、島国であっても秩序は崩れる。

自動運転農機が働く北海道の農地 AI生成画像
国内で先に立てるべき柱は、賃金、技能訓練、設備投資、AIとロボットによる省力化である。これは労働者を機械に置き換える話ではない。担い手が減る中で、医療、介護、物流、建設、農業、地方交通を維持するための供給力再建であり、国民生活を支える国家資産形成である。賃金を上げ、働く人の技能を高め、必要な人数そのものを技術で減らす。その努力を分野ごとに数字で示し、それでも不足する部分がどこかを立証してからでなければ、受け入れの必要性は説明されたことにならない。「人手不足」という言葉で、介護も製造業も農業もまとめて扱う議論は粗すぎる。

その上で、戦略には少なくとも3点を書き込むべきである。1点目は、受け入れ分野ごとに必要性を立証する手続である。2点目は、住宅、教育、医療、言語支援、治安に関わる自治体負担の明示と、その財政措置である。財政措置は政府が予算案に計上し、国会の議決を経て初めて執行できるものであり、戦略の一文だけで負担が消えるわけではない。3点目は、効果と負担を定期的に検証し、想定を超えた場合に見直す仕組みである。広げる仕組みだけを持ち、戻す仕組みを持たない制度は、国家の統治とは言えない。

結論

人口総合戦略に最初に書くべきは、受け入れ人数ではない。我が国は誰を守るのか。人口減少に何で応えるのか。受け入れが必要だというなら、その必要性を誰が立証し、負担を誰が負い、結果に誰が責任を持つのかである。

年末の戦略がこの問いに、法律、予算、運用方針のどこで何を決めるのかまで含めて答えるなら、それは人口対策を超えて、国家の統治能力を示す文書になる。逆に、推計と人手不足を理由に拡大を追認するだけなら、賃金の低迷、投資不足、地域の負担は温存され、国民生活への影響だけが積み重なる。

必要のない移民受け入れを既定路線にしてはならない。国内の賃金、投資、教育、技術を立て直し、少子高齢化の下でも供給力を維持できる国をつくる。その順序を守ることが、国益を守ることであり、真に保護すべき人への支援を持続させる道でもある。

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欧州の移民政策が揺らぐ今、我が国はポーランドの自国第一主義から何を学ぶか 2026年10月23日
本稿の出発点となった論考である。国境管理と人道保護を区別し、受け入れの主導権を国家が握るポーランドの姿勢から、我が国が学ぶべきものを論じた。

パリとミラノで暴動——欧州の移民政策から日本は何を学ぶべきか 2026年10月20日
欧州の騒乱と社会統合の困難を検証し、移民を受け入れる前に、受け入れそのものの必要性を問うべきだと論じた。供給力再建を先に置く順序は、本稿にも通じる。

高市首相の十勝AI農業特区――北海道を強く豊かにし、何を未来へ残すのか 2026年10月11日
AIとロボットで生産性を高め、人口が減っても産業と暮らしを維持する道を示した記事である。人手不足への答えは、外国人を増やすことだけではない。

AIが現場に出る時代――日本を守るのは「安さ」ではなく責任と常若だ 2026年7月17日
AIが工場、農業、介護の現場へ出る時代に、安さではなく責任と技術で国を守る道を論じた。省力化による供給力再建の考え方の土台になる一篇である。

外国人412万人時代――日本は「移民国家ではない」という嘘をいつまで続けるのか 2026年4月25日
「移民政策は取っていない」と言いながら進んだ受け入れ拡大を、総量と入口管理の観点から問うた論考である。本稿は、その数字が428万人へ更新された現在地から書かれている。

2026年10月23日金曜日

欧州の移民政策が揺らぐ今、我が国はポーランドの自国第一主義から何を学ぶか

 

まとめ

  • ポーランドの公式人口は2025年末で約3733万人である。約110万6000人の外国人就労者と約93万9000人のウクライナ避難民の一時的保護は、同国にとって決して小さな規模ではない。
  • 新規の経済移住・長期在留の拡大は原則ではない。国益と社会の持続性に照らし、必要性を立証できる場合だけ例外的に認めるべきである。
  • 我が国は、安価な外国人労働力への依存を先行させず、賃金、技能、AI・ロボット、地域産業への投資で供給力を再建すべきである。

欧州の移民政策は、いま大きく揺れている。問われているのは、外国人を受け入れるか否かという感情論ではない。誰を、どの条件で、どの規模まで受け入れ、その結果として国民生活、治安、社会的信頼、国家の供給力を守れるのかという、国家運営の問題である。

この問いに、ポーランドは早くから独自の答えを示してきた。国境を守り、不法越境は許さず、受け入れの条件と規模は国家が決める。ただしポーランドを「外国人を一律に拒む国」と見るのも誤りである。必要な保護と不法越境への対処を、別の問題として扱っているからだ。

我が国が学ぶべきなのは、ポーランドの制度をそのまま輸入することではない。国境、在留制度、労働市場、住宅、教育、治安を、自国の責任で設計するという国家の姿勢である。

1️⃣壁は排外の象徴ではない――歴史がつくったポーランドの国境観

ポーランドを理解するには、歴史を避けて通れない。18世紀末には周辺列強による分割で国家そのものを失い、20世紀にはナチス・ドイツとソ連による侵攻、占領、支配を経験した。

ドイツ占領下では、単に領土が奪われただけではない。ポーランドの指導層、聖職者、教師、知識人が殺害・投獄され、住民は強制労働へ送られ、民族と文化の基盤そのものを壊す政策が進められた。米国ホロコースト記念博物館は、ドイツの占領政策がポーランド国家と文化の破壊を目指したことを記録している。ワルシャワ蜂起の鎮圧後、都市中心部が破壊された経験も、国家の存続を当然視しない国民意識につながっている。

戦禍からの復興と国家の記憶を表した、ポーランドの歴史的市街のAI生成イメージ
この歴史を知れば、ポーランドが国境を単なる通関地点とは見ない理由が分かる。国境は、国家の連続性、共同体の安全、次世代の生活を守る最後の線なのである。

その姿勢が最も明確に現れたのが、ベラルーシ国境である。ポーランド政府は、同国境の越境圧力を単なる移民問題ではなく、国家が関与した「移民の道具化」を含む安全保障問題と位置付けた。2022年に完成した物理的障壁は約186km、高さ5.5mであり、電子監視は206kmをカバーする。ポーランド内務行政省によれば、物理的障壁と監視システムは一体で運用されている。

2026年1月から5月に記録された不法越境の試みは215件で、前年同期の1万600件超から大幅に減ったと政府は公表している。同省発表は、壁、監視、緩衝地帯、警備態勢を組み合わせた効果を強調する。ここで重要なのは、壁そのものを万能視することではない。国家が「不法越境を既成事実にしない」という意志を示し、制度と実力を結び付けたことである。

2️⃣人口約3,735万人の中堅国が築いた国力――産業、教育、防衛

ポーランドは人口大国ではない。外務省の基礎データによれば、人口は約3,735万人である。外務省によれば、2025年11月時点でも人口減少と高齢化の圧力を受けている。少子高齢化は、ポーランドだけの問題ではない。

ポーランドの製造業、理工教育、防衛力を概念化したAI生成インフォグラフィック クリックすると拡大します

にもかかわらず、ポーランド経済は欧州で存在感を増してきた。欧州委員会は2025年の実質GDP成長率を3.6%と整理し、2026年も3.5%の成長を見込んでいる。欧州委員会の経済見通しである。成長の原因を移民の少なさだけに求めるのは乱暴だ。EU加盟後の投資、製造業の集積、インフラ整備、近隣市場との結び付き、教育水準の改善が重なった結果である。

製造業の雇用比率は2022~24年平均で19.1%と、EU平均の15.6%を上回る。欧州委員会の国別イノベーション指標は、ポーランド経済に産業的な厚みが残っていることを示す。加えて、25~34歳のうち修士相当以上の学位を持つ人の比率は31%で、OECD平均の16%を大きく上回る。OECDの数字である。

防衛も同じである。NATOの2025年推計では、ポーランドの防衛支出はGDP比4.48%であり、同盟国の中でも突出する水準にある。NATOが示すこの数字は、ポーランドが安全保障を抽象論ではなく、予算、装備、訓練、産業基盤の問題として扱っていることを物語る。

ここで見落としてはならない事実がある。ポーランドは「外国人を受け入れない国」ではない。2026年5月末、ウクライナから逃れた人々のうち、ポーランドで一時保護を受けていた人は約96万8,000人であった。Eurostatによれば、人口1000人当たりでは26.5人に達する。

つまりポーランドは、不法越境を許容しない一方、戦争から逃れる隣国民には、時限的な保護制度で対応してきた。これは矛盾ではない。国境管理と人道保護を、無制限の定住受け入れへ短絡させないということである。受け入れは国家の制度に基づくものであり、目的、期間、資格、負担の所在を明確にする必要がある。

我が国とポーランドの関係も深まっている。2026年には両国関係が包括的・戦略的パートナーシップへ格上げされ、経済安全保障、技術、欧州とインド太平洋の安全保障をめぐる連携が確認された。日・ポーランド首脳会談は、ポーランドを遠い欧州の一国として眺めるだけでは不十分であることを示している。

3️⃣ 我が国の選択――不必要な移民を既定路線にせず、供給力を再建する

我が国はポーランドとは異なる。ポーランドは陸続きの国境を持ち、侵略、占領、避難民、人口移動に何度も直面してきた。大規模な移住への対処が、良くも悪くも歴史の中で形成されてきた。

我が国は島国である。海と空港を通じた入国管理が中心であり、陸上国境の壁をそのまま模倣する必要はない。むしろ港湾、空港、在留管理、警察、自治体、教育、社会保障を連動させ、入国から在留、更新、退去までを一貫して管理する仕組みを磨くべきである。

海の国境管理を象徴する巡視船のAI生成イメージ
島国であることへの過信は禁物である。海があるから自動的に国境が守られるわけではない。制度が曖昧で、違法滞在や資格外活動を放置し、受け入れの規模を産業界の短期的要請だけで決めれば、島国であっても秩序は崩れる。

出発点は明確である。不必要な移民を、少子高齢化への安易な処方箋として受け入れないことだ。人手不足があれば、まず賃金、技能訓練、労働環境、設備投資、地方交通、住宅、子育て支援を見直すべきである。人が足りないから外国人を増やすという発想は、企業の投資不足と低賃金構造を温存しかねない。

AIとロボット化の役割も大きい。ただし、AIやロボットは少子高齢化そのものを消す魔法ではない。必要なのは、高齢化の下でも生産性と供給力を落とさない経済への転換である。工場、物流、農業、建設、医療事務、介護補助、行政手続に技術を実装し、人間は判断、責任、対人ケア、技能継承に集中する。これは人間を機械に置き換える政策ではない。国民生活を支える仕事を、少ない担い手でも維持できるようにする国家資産形成である。

在留資格についても、曖昧な「永住の既得権」意識を改める必要がある。在留は、受け入れ国の法令と国益判断に基づく地位であり、虚偽申請、重大な法令違反、許可条件の不履行には取消しや退去強制の制度が必要である。我が国の入管制度にも在留資格取消しの仕組みがあり、近年は永住者についても一定の義務違反や故意の公租公課不払いを取消事由に加える改正が行われた。出入国在留管理庁は、個別事情を踏まえて判断する方針を示している。

ただし、法治国家は、許可期間の途中で国家が恣意的に「今日から違法」と遡及指定することまで許すものではない。予見可能な条件を法律で示し、違反があれば手続を経て取消す。この厳格さこそが、国家の裁量を持続可能にする。難民条約のノン・ルフールマン原則も、迫害などの危険がある場所への送還を禁じている。UNHCRの原則を守りながら、入国・在留の条件を厳格に運用することは両立する。

EUの制度についても、事実を取り違えてはならない。2015年の再配置制度を決めたのは「欧州評議会」ではなく、EUの閣僚で構成される「欧州連合理事会」である。欧州評議会はEUの機関ではない。EU理事会の説明が明確に区別している。また、この再配置制度はスロバキアとハンガリーが争ったが、EU司法裁判所は2017年に取消訴訟を退けた。EU司法裁判所によれば、これを「国際法違反」と断定するのは正確ではない。

だからこそ批判の焦点も明確にすべきである。問題は、受け入れ数をめぐる政治判断、治安・統合・財政への影響、地方共同体の負担、そして国民の同意をどのように扱ったかである。制度の決定主体と責任の所在を曖昧にしたまま、「国際協調」の名で国民国家の統治能力を弱めてはならない。

結語

ポーランドの教訓は、壁を造れば全て解決するという話ではない。国家は誰を守るのか、国境を誰が管理するのか、人口減少を何で補うのかを、自国の歴史、地理、産業、国民生活に即して決めなければならない、という教訓である。

我が国は、必要のない移民受け入れを既定路線にしてはならない。国境と在留制度を厳格に管理し、真に保護すべき人には期間と条件を明確にした制度で対応する。その上で、賃金、投資、教育、AI、ロボット、エネルギー、地方交通を立て直し、少子高齢化の下でも供給力を維持できる国をつくる。

国境を守ることと、国際社会で責任を果たすことは対立しない。自国の秩序と国民生活を守る力を持つ国家だけが、必要な時に、必要な相手へ、持続可能な支援を行えるのである。

主要出典

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治安、信頼、制度、文化という我が国の「文明ストック」を、目先の労働力不足を理由に損なってはならないという視点を示す。

ドイツ、移民政策厳格化の決議案可決 最大野党の方針転換が物議―〖私の論評〗2025年ドイツ政治の激変:AfD台頭と欧州保守主義の新潮流 2025年1月31日

ドイツ政治で移民政策の厳格化が主要争点となった背景を追い、欧州で進む保守政治の再編を読む。

2026年10月20日火曜日

パリとミラノで暴動——欧州の移民政策から日本は何を学ぶべきか


 まとめ
  • パリとミラノの暴動が浮き彫りにした、欧州の移民政策の課題。 外国籍の若者や移民第二・第三世代の関与を検証すると、受け入れ後も世代を超えて続く社会統合の難しさが見えてくる。
  • ドラッカーの「改革の原理としての保守主義」が問い直す、移民ありきの発想。 国家がまず守るべきものは何か。移民を受け入れる前に、自国の社会を安定させ、必要な改革を進めるという視点が重要である。
  • 欧州の問題を知りながら、日本はなぜ同じ道を進もうとするのか。 人手不足には国内人材の育成、設備投資、AIによる省力化という選択肢もある。移民受け入れを当然視する前に、我が国の国益と供給力再建を考えるべきではないか。

2026年10月17日、フランス各地で大規模な抗議行動が行われ、パリなどで警察との衝突、店舗の略奪、建物への放火が相次いだ。AP通信の10月19日の報道によれば、週末の騒乱では約2400人が逮捕され、商業施設や公共施設に広範な被害が生じた。同じ週末、イタリアのミラノでも若者らによる騒乱が発生した。ANSA通信が10月19日に報じた警察当局の集計によると、18日には271人が警察署へ連行され、32人が逮捕された。連行者のうち220人は未成年者だった。

抗議行動の背景には、生活費、教育、公共サービスへの不満がある。しかし、平和的な抗議と暴力行為は区別しなければならない。いかなる政治的要求も、他人の財産を奪い、公共施設を破壊する理由にはならない。同時に、欧州で長年進められてきた移民政策と社会統合の問題を、検証の対象から外すべきでもない。ミラノでは外国籍の逮捕者が相当数に上り、フランスでは過去の都市暴動に関する政府調査に、移民第二・第三世代の関与について重要な記録が残されている。ただし、今回の暴動が移民政策によって引き起こされたという因果関係まで立証されたわけではない。個々の事件の原因と、移民政策が長期的に社会へ及ぼす影響は分けて考える必要がある。

ここで、本稿が問うべき問題は明確である。そもそも、我が国はなぜ新たな経済移民を受け入れる必要があるのか。 移民を受け入れた後の社会統合を論じる前に、受け入れそのものの必要性を検証すべきではないか。この問いを、ピーター・ドラッカーの「改革の原理としての保守主義」を手掛かりに考えたい。

1️⃣パリとミラノの騒乱は何を示したのか

ミラノの騒乱では、警察当局が国籍別の数字を公表している。10月18日に連行された271人のうち外国籍は60人、逮捕者32人のうち13人、書類送検者28人のうち15人だった。外国籍の割合は、それぞれ22.1%、40.6%、53.6%である。この数字を曖昧にする必要はない。ただし、連行者には予防的な拘束を受けた人も含まれ、逮捕者の構成をそのまま外国籍住民全体の犯罪傾向とみなすこともできない。対象となった人々の年齢、居住地、容疑、司法手続き上の違いを考慮しなければ、数字の意味を正確に判断することはできないのである。

さらに、ANSA通信の続報では、捜査対象となった若者の一部に、外国にルーツを持つ移民第二世代が含まれていたと報じられている。国籍を取得した後も、教育、就労、地域社会への参加という課題が残り得ることを考える材料である。では、パリはどうか。ル・パリジャン紙の10月19日の分析は、治安情報の専門家による分析として、過激左派の集団と、政治的な組織に属さない大衆地区の若者が合流した可能性を指摘した。ただし、今回の暴動に参加した人々の移民背景別の割合は、現時点で確認できていない。

しかし、過去の暴動に関する政府の一次資料には、見逃せない記述がある。フランス内務省・司法省の合同調査報告書(2023年)によると、2023年の都市暴動で検挙された人々の79%はフランス国籍、75%はフランス生まれだった。一方、同報告書の23ページには、パリ警視庁が、その管轄地域で拘束された暴動参加者の大多数はフランス国籍を持つ移民第二・第三世代の若者だったとの見解を示したことが記録されている。主な出自として挙げられたのは、北アフリカのマグレブ諸国とサハラ以南のアフリカである。この記述は、外国籍人口だけでは移民政策の長期的な影響を把握できないことを示唆している。ただし、これは2023年のパリ警視庁管轄地域についての評価であり、2026年の暴動やフランス全国の参加者構成を示すものではない。

パリ郊外の街並み。移民第二・第三世代の社会統合を考える。AI生成画像。

社会統合の問題は、移民を受け入れた時点で終わらない。次の世代、さらにその次の世代にまで及ぶ可能性がある。だからこそ、移民政策は目先の労働力確保だけで判断できない。その難しさを示すのがスウェーデンの事例である。スウェーデン政府が2026年9月に公表した調査結果は、「並行社会」と呼ばれる非公式な権力関係や集団内部の規範が、個人の自由や社会統合を妨げる問題を指摘した。政府は、その背景として居住分離、社会的排除、差別なども挙げている。ここで問われているのは、文化の違いそのものではない。国家の法秩序と個人の権利が、社会の隅々まで保障されているかという問題である。

私は以前、「西欧の移民政策はすべて失敗した──日本が今すぐ学ぶべき“移民5%と10%の壁”」で、受け入れ人数と社会統合の関係を論じた。もっとも、5%や10%という人口比率は、暴動が必ず起こる科学的な臨界点として確認されたものではない。移民、外国籍住民、外国生まれ人口では統計上の定義も異なる。それでも、受け入れの規模や速度、特定地域への集中、教育や住宅などの供給力を検証する必要性は変わらない。欧州から学ぶべきなのは、社会統合に問題が生じた後の対策だけではない。そうした長期的な責任を負う必要性を、受け入れる前に検証することである。

2️⃣ドラッカーの「改革の原理としての保守主義」で考える

ピーター・ドラッカーは1942年の著書『産業人の未来』で、自由で機能する社会を維持するための原理として保守主義を論じた。訳者の上田惇生氏による解説でも明らかなように、ドラッカーの保守主義は、昔に戻ることでも、変化を拒むことでもない。すでに存在する制度や経験を基盤として、将来のために具体的な問題を解決する。その目的は、自由で機能する社会を維持することにある。この考え方を移民政策に当てはめると、議論の順序が変わる。人口が減少するから移民を受け入れる。人手不足だから外国人労働者を増やす。しかし、人口減少や人手不足が存在することと、移民受け入れが必要であることは同義ではない。

ドラッカーの「改革の原理としての保守主義」。守るために改革する。AI生成画像。クリックすれば拡大します。

問うべきなのは、我が国の産業と国民生活を将来へ残すために、何を改革しなければならないかということである。国内人材の育成、賃金や労働条件の改善、設備投資、AIやロボットによる省力化など、まず検証すべき選択肢がある。ドラッカーは、機能する社会における人々の位置と役割、権力の正統性も重視した。移民政策についても、政府が何を目的として決定し、その政策が国民生活にどのような影響を及ぼすのかを問わなければならない。守るべき社会があるから改革するのであり、改革すること自体が目的なのではない。

ここで国際法上の原則も重要となる。先進国だからという理由で、経済移民を一定人数受け入れなければならないという一般的な国際法上の義務は存在しない。国連の「安全で秩序ある正規移住のためのグローバル・コンパクト」は、法的拘束力を持たない協力枠組みであり、国家主権を確認している。さらに、EU機能条約第79条第5項は、加盟国が第三国から就労目的で入国する人々の受け入れ人数を決定する権利を保持すると定めている。ただし、難民保護、EU域内の自由移動、国際人権法、家族生活の保護などによる義務は別である。これらを、新たな経済移民の受け入れ人数を決める権限と混同してはならない。

つまり、法的義務を守る範囲で、経済移民の受け入れ規模は国家が政策として判断できるのである。ならば、移民を受け入れることを当然の前提としてはならない。まず自国の雇用、教育、住宅、医療、治安などの基本的な制度が安定しているかを確認し、深刻な問題が残るなら、その改善を優先するという政策原則が考えられる。私は、この厳格な事前条件を重視する。社会問題を完全になくすことはできないが、少なくとも公共サービスの深刻な不足や制度的な機能不全が常態化している段階で、新たな受け入れを拡大する必要性は慎重に検証すべきである。

もちろん、外国人材が既存の人手不足を緩和する場合もある。したがって、受け入れない場合の経済的影響も調べなければならない。しかし、それは受け入れ拡大を最初から決定する理由にはならない。なお、ドラッカー自身が経済移民の受け入れを一律に否定したわけではない。ここで示した厳格な受け入れ条件は、彼の保守主義を現代日本の政策に応用した本稿の立場である。

移民を受け入れることが改革なのではない。守るべき社会を明確にし、その社会を維持するために必要な制度を改革することが重要なのである。

3️⃣日本は欧州を後追いする前に、何を改革すべきか

我が国でも外国人住民は増加している。しかし、その事実から直ちに経済移民の受け入れをさらに拡大すべきだという結論は導かれない。まず、日本経済の現状を正確に確認する必要がある。総務省統計局の2026年8月の消費者物価指数によると、前年同月比は総合1.9%、生鮮食品を除く総合1.7%、生鮮食品とエネルギーを除く総合1.9%だった。日本で一般にコア、コアコアと呼ばれる指数は、欧州の基調的な物価指標と定義が異なる。日本の生鮮食品・エネルギー除外指数には加工食品が含まれる一方、欧州で用いられる食料・エネルギー等を除く指数では除外される。比較には、対象品目、ウエイト、住宅費の扱いなどにも注意が必要である。

したがって、欧州の物価問題をそのまま日本に当てはめるのは適切ではない。物価上昇率の鈍化は価格水準の下落を意味しないものの、現在の日本を深刻な物価高騰の国として描くことも正確ではない。雇用についても、総務省の2026年8月の労働力調査では完全失業率が2.5%、就業者数は前年同月比14万人増だった。全国的な大量失業よりも、産業や地域によって生じる人手不足への対応が重要な課題となっている。では、その人手不足を移民で補うことが、我が国の経済政策として必要なのだろうか。

移民受け入れの前に、日本の人材育成と供給力強化を。AI生成画像。クリックすれば拡大します。
人手不足は、賃金、設備投資、生産性を見直す契機にもなる。省力化技術への投資を進め、労働者1人当たりの付加価値を高め、その成果を賃金上昇へと結び付ける。そうした改革は、人口減少が進む日本の供給力を維持・強化し、設備や技術という国家資産を形成することにもつながる。北海道の農業におけるAIや自動化技術の活用は、その可能性を考える具体例となる。私は以前、「高市首相の十勝AI農業特区——北海道を強く豊かにし、何を未来へ残すのか」で、技術革新を通じて地域産業と暮らしを将来へ引き継ぐ意義を論じた。

もちろん、設備投資だけでは短期間に補えない技能や人員もある。しかし、その不足をどう補うかは、分野ごとの判断である。人手不足という言葉だけで、恒常的な受け入れ拡大まで正当化することはできない。ここで、国と地方自治体の権限関係も確認しておきたい。外国人の入国・在留に関する基本制度は国が定め、個別の許可や審査は法令に基づいて国の行政機関が行う。国会は法律と予算の審議を通じ、政府の政策を統制する。一方、学校、福祉、防災、生活相談などでは地方自治体が重要な役割を担う。

札幌市の「誰もがつながり合う共生のまちづくり条例」は、外国人の受け入れ人数を決める制度ではない。年齢や障害の有無なども含め、幅広い住民を対象とした条例である。したがって、国の受け入れ制度と自治体の共生施策を混同してはならない。国が受け入れに関する基本制度を決め、その結果として自治体の行政需要が変化するのであれば、国は政策の必要性と地方への影響を説明すべきである。自治体も、実際の行政需要、費用、施策の成果を住民が検証できるようにしなければならない。

ここで最も重要なのは、国民生活と国益という判断基準である。新たな経済移民の受け入れによって、国内の賃金、雇用、供給力、財政、公共サービスはどう変わるのか。国内人材の活用や設備投資では対応できないのか。受け入れない場合には、どのような影響が生じるのか。

政策を決める前に、これらを検証することが必要である。 

我が国の将来を決めるのは、欧州の政策をどこまで模倣するかではない。日本社会を維持し、発展させるために何が必要なのかという、我が国自身の判断である。

結論 守るべきものを明確にしてこそ、改革は始まる

パリとミラノの暴動は、欧州の治安と社会統合をめぐる問題を改めて浮き彫りにした。ミラノでは外国籍の逮捕者や移民第二世代の関与が報じられた。パリでも今回の騒乱への郊外地区の若者の参加が報じられ、2023年の政府調査には、移民第二・第三世代の関与について警察当局の重要な見解が残されている。ただし、こうした事実だけで今回の暴動を移民政策の直接的な結果と断定することはできない。検証すべきなのは、暴動参加者の実態と、その背景にある長期的な制度の問題である。

スウェーデン政府が認める並行社会の問題も、社会統合が理念だけでは実現しないことを示している。欧州には移民受け入れによる経済的な成果もあるが、制度的な問題が存在することも否定できない。ここでドラッカーの「改革の原理としての保守主義」を思い起こしたい。社会を守るとは、変化を拒むことではない。守るべき社会を明確にし、その社会を維持するために必要な改革を進めることである。

我が国が優先すべきなのは、移民受け入れそのものではない。国民が働き、所得を得て、安全に暮らせる社会を維持し、生産性の向上によって国家の供給力を強化することである。そのために国内人材を育成し、設備投資を進め、技術と産業の基盤を強くする。こうした改革の可能性を十分に検討したうえで、なお新たな経済移民を受け入れる必要があるのかを判断すべきである。

先進国に経済移民を一定人数受け入れる一般的な国際法上の義務はない。難民保護などの法的義務を守りながら、受け入れないという選択肢も含めて政策を検討できる。

移民政策の出発点は、何人受け入れられるかではない。なぜ受け入れる必要があるのかという問いである。 欧州の経験を踏まえるなら、この問いを避けてはならない。

そして、国家の責任とは、受け入れた後に生じる問題へ対応することだけではない。国民生活、国家の供給力、地域社会への影響を事前に検証し、その政策が本当に必要なのかを判断することである。

移民を受け入れること自体が改革なのではない。新たな試みをすることや、美しい理念を啓蒙すること自体が真の改革というわけではない。我が国の社会を将来へ引き継ぐために、何を守り、何を変えるべきかを決めて実行すること、制度・法律・手順を社会に実装することこそ、真の改革なのである。

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2026年10月16日金曜日

簗農水相辞任で終わりか――食料安全保障を掲げながら農業の生産基盤は守られているのか

まとめ

  • 農水相の辞任で、日本農業の危機まで終わったわけではない。 農業経営体は5年間で22.3%減少。食料安全保障を掲げる政府は、国内の生産基盤を本当に守れているのか。
  • ②コメと酪農を苦しめる農政の矛盾は、解消されるのか。 生産費の上昇、需給調整、輸入依存。新たな法律や制度改革は、農家の経営と将来の食料供給力を守れるのか。
  • 武部新農水相は、日本農業の立て直しに踏み込めるか。 フードテックへの投資と既存農業の維持を両立させ、制度や予算の成果を問い直す。国益に直結する農政改革の課題を探る。
簗和生農林水産相が2026年10月14日に辞任し、翌15日、後任に武部新氏が就任した。簗氏は栃木3区の道路予算をめぐる発言や、選挙集会への無料シャトルバス送迎問題などで国会の追及を受けていた。高市早苗首相は14日の会見で、簗氏から、国会審議にこれ以上迷惑をかけられず、農林水産行政に集中できない状況を避けたいとして辞任の申し出があったことを明らかにした。翌15日には武部氏を後任に起用し、食料安全保障の強化と、新技術を活用した農林水産業の振興を指示した。(首相官邸・10月14日会見、10月15日会見)。Prime Minister of Japan

道路予算問題では、簗氏が自ら予算を削減した趣旨の発言をした一方、国土交通省は実際の予算配分への働きかけや圧力を確認していない。簗氏が自らの政治的影響力を誇張した可能性はあるが、発言の不適切さや無料送迎の適法性は、別途検証されるべき問題である。しかし、ここで問いたいのは簗氏個人の言動ではない。農水相の辞任ばかりが注目され、日本の農政が抱える構造的な問題が十分に議論されないままでよいのかということである。(国交省・道路予算に係る精査結果)

我が国の農業は、担い手の減少、コメの需給不安定、酪農経営の厳しさ、肥料や飼料の輸入依存など、多くの課題を抱えている。政府は食料安全保障の強化を掲げ、関連法の整備や政策の見直しを進めてきた。しかし、制度を整えることと、国内の食料供給能力を実際に強化することは同じではない。

本ブログでは、2025年5月21日の江藤農水相辞任をめぐる論考でも、政治家の失言だけを追及すれば、辞任によって問題が終わり、政策そのものの検証が置き去りになりかねないと指摘した。今回も同様である。農水相が交代しても、農政が抱えてきた問題は残る。

本当に問われるべきなのは、誰が農水相を辞任したかではなく、我が国が将来にわたって国民に必要な食料を生産・供給できる体制を維持しているのかということである。

1️⃣農業経営体22.3%減――食料安全保障の土台は守られているのか

農林水産省が2026年3月31日に公表した2025年農林業センサスの確定値によれば、全国の農業経営体は83万6,000経営体となり、5年前より22.3%減少した。一方、法人経営体は10.1%増加し、経営の大規模化も進んでいる。したがって、経営体数の減少がそのまま農業生産量の減少を意味するわけではない。しかし、離農者の農地を他の経営体が引き受けられない地域では、農地や用水路の維持が難しくなり、生産基盤そのものが失われるおそれがある。Ministry of Agriculture

農業経営体の減少と食料・飼料の輸入依存。日本の食料供給力の現状を示す。(AI生成画像/クリックすると拡大します)
食料自給率も低い水準にとどまっている。農水省が2026年8月に公表した2025年度の概算値は、カロリーベースで37%、生産額ベースで66%、摂取熱量ベースで45%だった。カロリーベースの37%は、国内で供給される食料の総熱量に占める国産の割合であり、我が国が必要な食料の37%しか生産できないという意味ではない。摂取熱量ベースは、国民の日常生活に必要とされる熱量のうち、国産の供給熱量で賄える割合を示す。指標によって意味は異なるが、我が国の食料供給が海外に大きく依存していることは確かである。maff.go.jp

さらに見逃せないのが、生産資材の輸入依存である。農水省の食料自給率関連資料によれば、2025年度の飼料自給率は24%にとどまる。これは飼料の供給量を栄養価に換算して算出した数字である。国内で牛乳や肉を生産していても、その生産を支える飼料の多くを海外に依存しているのである。肥料原料についても輸入依存度が高く、国際情勢や価格変動の影響を受けやすい。Ministry of Agriculture

問題は、海外から食料や生産資材を輸入すること自体ではない。輸入先の分散や備蓄も、食料安全保障には欠かせない。しかし、海外からの供給が途絶えた場合、国内でどれだけ生産を維持できるのかという視点を失ってはならない。

政府は2025年4月、「食料供給困難事態対策法」を施行した。食料供給が大幅に減少するおそれがある場合、政府が早期に対応し、関係事業者に供給確保を要請するなどの仕組みを設けた法律である。深刻な事態では、生産などに関する計画の作成・届出を求める制度もあるが、農家に増産を強制する仕組みではない。(農水省「不測時における食料供給の確保」)。Ministry of Agriculture

法律の整備には意義がある。しかし、農地が失われ、農業者が離農し、家畜が減少していれば、危機が発生してから増産を求めても直ちには対応できない。コメの増産には作付けの準備が必要であり、乳牛を増やすには長い時間がかかる。農業の生産能力は、工場の稼働率を上げるように短期間で回復できるものではない。

食料安全保障に必要なのは、危機への対応手順だけではない。危機が起きたときにも生産できる農地、人材、家畜、生産資材を平時から維持することである。

食料安全保障の強化を掲げる以上、政府には、法律の施行だけでなく、国内の生産基盤がどれだけ維持されているかを具体的な数字で示す責任がある。農地や農業技術は、長年の投資によって形成された国家的な生産資産である。これを失わず、次の世代に引き継ぐことが、我が国の供給力を守る出発点となる。

2️⃣コメと酪農の矛盾――制度を整えても農家を守れなければ意味がない

日本農政の構造的な問題が表れているのが、コメと酪農である。両者に共通するのは、短期的な需給調整と長期的な生産能力の維持をどう両立させるかという課題だ。

コメと酪農に共通する経営課題。食料システム法による価格協議と生産基盤維持の重要性を示す。(AI生成画像/クリックすると拡大します)
コメについては、政府が2018年に行政による生産数量目標の配分を廃止したものの、需要に応じた生産を促す政策や、水田での転作支援は続いてきた。需要が減少する中で供給量を調整することには合理性がある。しかし、供給余力を小さくしすぎれば、不作や需要の変化が生じた際に価格が急騰しやすくなる。反対に、需要を無視した過剰生産が続けば価格は下がり、生産者の経営を圧迫する。

さらに、農家が経営を継続できる販売価格と、消費者が購入しやすい価格をどう両立させるかという問題がある。肥料、燃料、農業機械、人件費などが上昇する中で、販売価格が生産費を十分に賄えなければ、農家は経営を続けられない。一方、主食であるコメの価格が高騰すれば、消費者の負担が増え、国産米の需要にも影響する。

本ブログでは、2025年5月の備蓄米の流通制度をめぐる論考で、コメの生産量だけでなく、備蓄米の販売方法や流通経路が消費者への供給に及ぼす影響を問題にした。生産量を確保しても、必要なときに消費者へ円滑に届けられなければ、安定供給は実現しない。yutakarlson.blogspot.com

政府も、こうした問題を放置しているわけではない。2026年4月には、通称「食料システム法」の食品取引適正化に関する規定が施行され、生産から流通・販売に至る取引で、持続的な供給に必要な合理的費用を考慮した価格形成を促す仕組みが始まった。米穀や飲用牛乳などは、コスト指標の活用を想定した指定品目となっている。ただし、法律が生産費の全額転嫁や農家所得を保証するわけではない。売り手と買い手に適切な協議などを求め、その実施を促す制度である。(農水省「合理的な費用を考慮した価格形成」)。Ministry of Agriculture

さらに2027年度からは、水田活用の直接支払交付金を根本的に見直し、水田を対象とした支援から、作物ごとの生産性向上などを支援する仕組みへ転換する方針が示されている。いわゆる「5年水張り要件」も求めないこととされ、米の需要拡大やスマート農業技術の活用などを進める方針である。これは単純な増産政策ではなく、作物ごとの生産性向上と需要拡大を通じて、農業経営と国内供給を強化しようとする制度転換である。(農水省「水田政策の見直しの方向性」)。Ministry of Agriculture

問題は、こうした制度改革が実際に何を変えるかである。価格交渉が改善しても、農家所得や経営の継続に結び付かなければ十分ではない。水田政策を見直しても、必要な農地の維持や生産性の向上が実現しなければ、食料安全保障の強化にはつながらない。

酪農でも同様の問題が存在する。農水省の2025年畜産統計によれば、乳用牛の飼養戸数は1万1,300戸で、前年より5.0%減少した。飼養頭数も129万3,000頭となり、1.5%減少している。一方、2024年度の全国の生乳生産量は前年度比0.7%増加しており、飼養戸数や頭数の減少が直ちに生乳生産量の減少を意味するわけではない。経営の大規模化や生産性の変化も併せて見る必要がある。Ministry of Agriculture

それでも、酪農経営の継続には難しい課題がある。乳牛は毎日搾乳する必要があり、需要に応じて短期間で生産を増減させることはできない。飼養頭数を減らせば、再び増やすには長い時間がかかる。加えて、輸入飼料への依存が大きいため、国際穀物価格や為替相場、輸送費の変動が経営を圧迫する。

北海道をはじめとする酪農地帯では、酪農家の廃業は地域経済にも影響する。飼料生産、運送、乳業工場、農業機械など、多くの関連産業が酪農を支えているからだ。必要なのは、生乳の需給調整だけでなく、国内飼料の生産拡大、経営コストの急変への対応、生産者の所得安定を組み合わせることである。

コメも酪農も、短期的な需給調整を優先するあまり、将来の供給能力を失ってはならない。

そのためには、市場での適正な価格形成に加え、収入減少への備えや、生産基盤の維持に必要な支援を組み合わせる必要がある。生産者の経営を守る費用を、消費者価格だけに負担させることが適切なのかという問題も、避けて通れない。

制度を改正したこと自体を成果としてはならない。農家が生産を続けられるようになったか、国内の供給能力が維持・強化されたか。政策は、その結果によって評価されるべきである。

3️⃣フードテックへの投資と既存農業の維持――武部新農水相に問われる政策の優先順位

10月15日、高市首相は武部新農水相に対し、食料安全保障の強化とともに、フードテックを含む新技術の活用を指示した。

フードテックとは、食品を意味する「フード」と技術を意味する「テクノロジー」を組み合わせた言葉であり、先端技術を使って食料の生産・加工・供給を革新する取り組みを指す。 植物工場、陸上養殖、新しい食品の開発、食品製造へのAIやロボットの導入などが代表例である。政府は、こうした技術の国内普及に加え、海外展開にも期待を寄せている。(首相官邸・2026年10月15日会見)。kantei.go.jp

技術革新は我が国の農業にとって重要である。人手不足への対応、生産性の向上、気候変動への適応など、多くの可能性を持つ。しかし、新技術への投資を進めることと、現在の農業生産基盤を維持することは、同じではない。

植物工場には天候に左右されにくい利点がある一方、施設の建設費や電力費がかかる。陸上養殖にも生産環境を管理しやすい利点があるが、設備費や飼料費が課題となる。いずれも有望な技術ではあるものの、水田農業や酪農をそのまま代替できるわけではない。新しい食品技術についても、量産化や採算性、消費者の受容などを検証する必要がある。

農水省は2025年12月、フードテックワーキンググループを設置し、植物工場、陸上養殖、食品機械、新規食品の4分野について、官民投資の方向性を検討してきた。ただし、この検討組織が個別事業への予算配分を最終決定するわけではない。政府の予算案は内閣が編成し、国会の議決によって予算が成立する。ワーキンググループの役割は、その政策立案に資する検討や提案を行うことである。(農水省「フードテックワーキンググループ」)。Ministry of Agriculture

今後問われるのは、投資額の大きさだけではない。新技術によって実際にどれだけ生産量が増え、コストが下がり、国内の供給能力が強化されるのかということである。技術開発の成果が事業化につながらなければ、食料安全保障への貢献は限定的となる。

本ブログでは、2025年11月のコメと日本農業をめぐる論考でも、伝統的な農業を単に保存するのではなく、機械化やスマート農業によって生産基盤を維持する必要性を指摘した。技術革新と既存農業の維持は対立するものではない。新技術を活用して農業の生産性を高め、農家が経営を続けられる環境を整えることが重要なのである。

もう1つ問われるのが、財政資金の使い方である。

食料安全保障を強化するには、農地整備、農業者の育成、国内飼料生産、備蓄施設、新技術などへの投資が必要となる。しかし、予算を増やせば必ず供給能力が強化されるわけではない。支援制度の設計が不適切であれば、十分な成果につながらず、特定の事業者への利益集中を招くおそれもある。

本ブログでは2026年10月の基金7兆円をめぐる論考で、政府の支出は削減額だけでなく、政策の成果によって評価すべきだと指摘した。農政にも同じ考え方が当てはまる。必要な財政投資は確保し、その投資が国内の生産能力をどれだけ維持・強化したかを検証しなければならない。

農地や農業施設、人材、技術は、長年にわたる投資によって蓄積される生産資産である。これらの維持・強化に向けた財政支出には、将来の供給力を形成するという役割がある。したがって、単年度の財政負担を抑えることだけを目的として、必要な投資まで削減することには慎重でなければならない。

政府が2025年4月に閣議決定した食料・農業・農村基本計画でも、政策目標と成果指標を設定し、達成状況を検証する方針が示されている。重要なのは、その検証を形式的なものに終わらせないことである。

技術革新と担い手の確保で、次世代へ引き継ぐ日本農業の生産基盤。(AI生成画像)
農業経営体が減少していても、生産性が高まり、必要な生産量や農地が維持されていれば、政策の成果として評価できる部分はある。一方、大規模化が進んでも条件不利地域の農地が失われ、地域の生産基盤が維持できなくなっているなら、別の対策が必要となる。

コメでは生産量、備蓄、農家所得、消費者価格を、酪農では飼養基盤、生乳生産量、飼料自給率、経営コストを確認する。フードテックについても、研究開発費や設備投資額だけでなく、生産性と供給能力への効果を検証する。これらを食料安全保障という共通の目的に照らして評価しなければならない。

武部氏は北海道12区選出で、農水副大臣や自民党農林部会長を経験してきた。北海道はコメ、畑作、酪農、畜産など、我が国の食料生産を支える重要な地域である。農業の現場を知る立場から、制度の運用と実際の成果を結び付ける政策運営が問われる。

新技術への投資と既存農業への支援を対立させてはならない。必要なのは、両者を通じて国内の食料供給能力をどれだけ強化できるかという視点である。

農政の優先順位は、政策の新しさや予算額の大きさではなく、国民生活と国益にどのような成果をもたらすかによって判断されるべきである。

結論――大臣の辞任で幕を引かず、農政の実態を問うべきである

簗農水相の辞任によって、閣僚人事は1つの区切りを迎えた。しかし、日本農業が抱える問題は解決していない。

農業経営体の減少が続き、飼料や肥料原料の輸入依存は大きい。コメと酪農では、短期的な需給調整と長期的な生産能力の維持を両立させるという難題が残っている。

政府は食料安全保障の強化を掲げ、食料供給困難事態対策法や食料システム法を施行し、2027年度からの水田政策見直しも進めている。フードテックへの投資も推進する方針である。しかし、法律をつくり、制度を改正し、予算を計上したこと自体が成果なのではない。重要なのは、それによって我が国の食料供給能力が実際に維持・強化されることである。

農業の生産能力は、いったん失われれば容易に回復できない。農地、人材、家畜、技術を維持するためには、農業者が平時から経営を続けられる条件を整える必要がある。これは農業従事者だけの問題ではない。食料の安定供給、地域経済の維持、輸入途絶への備えという観点から、国民全体の利益に関わる課題である。

だからこそ、国会や報道機関には、農水相の進退だけでなく、農政の制度と実際の成果を検証することが求められる。政治家の問題発言や選挙運動の適法性を追及することは必要だが、それによって国民の食料を守るという、農政本来の課題が後回しになってはならない。

武部新農水相には、既存の政策を継承するだけでなく、その成果を検証し、必要な改革に取り組んでほしい。食料システム法による価格形成の改善は、農業者の経営安定につながるのか。水田政策の見直しは、国内の生産能力を強化するのか。フードテックへの投資は、既存農業の維持と両立し、実際の供給力向上につながるのか。こうした問いに、具体的な政策と数字で答える必要がある。

農業を単なる成長産業としてだけでなく、国家の存立を支える基盤として捉え、国内の供給力を強化すること。それこそが、農政に求められる役割である。

簗農水相の辞任で幕を引いてはならない。武部新農水相には、制度を整えただけで成果とする従来の発想を超え、農家の経営と国内生産基盤を守る実効性ある改革に取り組んでほしい。

問われるべきなのは、大臣交代という政治的な出来事ではない。日本の農政が、国民の食料を守るという本来の使命を果たせているかどうかなのである。

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2026年9月29日火曜日

なぜ「船体」が重要物資になったのか――日本の造船再生は産業政策を超えた経済安全保障

まとめ

  • 日本には、設計力、造船所、そして舶用機器の約9割を国内で供給できる産業基盤がまだ残っている。失ってから再建するより、今こそ供給力を立て直すべき時である。
  • 米国はリバティ船2710隻を建造した国でありながら、現在は商船建造能力を大きく縮小した。一度失われた造船の産業生態系は、巨額の資金を投入しても簡単には戻らない。
  • 中国は圧倒的な建造量を背景に、部品、高付加価値船、技術力まで伸ばしている。日本が守るべきものは造船所だけではなく、「必要なときに船を造れる国」という国家資産である。

2025年12月、政府は政令を改正し、すでに経済安全保障推進法上の特定重要物資に指定されていた「船舶の部品」の範囲に、船体を構成するものを追加した。2026年2月には国土交通大臣が安定供給確保のための取組方針を改定し、9月には具体的な供給確保計画の認定が始まった。つまり、「船体」は国土交通省が単独で重要物資に指定したのではない。政令によって特定重要物資の対象に加えられ、国土交通大臣が所管大臣として具体的な供給確保計画を認定・支援する制度なのである。内閣府「サプライチェーン強靱化の取組」 国土交通省「船舶の部品の安定供給確保について」 内閣官房

半導体でもレアアースでもない。船そのものを形づくる船体である。一見すれば、衰退してきた造船業への産業支援に見える。しかし、我が国はエネルギーや食料をはじめ、貿易量の99%以上を海上輸送に依存する。必要な船を安定して確保できなくなれば、影響は一業界の業績にとどまらず、国民生活と経済活動そのものに及ぶ。政府が造船を経済安全保障の問題として扱い始めた理由はここにある。国土交通省

しかも造船能力とは、ドックの数だけではない。船を設計する技術者、鋼材を加工する企業、エンジンやプロペラ、電気機器などを供給するメーカー、熟練技能者、修繕拠点までがつながって初めて一隻の船になる。その産業生態系は、失ってから予算を積めば数年で買い戻せるものではない。米国の現在がそれを示し、中国の急拡大がその反対側を示している。

1️⃣日本にはまだ「造船できる国」の土台が残っている

2025年12月に国土交通省と内閣府が策定した「造船業再生ロードマップ」は、2024年時点で907万総トンだった我が国の建造能力を、2035年に1800万総トンへ引き上げる目標を掲げた。ほぼ倍増である。柱は設備増強だけではなく、人材の確保・育成、脱炭素化などを通じた技術革新、安定需要の確保、同志国・グローバルサウスとの連携にまで及ぶ。国土交通省「造船業再生ロードマップ」 国土交通省

その構想が今年、巨額の設備投資へ移り始めた。国土交通大臣は9月4日に3件、11日に5件、計8件の船体に係る供給確保計画を認定した。8計画を合わせた官民投資は総額約9000億円規模で、支援額は最大約3110億円である。省力化・自動化設備だけでなく、ドックの拡張や大型クレーンの導入も対象となる。国土交通省「造船業再生基金に係る供給確保計画の認定」 国土交通省

日本の造船を支える船舶用エンジン製造現場 AI生成画像
ここで見落としてはならないのが、日本にはまだ厚い産業基盤が残っているという事実である。OECDの2026年レビューによれば、2022年に日本で建造された船に搭載された舶用機器の約92%は国内製だった。これは「船の全構成部品の92%」という意味ではなく、あくまで舶用機器についての数字であるが、それでも国内供給網の厚さを示す重要な指標である。2019年の87%からも上昇している。OECD「Peer Review of the Japanese Shipbuilding Industry 2026」 OECD

日本の強みは部品供給だけではない。OECDは、日本が高付加価値船において強いエンジニアリング能力、品質管理、納期の信頼性を維持していると評価する。2024年のCGTベースでも日本は中国、韓国に次ぐ世界第3位の造船国であり、「何も残っていない衰退産業」ではない。OECD

だからこそ、今が重要なのである。建造量が一定水準を下回れば、造船所だけが痩せるのではない。舶用機器メーカーの仕事が減り、技能者が離れ、設計者を育てる理由が薄れ、研究開発投資も細る。造船は企業単位ではなく、産業全体のつながりとして弱っていく。

我が国の課題は、消えてしまった産業をゼロから復活させることではない。設計、舶用機器、人材、造船所がまだ同時に残っているうちに、供給力を再び厚くできるかどうかなのである。

2️⃣リバティ船2710隻から年3~5隻へ――米国が失い、中国が積み上げたもの

造船産業の恐ろしさは、一度失うと再建に時間がかかることにある。その典型が米国である。

第二次世界大戦中、米国は標準型貨物船「リバティ船」を2710隻建造した。標準設計、溶接、部材の事前製作、ブロック化を組み合わせた大量建造であり、カイザー系造船所では建造期間が当初の197日から14日程度まで短縮された。記録競争で建造されたロバート・E・ピアリー号は、起工から進水までわずか4日15時間余りだった。ただし、これは通常の建造期間ではなく、速度記録を狙った特殊な事例である。米海軍歴史部「Liberty Ship」関連資料 海軍歴史センター

重要なのは「4日」という数字そのものではない。米国では1936年商船法を契機に平時から商船建造計画が進められ、それを戦時に巨大な鉄鋼業、機械産業、造船所、労働力と結び付けた。だから標準設計を数千隻の実物へ転換できたのである。リバティ船は、設計力と大量生産力が一つの産業システムとして結び付いていた時代の米国を象徴している。国立公園局

リバティ船を大量建造した第二次世界大戦時の米国造船所 AI生成画像
現在との差は大きい。米運輸省海事局向けにまとめられた2026年の議会要請による独立研究は、米国内の大型外航商船の平時建造能力を年3~5隻程度としている。研究に参加した専門家は、既存造船所からこれを年10隻程度へ増やすにも約2年、年20隻規模へ拡大するには約3年を要すると試算した。しかもこれは一定の前提を置いた概算であり、同報告自身が不確実性を明記している。海事局

米国が船の設計能力まで失ったわけではない。少なくとも海軍分野では、Naval Surface Warfare CenterのCarderock Divisionが、水上艦・潜水艦の船型、推進、構造、材料、システム統合まで高度な研究・設計能力を保持している。米海軍Carderock Division「Ship Integration and Design」 NAVSEA

問題は、優れた設計能力を持つことと、それを予定通り大量の船へ変えられることは別だという点である。米政府自身も2026年8月の大統領覚書で、米国の造船産業基盤を「atrophied(萎縮した)」と表現し、造船所の能力不足と競争不足、隣接する供給基盤の弱体化が遅延とコスト増を招いているとの認識を示した。ホワイトハウス「Rebuilding the United States Navy and America’s Shipbuilding Industrial Base」 The White House

一方、反対側で巨大な製造能力を積み上げてきたのが中国である。中国工業情報化部の2026年上半期統計によれば、中国の造船完工量は世界の62.2%、新規受注量は82.3%、受注残は71.2%を占めた。いずれも載貨重量トン、DWTベースであり、船種ごとの建造難易度を調整するCGTとは異なるので、数字をそのまま技術力の比率とみなすことはできない。それでも、世界の建造能力が中国に大きく集中していることは明らかである。中国・2026年上半期造船統計 福建省人民政府

中国についても、「安く大量に組み立てるだけ」と見るのは危険である。大量生産は、それ自体が経験、工程データ、コスト低下、部品企業の育成につながる。中国はその規模を背景に、高付加価値船や低炭素技術へ領域を広げている。ただし、OECDによれば、ディーゼルエンジン、スマートブリッジ、プロペラ関連など一部の高付加価値舶用機器では、なお中国は貿易赤字を抱えている。日本の「92%」と同じ定義の中国の全国一律国内調達率は確認できないため、安易な数字の横並びは避けるべきである。OECD

ここで、以前の記事「中国、9月15日に出国規制を強化――『大量生産大国』なのに、なぜ人も金も外へ出たがるのか」で論じた視点も補助線になる。2026年9月15日に施行された中国国務院の新しい出入国管理規定は、輸出管理や技術輸出入管理への違反が国家の産業安全・技術安全を害する可能性がある場合、国務院の商務など関係主管部門が中国公民を出国禁止にできると定めている。これは造船人材の流出対策を直接目的とした制度ではない。そのように断定すべきではないが、産業競争力を考えるとき、量産能力だけでなく、技術、人材、資本を国内に蓄積できる環境も見る必要があるという論点にはつながる。以前の記事「中国、9月15日に出国規制を強化」 Zibo FAO

米国は高度な設計能力を残しながら、大量建造へ転換する産業基盤を弱めた。中国は巨大な建造量を土台に、部品や高付加価値技術へ裾野を広げている。そして日本には、規模を縮小させながらも、設計・エンジニアリング、舶用機器、造船所がまだ同時に残っている。

この違いこそ、我が国が今動くべき理由である。

3️⃣守るべきは造船所だけではない――「造船できる国」という国家資産

日本の造船再生を、中国との建造量競争だけにしてはならない。人口減少が進む我が国が、大量の労働力を投入し、価格と数量だけで競うモデルには限界がある。日本に残っている設計、品質管理、省エネルギー技術、舶用機器、生産技術を、AI、ロボット、デジタル設計、自動化と結び付ける必要がある。

国土交通省は2026年、AI造船ロボットなどに関する研究開発事業を14件採択した。大学、研究機関、AI・ロボット企業、造船事業者などを結び、曲げ加工や溶接で使うAI造船ロボットや、ロボットを効率的に配置するためのシミュレーション技術などの研究を進めている。狙いは、昔の造船所をそのまま大きくすることではない。人手不足の下でも高い供給力を維持できる生産方式へ変えることにある。国土交通省「AI造船ロボット等に係る研究開発事業」 国土交通省

AI・ロボット化が進む次世代造船所のイメージ AI生成画像
ここで日米協力にも意味が出てくる。2025年10月28日、金子国土交通大臣とラトニック米商務長官は、両国の建造能力拡大、人材育成、AI・ロボットなどの先進建造技術、先進船舶の設計・機能開発を含む造船協力覚書に署名した。これは国土交通省と米商務省だけの企業支援策ではなく、両政府間の覚書であり、その後、関係省庁を含む作業部会へつながっている。国土交通省「日米両国の造船能力拡大に向けた協力を促進」 国土交通省

さらに9月18日、国土交通省は日米連携によるAI造船技術の研究開発を加速すると発表した。日本側関係者が米国を訪問し、AI造船ロボットやAIシミュレーション基盤などの共同開発について協議している。国土交通省「日米連携によるAI造船技術の導入に向けた研究開発を加速化」 国土交通省

日米協力を「日本が米国の船を代わりに造る話」とだけ見るのは狭い。米国には大きな需要と海軍分野を中心とする高度な研究・設計能力がある。日本には造船所、設計・エンジニアリング能力、舶用機器メーカー、生産技術が残る。両者を組み合わせる余地は大きい。

ただし、日本にとって目的は米国造船業の救済ではない。日米協力を我が国自身の建造能力、研究開発力、人材、部品供給網の強化へ結び付けることである。国内の設計部門や舶用工業が細り、技術や投資だけが外へ流れるなら、経済安全保障政策としては本末転倒である。

2035年の1800万総トンという目標も、その意味で見るべきだ。建造量を確保すれば、造船所に仕事が入り、エンジン、プロペラ、電気機器、素材、設計、修繕にも需要が波及する。企業が若い技能者や技術者を採用し、次の研究開発へ投資する理由も生まれる。政府支出が一時的な需要で終わらず、民間の設備、人材、技術として残れば、それは将来の供給力を生む国家資産形成になる。

結論 失ってから買い戻すのでは遅い

世界の造船業を見ると、3つの姿が浮かぶ。

中国は世界最大の建造能力を持ち、その規模を部品、高付加価値船、技術開発へつなげようとしている。中国の量産力を過小評価すべきではない。同時に、建造シェアの高さと、あらゆる高度部品や技術で完全に自立していることは同義でもない。

米国は、かつてリバティ船2710隻を生み出した巨大な製造基盤を持っていた。現在も少なくとも海軍分野では高度な設計・システム統合能力を保持するが、それを大量の実物へ転換する造船・供給基盤の再建に苦しんでいる。

そして日本は、そのどちらとも違う。建造量は縮小した。しかし、高度なエンジニアリング能力がある。造船所がある。熟練技能がある。日本建造船に搭載される舶用機器の約92%を国内で生産できる供給網も残っている。

だから、日本の造船再生を「衰退産業への救済」とだけ見るべきではない。

我が国には、米国のように産業基盤を大きく失ってから巨額の資金で買い戻そうとするのではなく、設計、部品、人材、造船所がまだつながっているうちに立て直す余地が残っている。

船を設計する人がいる。エンジンやプロペラを造る企業がある。それらを一隻の船へ統合する造船所がある。船を修繕できる拠点があり、次の技術へ投資する企業がある。その連鎖全体が「必要なときに船を造れる国」という能力をつくる。

リバティ船の時代の米国が示したのは、その能力を持つ国の圧倒的な供給力だった。現在の米国が示しているのは、一度それを弱らせれば、世界最大級の経済力を持つ国でも短期間には取り戻せないという現実である。そして中国が示しているのは、大量生産そのものが経験と技術を蓄え、次の競争力をつくるという現実である。

日本が学ぶべきなのは、どちらかをそのまままねることではない。我が国にまだ残る設計力、舶用工業、製造能力、人材をつなぎ直し、AIやロボットを加えて供給力を厚くすることである。

海上輸送によって国民生活と経済を支える我が国が、設計から部品、建造、修繕までの選択肢を自ら持ち続けられるか。

造船再生で問われているのは、過去の世界シェアを取り戻すことではない。「船を造れる国」という国家資産を、次の世代へ残せるかどうかなのである。

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2026年9月27日日曜日

石油危機から半世紀、日本は石油依存を減らした――それでも残るエネルギー安全保障の穴


 まとめ
  • 日本は石油危機後、石油依存を大幅に下げ、電源分散、省エネルギー、LNGの世界的調達網、LPGの供給先転換を進めてきた。日本の半世紀を単純な「中東依存の失敗」と見るのは正しくない。
  • 一方、中東は現在も原油だけでなく、石油製品、ナフサ、化学品、アルミニウムなど、日本の産業を支える重要物資の供給地である。したがってホルムズ問題は、原油価格だけではなく供給網全体の問題として見る必要がある。
  • 次の課題は中東依存率を機械的に下げることではない。備蓄、代替調達、原子力、LNG、国内電源、海運、基礎素材の調達分散を組み合わせ、一つの供給源が止まっても日本経済を止めない「日本版エネルギードミナンス」を構築することである。

1973年の第一次石油危機から半世紀以上が過ぎた。現在のホルムズ海峡をめぐる危機を見ると、日本が輸入する原油の9割以上が同海峡を経由しているという数字が目につく。しかし、この数字だけを見て「日本は石油危機から何も学ばなかった」と考えるのは正しくない。

実際、日本はこの半世紀で石油への依存そのものを大幅に減らしてきた。発電では石油火力を主役から降ろし、LNG、原子力、石炭、再生可能エネルギーなどへ電源を分散した。産業界では省エネルギーが進み、LNGでは世界各地から調達する巨大な供給網を築いた。LPGでも中東依存を大幅に引き下げている。

つまり、石油危機後の日本のエネルギー政策は、少なくとも「石油一本足打法から脱する」という点では相当程度成功した。

では、なぜ現在のホルムズ危機がこれほど重要なのか。

理由は単純である。石油への依存は下がっても、日本が中東から調達する重要物資がなくなったわけではないからだ。原油だけでなく、石油製品、ナフサなどの石油化学原料、アルミニウムを含む非鉄金属、有機化合物など、日本の産業を支える物資が中東から入っている。

したがって、今回考えるべき問題は「日本はまだ石油に依存している」という話ではない。

石油依存をかなり減らした日本が、それでも残る中東との供給網を、危機のときにも止めないために何をすべきか。

ここが本稿の中心である。

1️⃣日本は石油危機から相当程度、学んできた

1973年10月、第四次中東戦争を契機として産油国による供給制限や価格引き上げが進み、原油価格が急騰した。当時の日本は一次エネルギー供給の75.5%を石油に依存しており、物価高騰や物不足が社会を直撃した。第一次石油危機が日本のエネルギー政策を根本から変えた経緯は、資源エネルギー庁「日本のエネルギー、150年の歴史」に整理されている。

日本がその後に行ったのは、単なる原油輸入先の変更ではない。石油そのものへの依存を減らし、原子力、天然ガス、石炭などへエネルギー源を分散するとともに、省エネルギーを進めた。

石油危機後、日本のエネルギー構成は大きく多様化 AI生成画像 クリックすると拡大します
その成果は明確である。一次エネルギー国内供給に占める石油の割合は、1973年度の75.5%から2024年度には34.5%まで低下した。資源エネルギー庁「総合エネルギー統計」で確認できるように、日本経済全体で見れば石油依存度は石油危機当時の半分以下になっている。

発電では変化がさらに大きい。2023年度の発電電力量を見ると、LNG32.9%、石炭28.3%、新エネルギー等15.3%、原子力8.5%、水力7.6%に対し、石油等は7.4%である。資源エネルギー庁「エネルギー動向2025年6月版」が示すように、発電を石油に大きく依存していた時代から、複数の電源を組み合わせる構造へ移行した。

産業部門でも省エネルギーが進んだ。第一次石油危機以降、日本の製造業は生産を伸ばしながらエネルギー効率を改善してきた。背景には設備の効率化に加え、素材型産業から加工組立型産業への産業構造の変化もある。資源エネルギー庁「部門別エネルギー消費の動向」を見ると、日本は「別の石油を探す」だけではなく、そもそも同じ経済活動に必要なエネルギー量を減らしてきたことが分かる。

LNGとLPGも重要である。日本は国内に巨大な天然ガス田を持たない。それでも海外権益、長期契約、LNGタンカー、商社、受入基地、貯蔵・再ガス化設備を組み合わせ、世界各地から天然ガスを調達する巨大な仕組みを築いた。以前このブログで「日本はLNG帝国となった」と書いたのは、この構造を指している。

LPGではさらに大きな転換が起きた。資源エネルギー庁「エネルギー動向2025年6月版」によれば、LPガス輸入の中東依存度は2011年度の86.6%から2023年度には4.7%まで低下した。北米からの調達拡大によって、供給源を大きく組み替えたのである。

この半世紀を振り返れば、日本は石油危機から何も学ばなかったどころか、石油依存の低減、電源の分散、省エネルギー、LNG・LPGの調達多角化を着実に進めてきた。

それでも弱点は残った。

その最大のものが原油である。石油危機後、原油の中東依存度は1987年度に67.9%まで低下したが、その後再び上昇した。中国や東南アジアの産油国で国内需要が増え、日本への輸出余力が減ったことや、ロシア産原油の減少、中東の圧倒的な供給力などが重なったためである。資源エネルギー庁「原油の輸入先と中東依存度の推移」

したがって、現在の状況を正確に表現するならこうなる。

日本は石油依存そのものを大幅に下げることには成功した。しかし、なお必要とする原油については、中東への集中が再び進んだ。

2️⃣中東リスクは原油だけを見ても分からない

ここで視野を一段広げる必要がある。日本の石油依存度が低下したからといって、中東の重要性まで同じ割合で低下したわけではない。

2025年の日本の中東からの輸入を見ると、原油・粗油が圧倒的に大きい。しかし、それだけではない。石油製品、LNG、非鉄金属、有機化合物なども輸入している。JETRO「中東リスクと物流――日本と中東の貿易とホルムズ海峡封鎖の影響」によれば、日本の中東からの輸入はエネルギーを中心としながらも、その周辺に産業用素材の供給網が広がっている。

中東からは原油だけでなく、ナフサやアルミなど基礎素材も入る AI生成画像 クリックすると拡大します
その一つがナフサである。ナフサはプラスチックや化学製品の基礎原料であり、供給が滞れば影響は燃料価格だけにとどまらない。包装材、化学繊維、塗料、樹脂など、製造業の川下まで波及する。

2026年3月、経済産業省は中東情勢を受け、ナフサについても米国や南米などからの代替調達、国内精製、在庫活用によって供給を確保する方針を示した。経済産業省「2026年3月17日大臣記者会見」

アルミニウムも見落とせない。湾岸諸国は安価なエネルギーを背景に大規模なアルミ精錬産業を育ててきた。例えばUAEからの日本の輸入では、原油・石油製品が中心である一方、非鉄金属も一定の比重を占める。JETRO「アラブ首長国連邦の貿易投資年報」を見ると、日本にとってUAEは単なる産油国ではなく、基礎素材の供給国でもある。

サウジアラビアからも同様に、鉱物性燃料だけでなく、化学製品、有機化合物、非鉄金属を輸入している。JETRO「サウジアラビアの貿易投資年報」

ここから見えてくるのは、ホルムズ海峡の問題が「ガソリンが高くなるか」という話だけではないということだ。

原油が止まれば燃料に影響する。ナフサが止まれば化学製品に影響する。アルミニウムなどの素材輸送が滞れば、自動車、建材、電線、電子機器などへ影響が広がる。

ただし、ここから「中東から買うのをやめるべきだ」という結論を出すのも適切ではない。中東産原油には価格や供給量の面で合理性があり、湾岸のアルミ産業にも競争力がある。平時に経済合理性の高い供給源を利用することそのものは問題ではない。

本当に重要なのは、止まったときに代替できるかどうかである。

2026年の中東危機では、高市政権は国家備蓄などで時間を確保しながら、米国、中南米、アジア太平洋、中央アジア、アフリカ、カナダなどへ原油の調達先を広げた。6月11日の中東情勢に関する関係閣僚会議では、6月の代替調達量が必要量の約8割まで拡大し、7月には通常時に近い量をホルムズ海峡外から調達できる見通しが示された。

この事実は重要である。原油のホルムズ依存が高くても、備蓄、商社、海運、外交、製油所の対応力を組み合わせれば、危機時に供給ルートを切り替えることができる。

したがって、エネルギー安全保障を「中東依存率が何%か」だけで評価するのは不十分である。

平時の依存率より、有事の代替能力の方が重要なのである。

3️⃣依存率を下げるより、「止められない国」をつくる

ここまで整理すると、日本が次に目指すべき方向は明確になる。

それは、中東依存を数字合わせで引き下げることではない。中東との経済関係には大きな合理性がある。必要なのは、その合理性を利用しながら、一つの地域や航路に問題が起きても日本経済が止まらない体制をつくることである。

その原型は、すでにLNGで作っている。日本は国内に大規模な天然ガス資源を持たなくても、海外権益、長期契約、LNGタンカー、受入基地、商社、金融を組み合わせ、世界からエネルギーを確保する能力を築いた。LPGでも供給源を大きく転換した。

この能力を原油、電力、基礎素材まで広げるべきである。

LNG、原子力、地熱などを組み合わせる日本版エネルギードミナンス AI生成画像
原油については、中東産を利用しながら、北米、中南米、中央アジアなどの調達ルートも維持する。備蓄、タンカー、海上保険、港湾、製油所を一つの供給網として考え、危機時には速やかに切り替えられるようにする。

ナフサなど石油化学原料についても、複数の供給先を確保し、国内精製能力と在庫を維持する。アルミニウムなどの基礎素材については、調達先の分散だけでなく、国内リサイクルの拡大も重要になる。

電力では、安全性を大前提に原子力を最大限活用し、次世代革新炉を育てる。地熱、水力など国内で確保できる電源も重要である。LNG火力は調整力と安定供給の面で引き続き役割を持つ。省エネルギーも、CO2削減策というだけではなく、外国から買わなければならない資源の量を減らす安全保障政策として考えるべきだ。

高市政権も2026年8月26日のGX実行会議で、中東危機を受け、原油・ナフサの調達先多角化、石油関連製品の供給体制強化、安全性を前提とした原子力の最大限活用、次世代革新炉、次世代地熱などを組み合わせ、エネルギー需給構造を強靱化する方針を示している。

本稿でいう「脱・脱炭素」とは、CO2削減技術を否定することではない。脱炭素そのものを政策の最上位目的に置き、そこからエネルギー政策すべてを逆算する発想から脱するという意味である。

最上位に置くべきなのは、国民生活と産業に必要なエネルギーを、安定的に、十分な量を、許容可能な価格で供給できるかどうかである。その条件を満たしながらCO2も減らせるなら、それに越したことはない。

日本版エネルギードミナンスとは、米国のように大量の石油や天然ガスを自国で産出することではない。

一つの国、一つの地域、一つの航路、一種類のエネルギー源が止まっても、別の選択肢へ切り替えられる国家能力を持つことである。

さらに今回の中東危機は、対象をエネルギーだけに限定することもできないと示した。原油、ナフサ、化学品、アルミニウムなどは、日本の製造業の中で連続した供給網を形成している。

したがって、日本が目指すべきものを一言で表すなら、

「エネルギーと基礎素材を止められない国」

ということになる。

結語 日本は石油危機の次の段階へ進むべきだ

第一次石油危機から半世紀、日本は石油への依存を大幅に下げた。発電では石油火力を縮小し、LNG、原子力、石炭、水力、再生可能エネルギーへ分散した。産業では省エネルギーを進め、LNGでは世界規模の調達網を構築し、LPGでは中東依存を大きく減らした。

石油危機の教訓の多くは、すでに日本のエネルギー構造に反映されている。

それでも中東は重要である。原油だけでなく、石油製品、ナフサ、化学品、アルミニウムなど、日本の産業を支える物資が中東から入っているからだ。

だから問題は、「中東依存をなくすべきか」ではない。

経済合理性の高い中東との取引を続けながら、そこに何か起きても日本経済が止まらない能力を持てるかどうかである。

平時には合理的な供給源を利用する。有事には備蓄で時間を稼ぎ、別の国、別の航路へ切り替える。長期的には原子力、LNG、地熱、水力、省エネルギーなどによって海外資源への依存そのものを抑える。さらにナフサやアルミニウムなどの重要素材についても、供給先の分散と国内能力の強化を進める。

第一次石油危機の本当の教訓は、「石油を使うな」ではなかった。

一つの資源、一つの地域、一つの航路が止まっただけで、国全体が止まる構造を作るな、ということである。

日本は石油依存を減らすところまでは、相当程度やってきた。

次に必要なのは、エネルギーと基礎素材を含む供給網全体を、危機に強いものへ変えることだ。

日本に必要なエネルギードミナンスとは、外国を資源で支配することではない。

外国の事情だけで、日本の経済と国民生活が支配されないだけの選択肢を持つことである。

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